挿入話・ある精霊族の悟り
ティリオという旅人の断片的過去。
諸注意
※途中までは「はしどいの、のこりが。」からちょっと手を加えて引っ越した分です。
※R指定気味な上、近親相姦要素が色濃い話ですので、苦手な方はこの回じたい無かったことにしてください。
ひとどころに留まらず、風が吹く。
緩やかに梢先をくぐったかと思えば、次の瞬間には豪速で枝間を駆け抜け、幹を揺すって葉を地面に落とす。まだ枯れていない、若い青葉だったというに。そしてそれが大地の養分となり新たな命の苗床となるのを待たず、無情にも宙に巻き上げて関係の無い場所へとさらう。そしてひどいときには、辿り着くのさえ良しとせずそのまま千々に切り離し、跡形も無く粉砕してしまう。
風は、ただ自然の動植物に優しいというわけではない。他の元素もそうであるが、そのかたちは定まらない。時に天災を巻き起こし、災禍を大地に齎し、ぼろぼろになった命を嘲笑うかのように消え失せる。そしてその次の瞬間、新たな恵みの息吹を傷ついたものにそっと寄越すのだ。
善か悪か、静か動かなど、判別出来ないのが自然の在り方。それを象徴するもののひとつが、風である。
それは、ただ在るがままにゆく。
優しく、強く。激しさも、穏やかさも。楽しみや―――哀しみさえ、すべて内包して。
■ ■ ■
びゅぅおおお、と恐ろしい勢いで暴風が吹き抜けていく。
「……っ」
少年は呼吸を小さくして、首もとに巻いた布を顔半分にまで押し上げた。そして、必死に「訴える」。
「《お願いです、弱まってください》!」
布越しに肉声は篭ってはいたが、「声」じたいは決して小さいというわけではない。彼の持つ力同様、載せた思念同様に遠くまで通る「呼び声」であった。しかし。
《やだよ》《やだ》《だってたのしいんだもん》
無数の「声」は、彼の訴えに耳を貸さなかった。それどころか、ますます勢いを増してびゅうびゅうとその場を躍りまわる。中には少年の身体にまとわりつき、服の隙間を狙ってわざと潜り込もうとするものさえいた。
《おうさまのようせいも、あそぼうよ》《とってもたのしいよ》
「やめ、……《やめてください》」
焦りのあまり肉声で叫びかけ、やっとの思いで「言い」直す。風の四元精たちは気安く懐こい気性の持ち主だが、かたち有る生命体の事情をわかっていないことが多い。今日のように風の恩恵が強めの日――俗に言う台風の季節など――は力の向きが合えば物体への干渉も出来るようになるため、調子に乗って悪戯を仕掛ける場合がある。
そう、例え季節が秋の終盤でも。夏の時分のように、容赦無く纏わりついてくるのだ。
《どうして?》《なんで?》《おうさまのようせい、ぼくらがきらい?》
纏わりつくいくつかの「声」がかなしげになる。躍りまわっていた風塊が、やっと勢いを弱めはじめた。
「……《嫌いではありません》」
その様子にぎゅっと胸を掴まれながら、声に思念を載せる。彼らを本気で厭っているわけではなく、哀しませたいわけでもない。どうしようもないのは、この脆弱な外殻である。
「《自分は生命体なので、一定の体温を維持しなければ生きてゆけないのです》」
だから、風と波長の合う生き物だからといって寒いときはやたらとくっつかないで欲しい。そう言いかけた声は、再びびゅごぅっと吹きつけた風に沈黙した。
《きらいじゃないって!》《きらいじゃないって!》《おうさまのようせい、あそぼう!》
「――ッ、だから、《やめてくださ、》」
《あそぼう!!》
少年の再三の訴えは、無邪気な暴風にかき消される。滅茶苦茶に吹き付ける大気に細緻な金髪が弄ばれ、千々に靡いた。細身の身体が風圧で傾ぎ、倒れかけたのを堪える。尖った耳朶の先は低体温で感覚が無くなりかけている。乾いた地面の脇、風で吹き飛ばされない巨岩を見つけてやっとの思いでそこに移動した。
《おうさまのようせい、あそぼうよ》
