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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第九章
99/127



 駆けるときは、無心だ。


 地を蹴ってなお、中空にある脚は前へ、前へ進まんと動く。


 ただひたすらに、もっと速く、もっと大きく、もっと遠くへ。


 脚から全身に伝わる鼓動、いのちの脈動。


 ああ、我らは生きている。


……それが、今までの全てだった。



 霞む新緑が、徐々に色濃くなっていく。

 被膜のように全身を覆っていた光の結界が薄れ、体毛が一定方向外にそよぎ出す。鬣が視界に躍った。この世に生まれいづる時より見慣れた、森に溶け込むが如き深緑。

 木立が低い林のさなか、そこに降り立った獣の四足は、次の一歩を踏み出した瞬間から「ひと」の脚と化した。蹄毛の生えていた獣足は滑らかな褐色の素足となり、弱くも柔らかく草を踏みしめる。角が頭部に納められたので重心の位置が変わり、視野が狭くなり、匂いが薄くなり、感覚のすべてが鈍重となった。

 褐色の肌は木漏れ日に照らされ艶光る。深緑の鬣は長さの異なる髪となり、顔にばらばらと纏わりつく。それを片手でざっと後ろに流し、我輩はまた歩を進めた。履物に慣れた二本足の足裏は簡単に怪我を負うほどやわく、歩きづらい。しかし、ここは人里離れた自然区域であるので鋭利な落とし物は殆ど無い。それに今は周囲に「ひと」の目が無いので、全裸の羞恥は置き忘れた振りをする。

 土の感触と草の香り。無防備な全身でそれらを感じ取りつつ、更に森奥へと歩んだ。

 浅い藪や木立に分け入って進んだ先、薄霧が漂ってくる。ややあって眼前に広がったのは、小さな湖水。森の奥まった場所に在る、自然区域内の水源であった。

 躊躇い無くその中に入る。水深は思ったよりも浅く、しかし泥地はやわらかく二本足の体重を沈ませた。

 体毛の無い生膚に染み渡るような冷気。

「……」

 歩を進め、腰の辺りまで浸かりつつ両手で清水を掬って顔に受ける。ざばざばと音を立てて体表を洗い、すっきりとしたところで視線を落とした。

ひとつ息をつく。揺れる水面に映る深緑と褐色、それに縁取られた「男」のすがた。本性とは似つかぬ、二本足としての我がかお

 雫が深緑から水面へと落ちた。

「長かった」

 同時に零される、水滴のような独り言。

「遠かった」

 意味の無いようでいて、我輩にとってはこの上無く意味を持った言の葉。


「とうとう、ここまできた」


 静かな空間はそこまでだった。喉奥から洩れた唸りは喜悦の咆哮となり、静謐な森の空間を切り裂くよう高らかに響く。近くにいたらしき小さな動物が茂みを揺らし逃げ去っていった。それに構わず我輩は吼える。「ひと」の身で、獣のように。

「……ぉおおおぉおおおぉおおお!」

 びょう、と霊気が広がる。波動は風となって水面をさざめかせ、梢を揺らし、木の葉を揺らした。森の陰影と同化するようたなびく我が緑髪、照り返されるわずかな明り。

 中空を仰げば、木漏れた陽が瞼に投げかけられる。のどかな光に気分が紛れ、咆哮は笑いと成った。一括るにしては複雑過ぎる感情が我輩の内側に燃え盛り、言葉に出来ないものが荒れ狂っていた。もどかしさの炎。そこに染み渡る冷気めいた寂しさ。しかしながら全てを凌駕する、罪深き嬉しさ。

 我輩は笑った。水面に揺れるずぶ濡れの男は、獣のような声を上げ、こどものような表情でひたすら笑っていた。


 長かった。ここまで来るのに、どのくらいの歳月を必要としたのだろう。

 遠かった。ここまで至るのに、如何ほどの距離を走ってきたのだろう。

 厳密に言えば、万事は終わっていない。しかし、その時の我輩はただ唯感動に打ち震えていた。眼前に迫った幸福に、未来さきが視えた心地に、ひたすら感無量であった。

 騎者どのと一時離れたことで強くなった、一個としての心地。「騎獣」としてでなくただの霊獣として、一族の命運も宿命も何も背負ってはいない一頭の雄として、久方ぶりに訪れた安寧の時。それは我輩を、ごく自然に無邪気な童心へと還らせた。

