03 松山
日暮れの都心を走る黒塗りの車の中は、重苦しい空気が流れていた。
助手席に座る武田は車に乗り込んでからずっと難しい顔のままで、最初に目的地を指示した以外は一言も喋っていない。
運転席の松山は、バックミラーで後部座席の女の様子をチラリと見る。
薄汚れた病衣1枚を身に着けただけの、異様な雰囲気の女が後部座席に一人で座っていた。
20代後半の松山とそう年の変わらないくらいの年齢に見える。
造形はそれなりに整った顔立ちをしていて、スタイルも良さげなのだが・・・。
足元は素足のままで、靴も履いていない。
真冬なのに、身に着けているものはその薄汚れた薄い病衣一枚きりだった。
〝まとも〟には見えない。
そもそも、松山が最初に女を見た時、女は拘束衣を着て隔離側の面通し部屋の真ん中に置かれた椅子にひとり座っていた。
何者かまだ知らされておらず、まったく情報を持っていない。
松山がモヤモヤしているのは女の姿だけでは無い。
女は武田と一緒に『こちら側』の面通し部屋から出て来た。
廊下で待機していた松山はぎょっとしたのだが、それにはお構いなしに女はスタスタと外部へ向かって廊下を去って行った。
状況が見なえい松山が立ち尽くしていると、女について部屋から出て来た武田から「一緒に来い、車を裏へ回せ。しばらく我々二人で監視する事になった。」と声を掛けられた。
訳の判らないまま言われた通りに通用口へ車を回すと、そこに待っていた女は無言無表情なまま車に乗り込んで来て、後部座席で踏ん反り返ったのだ。
助手席に乗り込んで来た武田も無言無表情で、どういう状況なのか松山への説明は一切無い。
面通し部屋の中で何があったのか知らない松山には困惑しか無い。
謎だらけ。
最大の疑問は、鏡面側の部屋に居た筈の女が何故か幹部達の居る部屋から武田と一緒に出て来た。
どうやって隣の部屋から移動したのか?
面通し部屋の入り口は、尋問する側と尋問される側の扉はそれぞれ反対側にある。
幹部達が居た部屋の入り口は、松山が居た扉だけ。
女が居た『尋問される側』が入る部屋からは、松山が居た廊下へ出て来る事は出来ない。
『尋問する側』も、あちら側が使う廊下へ出る事は出来ないのだ。
被疑者と目撃者が面通しをする警察の面通し部屋も、部屋の造りは基本同じだ。
絶対に両者の動線が交差しない造りになっている。
松山は、女が不気味で仕方なかった。
バックミラーに映る女は、ぼうっと窓の外を流れていく景色を見ている。
不意に、女の視線が動いてバックミラー越しに松山を見た。
視線が合い、松山は思わず目を逸らす。
女は運転席へ体を寄せ、背もたれに掴まって松山の横顔を覗き込んだ。
そして、
「〝国賓〟並に扱ってほしいもんだな。〝俺〟にむさ苦しい官舎やらで寝ろとか、ありえねぇだろ。」
初めて女の声を聞いた。
が、
『俺』? 今、俺って言ったか???
松山が表情を変えずに内心首を傾げた。
女が松山へ吐いた言葉に武田が割って入り、
「まだ、どういう処遇にするのか決まっていない以上、勝手な事は出来ない。」
「海老原が〝言う通りにしろ〟って言ってたの、聞いてなかったか?」
女はじろりと助手席の武田を睨んだ。
女の口の利き方に、松山は耳を疑った。
松山の直属上司である隣りの助手席に居る武田ですら、上層部の中でも上級の補佐官であるというのに、
この女、今、海老原次官を呼び捨てにしなかったか?
疑問に耐えられず、とうとう松山の眉間に皺が寄った。
しかし、疑問を口に出せない。
松山がこの女に直接口を利いていいのかも、知らされてはいない。
ただ、『監視しろ』としか、命じられていないのだ。
松山は疑問を押し殺し、無言でハンドルを握る。
その松山へ、女はすっと顔を寄せ、
「病室は衛生面サイアクだったからな、どっか〝小奇麗な場所〟知ってるか?」
ボソボソと言い、松山が一瞬ちらりと女へ視線を向けた途端、
「おまえが去年、彼女と泊まったリゾートホテルへ行ってくれ。そこに1ヶ月滞在な。」
ニヤニヤと薄く笑いながら言う。
松山は、
俺が一美と泊まったトコっていったら・・・
一瞬、何事も無かったかのように場所を思い出そうとして、
「 え?」
やっと、違和感に気付いて目を見開いた。
そして思わず、言葉の出ない口をパクパクさせながら助手席の武田の方を見た。
武田は前を向いたまま、
「事故るぞ、ちゃんと前を見て運転しろ。」
難しい顔のままで言う。
松山は慌てて前を向き、
「ど・・・どうしますか?」
どこへ向かっていいのか、武田へ訊く。
松山は必死に冷静になろうと努めるが、理解不能な現象に全身の毛穴から冷汗が噴き出すような寒気が襲って来る。
取り敢えず、『何故、一美と行った場所の事を知っているのか?』の疑問は無かった事にして武田の言葉を待つ。
武田は、
「・・・〝彼〟の言う通りにしてくれ。」
言って、小さく溜め息を吐いた。
武田が女の事を〝彼〟と呼んだ。
〝彼〟・・・なのか?