追いかけて尚纏わりつく風精を振り切り、「声」を無視して岩と岩の窪みに潜り込む。風の当たらない場所に、やっと身を落ち着かせた。ようやく、外皮を絶えずなぞっていた寒気が弱まる。
《ねえ》《ねえ》《そんなところにかくれてないで》《あそぼう》
しかし、大気がある限り風は止まない。岩穴の入り口から吹き付けるようにして、風精らが誘いをかけてくる。あまりに風が集中したせいで、岩穴内部の空気が薄くなってきた。
「……!」
(まずい)
咄嗟に耳を押さえ、目を瞑る。風精たちは興奮のあまり、完全にこちらの事情が置き去りになっている。鼓膜に彼らの音を、視界に彼らの姿を極力入れないようにして、少年は岩穴から顔だけ出した。頬に感じる痛いほどの風圧、厳しい冷気。そして無数の「声」。
《あそぼう!》《あそぼう!》《あそぼう!》《あそぼう!》《あそぼう!》……
意識を閑鎖させ、風精らの声を閉め出す。今はただ、酸素が欲しい。耳鳴りがするほどに続いていた「声」がやっと小さくなり、自分の呼吸音が聴こえるようになる。
ぜえ、はあ、と肩で息をしながら、少年はその場にしゃがみこんだ。みずからの未熟さを再三思い知らされる。これが精霊王の加護を与えられた妖精か。今の有様からは想像もつかない、聞いて呆れる体たらくだ。四元精も満足に従えられないで何が「いとしご」か。今の自分はただの無力な幼子でしかない。
(情けない)
目を瞑ったままなので暗闇のさなか、いつもの「声」も遠い状態で縮こまり、込み上げる痛切をやり過ごす。感じるのはただ、身を切るような寒さ。
同じような日が、前にもあった。あのときは、一人でなかったし、こんなに寒くもなかった。風と戯れて、ちょっと失敗して、心細くなったのですぐ家に戻って。そしてあの声が、小さな手が、温かな温度の布を差し出しながら言うのだ。柔らかい笑顔と共に。
『おかえりなさい、ティー。寒かったでしょう?』
「……ふ、っ」
泣きそうになったのを、こらえた。涙を落とす資格など、今の自分にありはしない。
■ ■ ■
あの家を出てから、早くも半年が過ぎ去っている。段々と、一人の生活にも慣れてきた。
不幸中の幸いなのか、エルフとしての成長期はひと段落ついていたようで、不自然に睡眠時間が長くなるということも無い。自然区域での生活方法も頭に入っていたのを実践すれば充分事足りたし、風精らの手助けもあって超自然区域内にも恩恵を見出すことが出来た。もとより、人間よりも遥かに頑丈な肉体である。骨格が出来ているエルフの身体は損傷しにくく、衣食住さえ確保できれば特に病を得ることなく暮らしてゆける。自給自足の生活は楽ではないが、苦でもない。何より自然区域内の相性の良い場所で生きることなど精霊族にとっては当然のことだから、慣れてしまえばどうということでもない。そうやって、ちっぽけなエルフの少年は今日まで淡々と過ごしてきた。
苦難など、苦難だと思わなかった。こんなもの、全然辛くはない。あの辛さに比べたら、まったくそうとは思えない。
(あの名前を呼べないことに、比べたら)
自分の想いを殺していく生き地獄に比べたら。今の状態はむしろ、幸福でもある。だって。
(あのひとの名前を、好きなときに呼べるから)
今の自分は幸せだ。そう思い込むしか、ない。
■ ■ ■
「……りら」
みずから作った小さな霊穴――自然区域内でのねぐらとしている人口の洞窟――で膝を抱え、ちっぽけなエルフはぽつりと呟いた。外はまだ風が暴れまわっているので、身動きが取れない。雨も降ってきた。
「リラ、今日は台風の日です。畑の風除けは、万全でしょうか。窓枠も、新しいものに取り換えたでしょうか」
自分の霊力を内部に張り巡らせてあるので霊穴の中は快適な温度に保たれている。飲料水も食物も数日分蓄えてあるので物理的に飢えるということはない。ただ、通気の悪い洞窟の奥なので火が焚けず明かりを灯すことが出来ない。その中で零される、もう伝えられない言葉の数々。