 残影に向かって、思いは駆けて行く。

(養父どの、養母どの、)

 脳裏に蘇る、あの日の草地。それはあの惨い赤の惨劇でなく、ひたすらに豊かで、ひたすらに暖かかった緑が風景だった。

 そこに立つ懐かしい姿に、報告をする。

(聞いてくれ。一族の失踪事変の原因を突き止め、痕跡を辿り、罪の元凶を捕らえることが出来た。そして無念のまま潰えた仲間、彼らの思いの一端に触れることが出来た。もう、あのような惨劇は起きない。二度と繰り返させない。その道筋を作ることが出来た。未来は、繋がったのだ。聞いてくれ、)

 橙、藍、萌黄、亜麻、紫、黒、焦茶、樫、灰、そして紅と蒼。

(――いとおしい者らよ。愛すべき、皆、)

 記憶にありありと浮かぶ、かのすがた。無惨な遺骸ではない、残酷な殺され様でもない、活き活きと脈動する肉としっかりした骨そのままに四足で立つ生前の彼らが浮かぶ。逞しい体躯持つ養父どの、しとやかな風情の養母どの、豪気な雄と繊細な雌、勝気な夜明けと優しげな日暮れ、朗々とした美声の雄と慎ましやかな雌、賢明な瞳と暖かな瞳、その視線が見下ろす小さく巨きな生の光。そして、仲よさげにじゃれ合う二頭の若き幼馴染達。

 このことを知ったら連中はなんて云うだろう。「よくやった」と角を擦り合わせてくれるだろうか。「浮かれるな、これからだろう」と角で小突かれるだろうか。それとも、「頑張って、またここに帰ってきてね」と潤む瞳で見送ってくれるだろうか。

 すべては、想像でしかない。

 喜びを分かち合うべき彼らはここに居ない。差し出した角は誰のものと絡むことなく、宙を掻く。我輩はただ一頭、ひとりだけでここに居る。皆、生者には決して追いつけない遠き場所に駆け去ってしまった。


 どうして、どうしてだ。

 取り残されたこどもの心が、寂しさに耐え切れず今も泣き叫んでいる。

 なぜ、なぜだ。

 いとおしいものらが理不尽に散らされた憤りは、今なおこの胸中に燻る。


 けれど、けれども。

 どれだけ虚しい思いを抱こうと。激しい懊悩が身を突き抜けようと、我輩はそれを否定しない。すべては、我輩自身であるから。思うこと、感じるもの、導き出す結論。そのすべてが、我が心身よりいづる答えだ。

(我輩は、騎獣だ。その道をおのれで選択し、見つけ、今日まで進んできた。……強き脚の一族の名に恥じることなく、恥じることは何ひとつしていない。だからこそ、胸を張れる)

 だからこそ、惨劇を為した犯人でなくその向こうにあるものを見つめる。死者への恋しさに惑いそうになったときは、生きてこちらを見つめる彼らを思い起こす。そうすれば自然と、負の感情は薄らいでいく。

 記憶に残る皆の表情は、とても満足そうだ。誰もが皆、我輩を責めてはいない。厳しくも暖かな風情で未熟な若僧を見守ってくれている。そう思うことが、出来ている。


――あの猟奇的な妖精と相対した時、お前はよく堪えた。本来角で突き殺すことも出来た、後足で容赦なく蹴り上げ、死の寸前まで痛めつけることも可能だった。しかし、お前はそれを選択しなかった。理不尽な暴虐が元凶を前に、矜持を保ち、護るべきものを護り、一族らしい清廉な魂を示すことが出来た。よく堪えた、よくがんばったな。――


(ありがとう、皆。我輩を今日まで生かしてくれて。今日という日を、この瞬間を味あわせてくれて。この時間を、哀惜と苦痛を内包しつつそれでも喜悦の時と捉えることの出来る、そんな雄に育ててくれて、本当にありがとう)

