1.王太子の懐古
「まあ、ごきげんよう、アレクシエル王太子殿下」
かつての婚約者と、鉄格子ごしに対面する。
「……ダニエラ」
投獄された公爵令嬢は、くたびれ、やつれていたが、今なお美しかった。
とても10代とは思えぬ色香が、隠しきれぬ疲弊にかえって増したようにさえ見え、相変わらずけがらわしい女だと思った。
不快感が顔に出たのか、ダニエラが笑った。
しようのない方、と唇が動くのが見え、私は舌打ちで返した。
この場に口うるさい乳母がおれば、なんてお行儀の悪い、と叱られたことだろう。彼女は昨年、私の留学中に逝ってしまった。この女に看取られて。
「斯様なところまで、一体どのような御用でしょう」
分をわきまえぬ高飛車な物言いに歯噛みする。
この女のこの賢しげな目が、昔から大嫌いだった。値踏みする商人のように冷徹なときもあれば、子どもを見る母のように優しげなときもあった。その全てが、鼻持ちならない高慢に満ちていて、叫び声をあげて走りだしたいような焦燥を煽られた。
ダニエラは幼い頃から、私の妻になるだろうと目されてきた女だった。
家柄、知性、容姿、年齢。『王太子』の妻として王族に迎えるにあたって必要な条件をすべて満たした、ほとんど唯一といって良い貴族の令嬢だったからだ。
王妃となるべく育てられた女。
その賢さゆえに不正を働き、美しさゆえに不誠実に男を惑わし、高慢ゆえに私利私欲に目がくらみ、私とユキの真の愛と臣の正義の前に負けた女。
その無様を目に焼き付けようと訪れたというのに、虜囚となったダニエラは、変わらず薄く笑っている。
紅などつけていないはずの唇が、赤く、魅惑的な弧を描いている。
「…そなたこそ、私に何か言うべきことがあるのではないか」
ふつふつと沸く怒りを努めて抑え、私は低い声を出す。
「言うべきこと?」
肉感的な体をくねらせて、ダニエラは不思議そうに聞き返す。
「刑はまだ決まらぬ。だが、あれほど大規模な不正をはたらいた上に、ユキの暗殺まで謀ったのだ。ただではすまんぞ」
腕を組み、重々しく告げる。
「悪くすれば、断頭台に上がることになるやもしれん。……何か、私に言うべきことはないか」
現実を突きつけて再度問いただしても、彼女は揺らがなかった。
それどころか、口に上品に手をあてて、声をあげて笑いだした。
「なにがおかしい!」
「だって、貴方が、ふふ、あんまりおかわいらしいことを仰るから」
やわらかい声に、愕然とする。
なにを言っているのだ、こいつは。頭がおかしくなったのか。
ふふふ、となおも笑いながら私を見る目が、ひどく優しい。私はまた、あの焦燥に喉を焼かれる。
「ほんとうに、しようのない方。わたくしに命乞いをさせたいのね。泣きながら貴方に縋り、慈悲を乞う姿を見て、溜飲を下げたかったのでしょう?そして、自惚れでなければ、わたくしから引き出した反省の言葉を材料に、減刑を願い出てくださるおつもりだったのかしら?」
図星を突かれて言葉に詰まる私を見て、彼女はますますおかしそうに笑った。
「もう、ばかね」
ば、ばかだと!?
頭にカッと血が上り、罵声さえ口にできず絶句する。汚らわしい売女のくせに、不敬にもほどがある。
「殿下、もう、そんなものには意味がないのですよ。たとえどんな判決が下されたとしても、わたくしはもう………、お気持ちだけありがたく受け取っておきますわ」
二の句が継げない私は、彼女をひたすら凝視しているうちに、彼女の笑みがいつもの薄笑いとは少し異なることに気付いてしまった。
そう、まるで憑き物が落ちたように安らかな。
「アレク」
いつからか呼ばれなくなった愛称が、冷たい地下にそっと響いた。
親しげなそれに、彼女を蔑みにここまで来た浅ましい私は、落ち着かなくなって唇を噛みしめる。
「追い落とされて死んでいく未熟な政治家としてではなく、たった一人の幼馴染として、ひとつだけお願いがあります」
鉄格子にそっと手をかけて、彼女はぱちんと片目をつぶった。
父王のマントの裾に他愛ない悪戯をしかけた日のように。
乳母が部屋に隠していた菓子を探し出し、こっそり分け合った日のように。
勉学を放り出して木に登り、駆け回る衛兵を見下ろして忍び笑った、懐かしいあの日のように。
私は眩暈をおぼえて、彼女が手をかけているのと同じ鉄格子を強く握った。彼女の手に触れることは、どうしてもできなかった。
「奥さまを精一杯大事にして、どうか、お幸せになられませ」
きつい化粧をほどこしていないせいか、笑う彼女は少女のようだった。
「貴方は、愛する人と一緒になれるのだもの」