考えても仕方が無いが、松山の疑問は深まるばかりだった。
〝彼〟は、単純に嬉しそうに、
「おまえが必死に部屋を押さえて彼女と泊まった人気リゾートの方だぞ。」
と、松山へ目的地を再確認する。
松山は素直に理解できず、
「・・・・はい。」
と、返事をしたが、
何なんだよっ何の羞恥プレイだ
心の中で呟いた。
と、首を傾げた〝彼〟は、
「なぁ、その羞恥プレイってなんだ?」
松山へ訊いて来た。
「!?」
松山の全身の毛穴が開いた。
全身でゾッとした。
心臓が重たい音を立てて脈打って硬直した松山にお構いなしで、〝彼〟は、
「なぁ?なんだ?」
もう一度訊いた。
松山はもう疑問を止められず、
「心が読めるのか?」
訊き返した。
が、
「訊いてるのは俺だが?」
〝彼〟は押し返す。
そして、不機嫌そうに息を吐いて、後部座席へドスリと体を戻した。
松山がチラリと見たバックミラーに、不貞腐れたような表情の女の顔がこちらをジロリと睨んでいた。
松山とさして歳の変わらないくらいの女が、横柄な態度で松山の上司である武田に口を利いていた状況からして、不用意にこの女の機嫌を損ねるのは思わしくない、と、見た。
多少、苛々とはしたが、平静を装って、
「恥ずかしい事を他人がいる前で暴露される事、だ。」
〝彼〟の問いに答える。
松山が歯痒い思いをしながら答えている事に、〝彼〟は『はは』っと笑ったが、答えの中身をよくよく考えて、
「恥ずかしい?」
言葉をなぞって考えた後、
「あぁ、武田がいるからか?気にするな、武田は他の事で頭がいっぱいだからな。」
〝彼〟が言い放った途端、武田の顔色が変わった。
何かを堪えている風の武田は、落ち着こうと無言のままひとつ息を吐いた。
〝彼〟は、今度は助手席側の背もたれに身を寄せ、苦虫を噛み潰したような武田の横顔を覗き込む。
ニヤニヤと笑いながら、
「大声で考えすぎだろ。おまえの目の前に居るの、国を守る最終兵器だぞ?」
挑発するような口調で武田に言う。
堪らず、武田は〝彼〟を睨み付けるが、その視線を受けても、〝彼〟は、
「おまえらって、人間だな。」
言って、ニヤニヤと笑っていた。
◇◇◇◇◇
目的地に着いた頃には、もう深夜と言ってもいい時間帯になっていた。
窓の外に広がる暗闇の中に、波の音がする。
品の良いインテリアでまとめられたリゾートホテルの一室に、そこにそぐわない病衣姿の女と〝制服〟の男二人が足を踏み入れた。
以前、松山が恋人と二人で過ごす為に取った部屋よりも、グレードの良い部屋だった。
松山は思わずキョロキョロと見回す。
廊下から扉を開けて入ると前室があり、前室からまた扉を開け、広々とした客室が広がる。
淡い色彩の壁紙と、それと同じ色調のソファやカーテン、サイドボードに花の飾られた大きなベッドが置かれた部屋。
輸入家具のドレッサーに並ぶ小物などの細部に至るまで、洗練されたコーディネートだった。
室内にはボトルの並ぶワインセラーの冷温庫まで置いてある。
今は夜の暗闇しか見えないが、正面の大きな窓から出たウッドデッキのバルコニーの外には、朝陽の上る太平洋が見渡せるはずである。
ふと見ると、開け放たれた隣の部屋への扉の奥にはもう一部屋寝室があった。
恋人と泊まった部屋とは広さも設備も比べものではなく、段違いに良い。
『こんな部屋もあったんだな』と、一瞬仕事を忘れて溜め息交じりに見回していた松山へ、
「松山、タバコ買ってきてくれ。」
〝彼〟が言う。
我に返り、ムッとした松山は、
「パシリかよ。」
思ったまま、尖った物言いをした。
疲れた顔をした武田が、
「松山。」
と、松山を窘めるように一言声を掛けたが、
「頭で考えても筒抜けなんです。ならば口に出しても同じだと自分は思います。」
松山は通常なら絶対にしない『上司への口答え』をした。
途端、〝彼〟は弾かれたように笑い出し、
「やっぱり面白いヤツだな、おまえ。」
笑いながら、言う。
余計にムッとした松山は、
「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
嫌味な声音で〝彼〟に訊く。
ここまでの道のりで、〝彼〟の名前を聞いていない。
肩を揺らして笑っていた状態からは落ち着いたものの、ニヤっと笑った〝彼〟は、
「俺の名を呼ぶ必要はない。」
松山の問いをバッサリと返して来る。
それでも、松山は食い下がり、
「おまえとキサマと貴方様と、どうお呼びすればいいですか?」
ほぼ喧嘩腰の物言いで言うが、〝彼〟は気にも掛けず、
「必要無い。黙って言われた事だけやってろ。」
さらりと返す。
無駄な事をしていると自覚した松山は、
「・・・・パシリ行ってきます。」
低い声で言うと、背を向けて部屋の扉から出て行った。
松山が退室すると、疲れた様に武田はひとつ息を漏らし、
「今夜は松山を付けます。いいですね?」
〝彼〟の顔から先程までの笑みが消え、真顔で頷いて、
「松山も銃の携行を許す。寝込みを襲ってもらっても構わない。」
「もう一人付けたいのですが。」
武田の言葉に再び頷いた〝彼〟は、
「どうせなら二人にしろ。松山は寝かせてやれ、暇だから明日はアイツと出かける。」
言って、病衣のまま大きなベッドへ倒れ込むように寝転んだ。
寝転んで、そのまま目を閉じた〝彼〟へ、
「わかりました。」
そう言って、武田は使いへ出た松山の帰りを待つ為、部屋の隅にあるドレッサーの椅子へ横座りに腰を降ろす。
ふと見た鏡に映る自分の顔が、酷く疲れていた。