「ひとりで釘を打ち付ける時は、無理しないでくださいね」
受け取るもののいない暗がりで、それは意味の無い独り言に思えた。だが、彼が止める様子は無い。
「四元精にはあなたを護るよう言ってあるので、多少窓の補強は遅れても大丈夫かと想いますが――」
ふ、と暗がりでも端麗な口唇に自嘲が過ぎる。
「いや、未熟な自分は、彼らに言う事を聞かせるなどやはり出来はしません。今のは、無しにしてください」
ごろり、とその場に横たわる。岩地には自然区域で集めた枯葉と風属性の霊獣に分けてもらえた霊毛が寝床分だけ敷き詰めてあり、地面からの冷気はまったくといっていいほど感じない。霊穴の外からは、荒れ狂う嵐の音が遠く唸りをあげている。結界を張ってあるので近くとも聴覚に届くものは小さく、入り口は開けているが風雨も吹き込むことは無い。平穏で静かな暗闇のさなか、少年の声だけがぽつりぽつりと響く。変声期の終わりかけなので、全体的にかすれて低い音。
「リラ。夜は見通しも悪いので、外に出ないでください。転んだりするかもしれないし、飛来してきたものに直撃されるかもしれません。家の中にいさえすれば安全です。どうしても外出しなければならないときは、どうか、どうか気をつけてください」
それは、意味の無い独り言に見せかけた大切な日課だった。彼自身の気持ちを落ち着かせるため、発散としての感情の吐露だった。それを寝転がったまま延々と、暗闇に向けて吐き出す。あのひとに伝えたい、真心の言葉を。
「お願いです、リラ。あなた自身を大切にしてください。あなたを貶めた馬鹿な息子の言葉など、説得力が無いかもしれませんが」
自分自身についても客観的な思考を持つ彼は、わかっていた。こうでもしない限りには、己は生きてはいけないと。今の状態に少しでも価値を見出さなければ、すぐに空虚と絶望に呑まれてしまうと。だから、この愚かしい日課をやめることが出来ない。
何より。
「寒くなりましたが風邪にも気をつけて。自分はどこにいてもあなたの健康と安全と……幸福を、願います」
その存在を想うだけで、自分は生きてゆける。
「――リラ」
その音を発するだけで、哀れな男のこころは多少なりとも救われると、わかっているから。
そうしていつもの日課を終えた彼は青紫色の瞳を閉じた。その表情にふと、笑みめいたものが過ぎる。愚かな自分への嗤いと、自身を客観的に見つめたうえでの苦笑であった。
(これはまるで、信仰のようだ)
エルフにとっての絶対的な共通信仰の源といえば、始祖王である。自分のように年若く未熟なこどもでさえ、本来ならその言葉に出来ない畏敬の念は備わり、おのずと信仰対象はそれとなる。だが。
(どうしても、リラが最初に浮かぶ)
自分ではどうしようもないものを願うとき。手の届かないものに、祈るとき。意識の先に現れるのは、いつだってあのいとしい姿だ。姿のわからない、顔も知らない始祖たる存在ではなく。半年ほど逢っていないのに、未だあの顔も色も気配も匂いも忘れることが出来ない。
(今の自分にとっては、始祖王よりも――まず最初に、あのひとに祈りたいからか)
もうひとつ苦笑を零す。今のところどうしたって、この恋情は消えはしない。成就することなど未来永劫あり得ないのに。
(まだ一年も経っていないのだから、仕方がない)
だからこそ、叶わない恋は信仰じみたものを帯びてしまったのかもしれない。手の届かない、精神的な囲いの中でしか存在できない望みだからこそ、より想いは深まってしまった。そしてそれは、生きる本能とほぼ同化してしまった。
生命力の強い生き物はとかく、生きようとする。鬱憤を発散できない場合でも捌け口をなおも探し、どこかしら発露を見出そうとあがくものである。自分の場合はエルフの本来の心の拠り所たる意識が本筋から逸れ、恋心へと向かってしまったのだ。これも精神が肉体に多大な影響を及ぼす精霊族ならではの生存本能、そして一種の防衛感応ということだろう。
しかし。
