15 狐狸
深夜の執務室で、机いっぱいに広げた書類の束を睨んでいた。
ふと気配を感じ目線を上げると、そこに見たものに目を見張る。
青い衣の異国の男が、応接用のソファに深く座ってじっとこちらを見ていた。
見覚えは無い男だが、見た瞬間に何者か判る。
海老原は見開いていた目を伏せ、
「御出でになるのでしたら、先にご連絡をください。その為に松山を付けています。」
そこに広げていたファイルを閉じた。
マナはニヤッと笑い、
「続けろよ、終わるまで待っててやる。」
「心を読む方の前で、国家機密の取扱を?」
「だよな。ま、バレると思った。」
言って、マナは鼻で笑った。
精霊が本気で情報収集をする気なら、わざわざ目の前に姿を現したりせず、だまってじっと覗き見している事だろう。
海老原も、
「ご冗談を。」
言って、薄く笑った。
すべてのファイルを閉じ、それらを机の片側へ積み上げて顔を上げ、
「松山はどうされました?」
精霊に訊く。
「おまえに会いに行くと言って置いてきた。」
「そうですか。」
精霊の答えに頷き、机の上に置かれたタブレットの液晶に触れ、そのまま待つ。
スピーカーから呼び出し音が響き、
『松山です。』
松山が出た。
トップからの直電に、緊張で若干、声が引き攣る。
「海老原だ。お見えになっているから、君はもう引き上げていい。」
それだけ伝える。
『判りました。失礼します。』
松山は答え、聞いてすぐに海老原は回線を切った。
海老原の表情にまったく動きは無かったのだが、二人のやり取りを黙って見ていたマナはニヤッと笑い、
「・・・おまえでも苦手なヤツが居るんだな。」
言われ、海老原に間が空き、
「人間ですからね。」
珍しく、苦笑いで答える。
海老原は松山を扱いあぐねている。
松山の声を聴いた途端、海老原に表面上の動きはまったく無かったが、内面に大きな波が起きた。
マナはそれを読んだ事を言ったのだ。
海老原の苦笑いを面白がって、
「手の掛かる息子だと思って気軽に付き合ったらどうだ?」
マナは言うが、海老原は首を振り、
「部下を人間だと思っていては、仕事にならない業種なのですよ。」
「真面目なんだな。」
「感情を持つ事を許されない立場の公僕とは、そういうものです。」
言った海老原の目は冷ややかだった。
冷ややかな視線を真っ直ぐに見つめ返すマナは、『ふーん』とまた鼻で笑う。
そして、
「松山は面白くて好ましい、けどな。」
あまりにもマナがさらりと言い切ってしまい、海老原の眉間に皺が寄った。
海老原は冷ややかな視線をマナへ向けたまま大きく息を吐き、『話にならない』とでも言うように苦い顔で目線を逸らす。
それを見たマナは嬉々と、
「ほらな、松山のお陰でおまえのそんな顔も見られるだろ?アイツ、面白いと思わないか?」
言う。
海老原は苦い顔のまま、じろっとマナを睨み、
「ご用向きをお伺いしても?」
話を終わらせた。
マナは勝ち誇ったような顔で軽い調子のまま、
「海老原、対応は済んでいるのか?」
本題に入った。
問題の日まで、あと、十日を切っている。
違う意味で苦い顔の海老原は、
「可能な限りは。」
言って頷く。
『集団』を説き伏せる事は出来なかったが、可能な限りは取れる対策は取った。
それを読み、マナも頷く。
「約束通り、ひとつ目を履行する。おまえ達も適当に身を守れよ。」
海老原達が逃げない事は判っている。
マナの言葉に、
「宜しくお願いします。」
言って、海老原は微かな角度で頭を下げた。
お互い、腹を括っている事は言葉にしなくても伝わるが、マナはふと可笑しくなり、
「・・・・俺が手を抜くとは思っていないんだな。」
「手を抜くつもりなら、我々の前に現れては居ないと考えますが?」
そう言った海老原は表情も心情もまったく揺らぎを見せない。
さすがにこれが本心かどうか読めなかった。
「やっぱ食えないよな、おまえ。」
マナが呆れて言うと、海老原はふと薄く笑い、
「お互い様です。」
答え、マナはそれにニヤっと苦笑いを溢した。
話が途切れると、海老原が切り出す。
「他にそちらのご用件は?」
「特に、無い。」
精霊の答えに頷いた海老原は、おもむろに机の引き出しを開け、
「ご都合が良ければ、こちらからひとつお伺いしたい事があります。」
一冊のファイルを取り出した。
海老原がファイルを机へ置く前に、
「マナ・スマラティエは俺だ。」
海老原の思考を読んだマナが先に答えてしまった。
一瞬、海老原の動きが止まったが、
「・・・やはり、そうですか。」
言って、ファイルをそのまま引き出しに戻し、閉める。
重く息を吐いてマナに向き直り、無言になった。
マナは無言のままの海老原をじっと見据え、
「200年以上経っているんじゃないか?よく調べたな。」
軽い調子でマナは言うが、海老原は深刻な顔で、