 ちっぽけな緑の雄は鬣を振り乱して唸り、吼え、笑った。涙が零れないのが、不思議なくらいであった。

 我輩は、かつて愛されたものとして生きている。この身を育み、慈しんでくれた者らがいたからこそ、この哀愁に満ちた喜びは在る。どうしようもない哀しみや苦しみを与えつつ、それでも生きよ、生きて我らの思いを継いでくれと願ったものが在ったからこそ、今ここに力強く立ち、束の間の安堵を貪ることが許されている。それらを自覚出来ていることがこの上なく、誇らしい。

 生きている。

 皆に、生かしてもらった。

 その事実にひたすら、感謝する。


○ ● ○


 今思えば、当時の我輩は久方振りに気が緩んでいた。

 騒動がひと段落つき、解決の道筋が定まったという事実。立て続けに襲った動揺と混乱が瞬時に収束し、不確かであった未来の一つが確かと成ったその事実。現状をそう判断し、張り詰めていたものが否応なしに綻んだひとときだったのだろう。

 急いでいたにも関わらず、中途で獣から人型に転身したのには幾つかわけがある。霊気薄い人界ではやはり、なるべく二本足のすがたで居た方が楽であること。体表にこびり付いたわずかな煤や煙臭などを落とすに、やはり五本指持つ器用な手の平がやりやすいこと。そして、どうにも感情が抑えきれなかったこと。特に、最後のそれが大きい。

 繰り返すようだが、我輩は本来この界に棲まう生き物ではない。ゆえに、普段から意識的な筋力の制御、並び感情の制御が要である。精神が内在霊気に多大な影響を及ぼす精霊族は、力が強大な者ほど自制が必要なのだ。

 だからこそ目的地に辿り着く寸前で脚を止め、人型になった。そしてついでのように感情を爆発させた。霊気弱いこの姿なら、多少羽目を外しても問題は無い。せいぜいが小動物を害無く驚かせる程度だと知れていたから。

 もし我輩が本性で感情を爆発させた場合、人間界隈に意図せず多大な影響を及ぼしてしまっていただろう。良い影響にしろなんにせよ、他界のものは無闇にこの世界の規律に干渉すべきではない(ちなみに数刻前におこなった「首都全域結界内での治癒」は別とする。あれはれっきとした行動理由があり、騎者どのが言を借りるならば「功労者に対しての等価交換」だからである)。

 ともあれ、騎者どのの言を再度借りるのなら「気分的にハイになりまくってた」我輩は、駆けているさなかで己を保っていられないことに気付き、慌てて身を隠せる場所を探し、人型に転身ついでに身づくろいも済ませたというわけだ。突破口を見つけたら一直線に目標へと向かう我が一族の性質からすると、些か余分な寄り道とも言えるが。

 当時の我輩は、もどかしい思いを抱えつつやはり己の迸りを無視は出来なかった。眼前に目標がありながら、しばしの足踏みをよしとした。それだけの理由があったのだから。

 否。

 諸々の理由こそあれ、やはりすべては言い訳に過ぎないだろう。当時の志向の根本は、結局ひとつしか無かったのだから。


○ ● ○


 森の最奥より発生した風はただの空圧とは違う。木立を揺らしこそすれ、葉のひとかけも飛ばさず幹に傷もつけなかった強風は、動いているものには勿論怪我を負わせない。もとより、癒しの霊力と同系統の霊気波動が害悪であるはずが無い。

 ややあって、泉に小動物らが戻ってきた。思念で「縄張りを荒らして済まなかった」と伝えるとこそこそ身を隠しつつ了承の意を返してきた。自然区域に棲むものは何が害悪で何が無害なのかを承知しているのだ。

 身づくろいと少しばかりの発散を済ませたのち、また本性へと戻る。湖水より上がり、裸足で駆けること数秒。自分でもいつ転じたのかわからないほど自然に、我輩は元のすがたとなって中空へと駆け上がっていた。

 ひゅう、と蹄毛と鬣が空を切って靡く。光の防護壁は纏っていない。今はただ、風を感じたかった。


 今度こそ想いのままに。

 浮かぶすがたへと向かって。


 一度発露させたせいか、熱の溜まった気分がだいぶ楽になったことがわかり安堵する。やはり、小休憩する時間を設けて良かった。寄り道ではあったが、意義は大いにあった。

(良かった)

 感情の発散。それをかの存在に逢う前に済ませたのには、わけがある。

(かのままで再会したら――恐ろしいことになっていた)