「……」
なんと進歩の無い阿呆か、と思う。己という罪深い男は、その信仰対象であり生きる導に対し、淫らな情欲を未だ抱いているのだから。
「中途半端だし、情けないにも程がありますね。――リラ、ごめんなさい」
温かだが侘しい寝床で寝返りを打ち、ちっぽけな男は小さく謝った。この愚かな慾も燻り続ける恋心も、歳月と共に収まってゆくのだろうかと考えながら。
■
■
■
自然区域の中で生活するにあたり、風の音程度では目が覚めなくなった。
深い眠りに入ったあと、見るのは決まってあのひとが出てくる夢だ。
これ以上無いほどに優しくて、残酷な夢。
『ティー、』
その響きが、自分を優しく柔らかく包み込む。
『ティー、そろそろ起きなさい』
その手が、身を優しく揺り動かして起こしてくれる。瞼を開ければ、柔らかい内装の部屋を背景にそのひとの顔が微笑んでいた。
『おはよう』
「――」
なぜだか視線を合わせることが恥ずかしくて、挨拶も返せない。身を寝台から起こしたあと、俯いた。眼前の澄んだ瞳が、訝しげに瞬く気配がする。
『ティー? ……ほっぺが真っ赤ね』
そっと伸びる手の平、頬に当てられ表面を辿られる。うーんと首を傾げながらその可憐な顔が近づいて。何よりも芳しい空気がふっと鼻先を掠めた。
『寝起きだからかしら。熱は無いみたいだけど、最近急に顔が赤くなることが増えたわね。これもエルフの成長期のしるしなのかしら』
考え込むように紡がれる声、至近距離で品良く潤いのある唇が開閉する。この分厚くも色濃くもないそれが美味しそうな果実みたいだ、と感じるようになったのはいつからだろう。淡紅色の筆で柔らかく刷いたようなふたひら、そこから覗くものに視線を惹きつけられる。
かぶりつきたい。
『ティー、具合は悪くない?』
実行しようとした刹那、またあの響きが脳内を痺れさせる。合わさった額がついと離され、柔らかい指先で髪を直される。鼻先を手首が掠めるごと、いつもの匂いがする。春の草花と、甘い菓子と、石鹸と。このひとがまとう、すべての芳しさ。
だきしめ、たい。
『――!』
今度は耐え切れず、遮るものも無かったので実行した。ぐっとその手首を引く。引き付けられた細い腰に腕を回し、背中を引き寄せ、柔らかいからだに抱きつき、抱きしめた。いつの間にか追い越してしまった上背の差で、押し包む。胸に当たるやわいふくらみに鼓動が高鳴る。ずっとずっと、こうしたかった。
『……ティー』
驚いたように一瞬動作を止まらせ、しかしすぐにやんわりと抱きしめ返してくれる腕がいとしい。身体を密着させて、頼りない肩を確かめるように辿って、美しい色の髪に顔を埋めればこのひとの匂いが濃くなる。募る想いが、なおも加速する。堪えきれず、首筋に頬ずりしながら囁いた。
「すき、好きです。愛してます」
『わたしも大好きよ、ティー』
いとしいひとが微笑む気配。そう返してくれる優しい声。けれど、欲しいものはその声音ではなく、その感情でもない。
「違うんです、」
自分は、自分が欲しいものは。
しかし。
「 」
その想いを。彼女の名を、呼んだ瞬間。
『駄目よ、ティー』
いとしいかたまりは、かき消えるのだ。
■
■
■
「――――!!」
がばり、と跳ね起きる。
視界に映るのは硬い岩地。遠い豪雨。暗がりに慣れた目にうすらと感じる、小さな空間。平穏で、安全で、侘しい寝床。
こちらの方が、現実なのだ。
「……ッ」
柔らかな霊毛の上で拳を握る。まぼろしが、眼裏から消えていく。刹那の情景を思い起こそうとしても既にそれは辿れず、目を凝らしても「視える」ことはない。ただの夢だからだ。指を握りこんでも手を伸ばしても、もうつかめない、届かない。
苦しかった。悔しかった。
「う、」
喉奥から洩れる嗚咽、されども涙は出てこない。惜しむ資格など無い、欲しがることなど、当然出来はしない。
―――息子として傍にいられる権利さえ破棄したのは、お前自身だろう?