「東インド会社の船員の日記に記録がありました。東南アジアの島に居た巫女が時折、男に変わってそう呼ばれていたという伝承があったと。古今東西、他にも類似した情報はありましたが、これほどはっきりとしたものではありませんでした。」
マナは意味深にニヤっと笑って、
「その船員の男は島で奴隷だった男だ。俺を悪霊呼ばわりするほど憎んでたな。」
言うが、
「〝想っていた女性を巫女として精霊に奪われた〟という旨の記述がありました。」
恨まれる理由を海老原はさらりと答える。
ファイルにはもっと事細かに〝船員の日記〟の内容が書かれているらしいが、海老原は器用に頭の中身を閉じてしまった。
表情の変わらない海老原は、〝違いますか?〟と目線でマナへ問う。
さすがにマナは顔を顰め、
「そんな一言二言を必死に探して来るなんて、どれだけヒマなんだ?」
呆れた。
歴史の片隅で埋もれていた筈のたった一人の男の日記を発掘して来る努力は認めるとして、この種が支配する世の中が単純な造りでは無いのだと、改めて思う。
マナは真顔で、
「正体が判らないというだけで、〝おまえ達〟はそんなに不安になるものなのか?」
真剣に問う。
海老原はまた重く息を吐いて頷き、
「一人ならば、知る事、悩む事に限界があって諦めもつくのでしょうが、集団になって誰かが漠然とした不安を口にした途端、不安は〝姿のない形〟となって集団を追い立て始めるのです。」
「おまえは追われて居ないようだが?」
「そんなものに追われている余裕はありませんね。」
海老原はさらりと言う。
マナはふんと鼻で笑う。
「〝追われている連中〟に追われている事には、同情する。」
「恐れ入ります。」
海老原は涼しい顔でまた頷いた。
マナは海老原の涼しい顔が気に入らず、
「スマラティエを調べたのなら話は早いが、美羽は俺の巫女だ。」
動揺させたくなった。
しかし、
「松山君が〝淡々〟と報告して来るので、〝我々〟としては美羽さんが〝巫女〟的な存在なのではないかという推察に至っています。」
頷いた海老原がさらりと切り返して来た。
その言葉が含んでいる韻に、
「おまえ、勘がいいな。」
マナは素直に感心する。
見抜かれている。
〝集団〟の見解はともかく、マナが死に掛けていた美羽を生き返らせた目的が生贄では無い事を、海老原個人は松山の態度から察していた。
本当にマナが美羽を生贄として見ているのなら、松山が黙ってマナの傍におとなしく居るわけが無い。
そしてそれは正解であると、海老原は確信を持っている。
知られた所で特に問題は無いが、海老原の落ち着き払った様子が気に入らず、
「俺が〝おまえ達〟の味方とは限らないぞ?」
わざと揺さぶりをかけてみる。
「味方かどうか、〝私個人〟にはどうでもいい事です。〝我々〟の関心はあなたが要求を果たすのかどうなのか、それだけです。」
「やっぱ喰えないヤツだな。」
「お互い様です。」
どちらも腹を見せない駆け引きのような会話が続くが、
「スマラティエの巫女についてはどこまで知っている?」
マナの問いに頷いた海老原が頭の中の情報を開示して、マナは素直に驚いた。
海老原は頭の中身の切り替えが巧い。
必要以外の部分は一切見せなかった。
ふむ、と、読み取った情報を噛み締め、
「若干、流れは違うが、結果はその通りだ。」
息を吐いて無表情にマナは言う。
海老原は問題の巫女の結末について、
「お悔やみ申し上げます。」
言った。
マナは首を振り、
「島で疫病が出たのは〝たまたま〟だ。」
言って、瞬間的に眉を顰めて目を伏せたが、息を吐いて視線を上げる。
「疫病が巫女のせいだという話になって、連中は俺への生贄として巫女を屠った。しかし、巫女が疫病を流行らせたわけじゃない、そこは巫女の名誉の為に訂正しておく。」
「疫病が蔓延して島が無人になったのは貴方が?」
「俺は〝最初から〟何もしていない、奇跡を起こしていたのは代行者である巫女本人だ。代行者を殺せば疫病を治すもクソも無いだろう?」
「巫女には最初からそういう素質が?」
「俺が〝手を付けた〟からそういう素質を持ったが、供物を持って巫女の前に現れる者達の願いを叶えていたのは無自覚な巫女自身だ。俺が手を貸していたわけでは無い。」
他人事のような口ぶりで、精霊は言う。
一瞬、お互いが無言になる。
精霊は無表情のまま、じっと海老原を見据え、
「今回は代行者ではなく精霊が動く。これで少しは安心するか?」
歴然とした力の差の事を言う。
海老原は頷き、
「猜疑心さえ振り払う事が出来るならば、これ程心強い事は無いでしょうね。」
これを『集団』が理解する事が出来れば、恐れる事は何ひとつ無い筈なのだが
思い、海老原はまた重く息を吐いた。
精霊は海老原の杞憂を鼻で笑い、
「当然だ。代行者ごときに衛星を砕く事なんて、出来はしないからな。」
精霊の言い切った言葉に、初めて海老原の背筋が冷えた。
目の前に居るのは、〝精霊〟だった。