 それが、経験の無い若僧にも本能的に知れたから。

 己の内に燃え盛る炎。冷水を浴びせられることなく膨らんだ欲求。堪え続けた結果と、眼前に差し出された至上の「褒美」。積み重なった要素が行き着く先は、破滅にも繋がっている。

(危なかった)

 自分では到底制御出来ないものを無意識に募らせていたのだ、と理解せざるを得ない。

 騎者どのには血縁者とじっくり話をさせるため人間の公共移動手段を使って帰るよう示したが、それは我輩のためでもあった。この騎獣が脚を使い、時間と距離とを短縮してかのもとに辿り着くにおのれ自身の心の準備が成っていないこと、薄々感じ取っていたのである。

 獣の雄としての恋情、それはうつくしいものばかりではない。我輩は一介の「男」として、一旦頭を冷やす必要があった。それを咄嗟に判断出来て良かった。

 もしも。もしも我輩が騎者どのと離れたのち、脇目も振らず一直線に目的へと向かっていたのなら。人間でいうなら戦地帰りで限界まで昂ぶった生への渇募、そんな心地のまま、大切にすべきか弱い存在に躍りかかっていたとしたら。

 我輩は。


(あの小さな雌を、壊していた)


 恐ろしかった。駆けているさなか、その心地になったという事実自体にも怖気が走った。これまで積み上げてきた自身がこうして作り変えられていくのだ、と悟ったゆえに。そしてこの未知なる恐れはこれからも続く。かつて「騎者」に対して抱いていた畏怖感情が、今は別のものに向けられている。

(これほど、御し難いものだったとは)

 ああ、恋とはなんと甘美で、なんて恐ろしいものなのだろう。

(あの雌はやはり――我輩を簡単に、殺せる)




 駆けるときは、無心だ。


 地を蹴ってなお、中空にある脚は前へ、前へ進まんと動く。


 ただひたすらに、もっと速く、もっと大きく、もっと遠くへ。


 脚から全身に伝わる鼓動、いのちの脈動。


 駆けるときは、無心だ。


 ……無心の、はずであった。




 待ちに待ったその時が訪れる。

 湖水から数十秒ほどで山をもうひとつ越え、懐かしい気配のする平野へと降り立つ。我が蹄が地面へ着き、角が空気に湛えられた霊力すべてを感知する。伴侶どのが自宅を中心として半里ほど結界で覆ってある。この空間はすべて、我が把握の内だ。無論、目立つ異常は起きてはいない。

 異常など起きていたら、我輩は正気でいられない。

 わずかに色濃くなった気配に、蹄が勝手に急いた。あの雌が、外に出ている。

(畑を見回っているのだろうか。洗った衣類を干しているのだろうか。それとも、)

 我輩を迎えるために……?

「ッ」

 さして距離を駆けてきたわけでないのに、勝手に鼓動が高鳴る。荒くなった呼吸が自分でも煩い。成獣のくせに、まるで走りを覚えたばかりの幼生だ。霊力を発しているわけでないのに、角が根元から熱い。涼風が吹いているのに、熱が引かない。むしろ歩を進めるごとに募っていく。

 ばたばたと拙く四足を動かし、つがいがいる方角へと向かう。果たして彼女はそこにいた。人型で、家屋から少し離れた場所に佇んでいた。畑を見回っているにしては視線が定まっていない。手元には洗濯物が無い。ということは。

「ワカバ」

 声を、かける。彼女はびくりと肩を振るわせ、ゆっくりと振り向いた。ふわり、と柔らかな髪が靡く。どこか亡羊としていた瞳が見張られ、その視界に我輩が入り込む。ああ、やはり簡素に身づくろいを済ませておいてよかった。煤臭いものも血飛沫のひとかけらも、この存在には感じ取って欲しくない。

「りょ、く」

 こちらを認め、見つめ返し、春の若草は呆然としているように見えた。

「――、」

 再度呼びかけようとして、息が詰まる。いとしさゆえに。

 それでもなんとか、声を出す。声を出して、請わねばならないからだ。

「――ワカバ、」

 我輩と、つがいになって欲しい。そう云いかけた言葉は。


「……いやっ」


 雌の拒絶によって、絶たれた。






※ワカバは誤解したままです

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