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0.祝福

 最初は雨が降ってきたのだと思った。

 あまりに暑くて木陰で立ち止まったら、ぽたぽたっ、と額に落ちてきた。水滴を手で拭い、雲行きを見ようと空を見上げたところで、飛び上がって驚いた。

 小さな子どもが、木の枝にしがみついていたのだ。

 ぎゅっと口をへの字に結んで、声を殺して泣いている。

「おい、どうした、降りられないのか」

 子どもは得意じゃないが、今はそんなことは言っていられない。できるだけ怖がらせないように静かに声をかけると、子どもは少しためらったあと、小さく首を横に振った。

「おりられるもん」

「ほんとか」

「うん」

 両手両足をめいっぱい使って必死に枝にしがみついてるくせに、なにを言ってやがんだコイツは、と思った。

「じゃあ、なんで泣いてるんだ」

「ないてない」

「さっきから俺に降ってきてるコレはなんだ」

「あめよ」

 こいつめ、とおかしくなった。

 怖くて降りられなくなった、と素直に認めたくないらしい負けん気が、なかなか気に入ったのだ。キレイな服着たお嬢さんなのに、木登りするくらいおてんばなのも。

「実はな、友だちのカミーユも昔、木から降りられなくなったことがあるんだ」

「ふうん」

「そのとき教えてもらったんだが、そういうときは『にゃーご』って言えばいいんだよ」

「にゃーご?」

「うん。そしたら俺が、助けてやる」

 幼い子どもには怖いくらいの高さでも、最近ぐんぐん身長がのびた俺にしてみればそうでもない。背負っていた荷を下ろして踏み台にすれば、十分に手が届く高さだった。 

「おいで、おちびさん」

 両手をさしだすと、くりくりした青い目からまたポロポロと涙が転がった。

 そっと脇に手を入れて、いったんぐっと持ち上げると、不思議なほどするりと腕の中におさまった。やっぱり猫みたいだ。気の強い赤毛の子猫。

 踏み台から降りて顔を覗き込むと、猫はぱちぱちぱち、と瞬きしたあと、くしゃっと顔がゆがんだ。安心したせいか、うええ、うえええ、と小さく声を出しながらまた泣き始めた。

 俺の服に盛大に雨を降らせて染みをつくったあと、ぽつりと小さく、ありがとうと言った。どういたしまして、と返した。

「ねえ、にゃーご、ってどういういみ?」

「あいつらの言葉で、『こわいよ、たすけて』って意味さ」




「正式に婚約が決まったわ」

 麗らかな春の午後に、彼女はそれを告げた。

 窓から見える庭は色とりどりの花が咲き誇り、木に取り付けた巣箱の近くで鮮やかな青い鳥が囀っているのが見えた。

 窓辺に座る彼女はそれを熱心に見つめていた。

 形の良い額、高い鼻、気の強そうな眉、眠たげな垂れ目、幼さの残る頬の輪郭、ぽってりと厚く艶のある唇。

 それらが形作る奇跡のような横顔を、俺は言葉をなくして見つめる。

「明日、殿下と揃って聖王猊下の前で宣誓するの」

 殿下が齢二十の成人になるのを待つだろうから、式は二年後になるわ、と続ける彼女に、相槌ひとつ打てないまま息を吞んだ。

 覚悟していたはずだった。最初から分かっていたはずだった。

 それなのに、肺の奥が引きつれたように痛む。

「だからもう、あなたに会えるのは、今日が最後」

 降り注ぐあたたかな陽射しにはそぐわない言葉が、かなしい。

 お前が俺に雨を降らせてから、もう、10年になる。

 幸せな10年だった。年に数回しか会えなくても、訪ねれば、輝くような笑顔で迎えてくれた。眺めの良いこのあたたかな部屋で、いろんな話をした。珍しい菓子を持参すれば、手ずからお茶を淹れて喜んでくれた。

 幸せだった。

「明日になれば、わたくしは、もう、」

 淡々とした声が、ふつりと途切れる。

 赤い唇がわななき、俺の名を呼ぶ。

「ケイ……」

 頑なに窓の外ばかり見ていた彼女が、ようやく俺を見た。

 春の空みたいな澄んだ青が濡れている。長い睫毛の先で、水滴がキラリと光った。

 だが、それでも、彼女の唇は優しい笑みを浮かべていた。

 王太子妃となり、王妃となり、いつか国母となる高貴な少女。

 衣食住のすべてが税金で賄われ、何不自由なく生活できる代わりに、国益に身を捧げることが義務付けられた人。

 かわいそうなダニエラ。

 泣き虫ダニー。

 俺のおちびさん。

「わたくし、良い王妃になるわ。国のために、民のために、わたくしのために」

 悲しくて仕方ないって目をしてるのに、声には決意が満ちていた。

 ツンと顎をあげて胸を張る姿に、幼いおてんばの面影を見つける。

「わたくし、負けない」

 そして微笑んだまま、彼女は悪戯っぽく首を傾げた。

 お馴染みのおねだりの仕草に、俺はいつも逆らえなかった。今日だってきっとそうだ。次なんてもうないんだから。

「だから、おねがい、ケイ」

 ぽろり、ぽろりとこぼれる雨粒の一滴一滴を、目に焼き付ける。

「キスして」

 嗚咽をこらえながら、労働を知らない細い手が差し伸べられる。

 指先が震えている。

「さいごに、いちどだけ、おねがい、それだけを思い出に、」




「ダニー。おてんばダニーボーイ」

 俺がふさげてそう呼ぶと、ぷっと頬を膨らませてプンスカ怒ってたってのに、いつのまにこんなに大きくなっちまったんだ。

 薔薇色に染まった頬の涙を手のひらで拭ってやりながら、今しがた知ったばかりの唇のやわらかさを忘れないように反芻する。

 名残惜しむ手を引きはがすようにして離れ、俺は無理やり顔を歪めて、必死で笑った。できるだけ、優しく。

「幸せにおなり」

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