(そうだ、その通り)
無情なほどに冷静なもう一人の自分が、再三己の罪を突きつけてくる。そして愚かな男は、それに項垂れながらも頷くしかない。
―――あのまま想いを押し隠し、あのひとが望むまま、息子として生きればよかったものを。
(そう、そうすれば良かった)
―――人間たるあのひとを本当に大切に考えるなら、そうするべきだった。目算すれば容易かろう? 人間の寿命など良くて百年程度。お前が生まれてからは数十年足らずで終わったはずだ。その間、「演技」し続ければ良かっただけのこと。そのちっぽけな時間において嘘一つを隠し通すだけ、それのどこが難儀というのか?お前には可能だったはずだ。
(そうだ、可能だった)
―――あのひとは思慮深いひとだが、さほど思考が深いわけでもない。与えられた情報を素直に真実と考え、自分が及ぶ範囲での生活に満足するただの人間だった。それはわかっていたはずだ。その望みを叶えることくらい、お前には出来ただろう。
(ああ、出来たはずだった)
―――なぜ、長命種の都合で短命種を扱った。目先の感情に捉われ後々を見なかった。どうしてただの雄の慾で、大切にすべきものを破棄した?
(わからない、わからないんだ)
―――お前のその疑問こそ、意味不明だ。こんなことになるなら、想い自体を抱くべきではなかった。むしろ、なぜ生涯のつがいをその女に定めてしまったのだ。他にも対象はあっただろうに、その選択からして視点が狭い。愚かしい。
「……」
―――人間である実母に恋することなど、無為だというに。お前の恋は、無意味なものだった―――
「違う……………ッ」
握り締めた拳が、打ち震えた声が。力の限り、否定を叫んだ。
「無為ではなかった。無意味、でもないッ」
茫洋としていた青紫の瞳が、瞬時に熱を取り戻す。冷静さなど、かなぐり捨てて。
「自分は、確かに愚かだ。けれど、後悔などしていない……!」
あの行為を選んだ底の浅い自分自身。それは確かに悔いる箇所で、恥ずべき過ちだった。
しかし。
「自分は、ティリオは、」
拳をもう一度握る。温かな寝床から立ち上がり、霊穴の際に近寄った。出口を引き裂くように結界を解き、風雨荒れ狂う外に躍り出る。
纏わりつく冷気も今は感じない。鬱陶しかった無数の「声」すら、今は通常通り心地よい。その理由はわかっていた。自分自身が、この容赦ない風と同化した考えでいるから。
(そう、そうだ。自分は、)
荒れ狂う、されどどこまでも純粋な想いのまま、叫ぶ。
「この恋に後悔などしていない……!」
それこそ、彼の真実だった。
■ ■ ■
永い時間を延々と歩き続け、多くのものが潰えた。知り合った精霊族、魔族、人間、その他中間的器の生物。彼らの殆どが寿命を終えた。生きていた住処さえ時代と環境の変化によって様変わりし、ときに無くなっていった。出逢いと別れ、そして出逢い。終わりの無い命の営みと、消失。小さな双葉だった芽が地に深く根を張る大樹へと育ち、新たな命に次代を託しその寿命を終える。その様を何度見ただろう。何度、去り行くいのちを見送っただろう。
風に煽られ飛ばされた青葉は、風によって翻弄されながらも、散り散りになることはなかった。養分はおろか水分さえ失い、末端に至るまでカラカラに干からびて、なお。完全な枯葉となった今でさえ、葉のかたちを失うことは無かった。母体たる木が朽ちたあとも、拠り所たる大地が死んだあとでさえ。
葉は、大樹の一環で在り続けようとしている。
あの家を出てから半年が過ぎても、一年が経っても、それを数度繰り返しても。……更に気が遠くなるほどの歳月を跨いでも。
(忘れること自体を、途中から忘れていた)
あのひとは、いつだって彼のなかにいた。色褪せることなく、風化もせず、必要以上に美化もされず、あのひとのままその場所に在り続けた。そしてその事実は、彼を彼でいさせた。大樹と名付けられたちっぽけなエルフは、千年の時を経てなお大樹でい続けた。途中で命を投げ出しもせず、魂を磨耗もさせず、風と共に、生き続けた。名付けたひとが、願ったそのままに。自然と共に生き、自然の恩恵がその身に生涯降り続けられる名の加護が、現実となったのだ。
この名は、あのひとから与えられたもの。そして、この肉体も。
(自分は、ティリオだ。ティリオ=シル=イヴァニシオン。リラと―――オレアードの、息子。誇り高き純エルフの子供。当代無二の騎者の血を引き、『騎獣の友』の名戴くエルフ。そしてただの人間の、長男)
愛する存在から血肉を分けてもらえた。それはなんと幸福なことだろうか。
(自分も、父も。あのひとが愛したかけらなのだ)
あのひとが慈しんだもの、愛したもの。そのすべてが、歳月とともに身に降り積もっていった。そう、自分があのひととあの男の子供であるという事実が、独りきりになった彼を何よりも奮い立たせたのだ。この身には、彼らの血が流れている。瞳の色、髪の色、身体、危機状況に陥ったときの対処方法。肌の色、植物を見るときの感情、土を触る喜び、幸せを幸せと思える心、そして名前。すべて、父と母から受け継いだ。彼らに分け与えられ、授けられ、育まれ、教えてもらった。
その全てを誇ることすれ、何を不幸に思うことがあるのだろう。
(リラと、親子で良かった)
嘘と思われてもいい。今は心の底から、そう考えることが出来る。
(母であるあのひとに恋をして―――恋をしたと、自覚することが出来て。本当に良かった)
罰当たりだと、不道徳だと。そんなことは今更な事実だ。
(リラ、あなたを愛している。息子として、家族として、……男として)
悠久の時を越え、悟った真実がそこにある。叶うことの無い恋、されど潰えることも無い心。その事実が自分を未来永劫に生かすのだと、わかったから。
■ ■ ■
《おうさまのようせい、すずしい?》
《おうさまのようせい、きもちいい?》
「ええ、とても涼しく気持ちがいいですよ」
夏のうだるような暑気が立ち込めるなか、旅人は汗一つかかず歩いていた。さほど強風でもないのに細緻な金髪が躍る。服の裾がはためく。するりするりと身体にまとわりつく風精の仕業である。
「あなたがたはどうですか、無理をしていませんか」
《とってもたのしいよ!》
《とってもおもしろいよ!》
「それは良かった。わざわざ風精のいない地域にやってきた甲斐があるというものです」
鼻先を時折かすめる二体の四元精らに、微笑みかける。ここ数百年で、だいぶ彼らとの付き合いも慣れてきた。外殻持つ生命体として彼らと完全に一体化は出来ないが、それでも気持ちに寄り添うことは出来る。そしてそれは、思念など関係が無い。そう、肉声でも彼らはちゃんと言葉を受け取ってくれるのだ。
「ここは風が吹かないために、植物の一部が育ちにくい傾向にあります。彼らの成長を、助けてはくれませんか。代わりに自然区域一帯を治めるものと話をつけ、霊力供給の場を提供しましょう」
《いいよ!》
《いいよ!》
「よろしくおねがいしますね」
彼らが聴いているのは音でなく心の声であり、視ているのは心の映りなのだから。
「いつもありがとうございます」
《おうさまのようせい、よろこんでる!》
《おうさまのようせい、よかったね!》
無理に声に思念を載せても、伝わるわけがない。こうして在りのままに、小細工もせず正直に、無理をせず語りかければちゃんと応えてくれるのだ。力の弱いものほど端的な言葉しか理解出来ないが、彼らのように単独でも力を発揮できるものならある程度込み入った話でも理解してくれる。頼みごとがあるときはそういうものを選び、話しかければいい。弱いものは、強いものに従う傾向にあるのは自然界の動物と同じだ。
瞬く間に駆け抜けていった二体の風精、そして彼らが呼んだ小さな風の塊を見送り、旅人は息をつく。その青紫の双眸には少年の頃には無かったものがあり、変わらないものもある。見た目は青年ほどの年代なのに、悠久の歳月を超えてきた生き物の底知れぬ年輪が、その面に在る。常人には把握出来ない程度であるが。
「自分が出来るのは、この身が果てるまで生き続けることですからね」
(すなわち、一個の精霊族として。ただのエルフ、ただの男として)
凛とした顔立ちに、にっこりと優しげな表情が浮かぶ。彫刻めいて整った美貌に色彩が宿り、自然に動き出すような柔らかい笑み。それは父親と母親の容貌を程よく混ぜたような表情だった。
風は変わらず吹き抜ける。すべての事象と、感情と、想いを載せて。
大樹は風が心地を識り、その身に消えない哀しみを抱きつつもやっと自由になれた。
ただ彼は、死にゆく大地が最期に残した種子の存在を未だしらない。




