二(中)
ざあ、と木々が波打つ音。外は強風のようだ。
「夏も半ばですね」
投げかけられる視線の色は至高の青紫。波打つ木々を形よい表面に映し、縁取る睫毛が翻る。
「シーラ。顔色が悪いですよ」
高すぎも低すぎもしない声が、鼓膜を揺らしてゆく。
「どうしたのですか? ……ああ、」
にこ、と微笑みが美貌をいろどる。
「やっと気づきましたか。思ったより遅かったですね」
視線も、声も、表情自体が。
「まあ、どうでもよいことですが」
無慈悲な、嵐のようだ。
◆ ◆ ◆
シルエラはその日、ひとりであった。
主は、シルエラ以外の者を連れて外出。もうひとりの弟分は未だかの派遣先から帰ってきておらず、自然と彼女一人が、留守を預かるかたちとなったのである。
普段より出入りは少ない建物。その日に限っては未だ最初の訪問がない。ゆえに、物理的な孤立状態となっていた。
否。シルエラ自身は、ひとりでないと思っていた。
だって、傍に「彼」がいたから。
「カルヴァリオさんからの連絡です。霊媒確保の目処が立ったと。従って、装置の再点検が必要になるそうです」
長い睫毛に囲まれた形の良い瞳が瞬き、シルエラを見つめる。
「アルカリー建国儀礼の祭典へ賓客として招かれているため、点検作業に立ち会うことは出来ないそうですが……不備の無いように念は入れたいとのことで」
窓からの微風に吹かれ、複雑な色の髪が靡く。
「光栄にも、点検作業の事前準備を一任していただきました。研究室の確認をしたいのですが、自分は新参者なのでこの建物の構造がまだ把握できていません」
薄く端正な唇が、開閉する。合間に見え隠れするは並びの良い歯列と、滑らかに濡れた舌。こく、とシルエラの喉が無意識に鳴った。鼓膜に響く、高すぎも低すぎもしない絶妙な音。
「シーラ、」
彼女の思考を麻痺させるそれは、続いて懇願を発した。
「シーラ。自分を案内していただけませんか?」
否。
「―――自分と、一緒に来て下さい」
それは、丁重に見えて有無を云わせない命令であった。
勿論、シルエラは気づかなかったけれど。
シルエラらが「生まれた」場所は建物じたいは大きくないが、地下に埋め込まれた空間の部分が広い。上部は覆いと擬態の役割を為しており、下部こそがこの施設の核たる場所なのである。
深めの椀を被せたような形状の建物の内部、壁と天井は透明な硝子張りである。下部は水を通さない床と土、配置されているのは数多の植物だ。さながら温室のようなそこは、名目上は自然区域における絶滅種保存のための植物園である。ただ、その苗床熟成の場と称される部屋の最奥に、隠し扉が存在する。暗がりのまた奥、階下が見えないほどに遠く続いているのは螺旋状の階段。更に途中でいくつもの分岐点に分かれており、道を間違えると行き止まったりいつの間にか外に出てしまったりする。この建物の正体、真なる目的たる人工エルフ生産機関部を、関係者しか把握出来ないようにするためだ。
(主は最初から、こいつを信用してたのね)
自分達にとって最大の機密ならび大切な場所に案内しろと言われた事実に、シルエラは驚きつつも徐々に納得していた。
(主が信用してるのに、信用しないなんてやっぱりおかしかった。こいつ、いやこのひとはただ女に対して無関心なだけで、警戒する必要なんて無い信用できる純エルフ。あたしが疑う理由なんて、最初から無かったんだわ)
もとより、底の浅い思慮と自己中心的な思考の持ち主である。孤立しかけていた状況と切羽詰った精神状態において、今までとは毛色の違う男に優しくされたことにより、彼女は簡単に絆されていた。物理的に他者がいない環境において、主から直接に命令を受けたわけでもないのに、事実確認もせず彼女は彼の言を信じた。見かけは大人であっても中身は幼子そのものである情操は例にもよって深く考えず、こう結論づけたのだ。
(このひとは、あたしのなかま)
単純に、素直に。根本からひねくれてもいない彼女は簡単に認識を改め、笑顔で彼の手を引いたのである。
「モチロンよ!」
「お願いしますね」
青紫色の双眸は、にこやかに細められる。硝子玉のようなそれに映る女の背後、窓から覗ける外の景色は、細い木々の梢が音を立てて揺れていた。青葉が幾つか離され、宙を舞う。
朝から強めだった風が、また勢いを増しつつあった。
薄暗い地下。電池式の灯りを掲げながら、シルエラを先導に階段を下りていく。徒歩でしか降りれないようになっているうえ視界も不良なので、こうして手持ち式の電灯を持って足元に気をつけながら進む。真夏だが陽の当たらない地下は涼しく、空調も利いているので息苦しくもない。途中、会話も弾んだ。
他愛ないことを喋りながらさり気なく研究室にいる人員と総数・生産されたものの経過や現状なども訊かれ、シルエラは問われるがままにぺらぺらと喋った。だって彼は仲間なのだし、自分を頼ってきているのだ。
「なるほど。新世代エルフはやはり、組織の中でも中核を占めているのですね」
「当たり前よ」
何より、彼は聞き役としても上手だった。相槌を打ちながら、相手をさり気なく持ち上げるのがたいそう巧いのである。陥策や色欲無しに自分がここまで気分が良くなったこと事態、ほぼ初めてであった。同じく頼りにされていると感じていても、出来の悪い弟分に抱く優越意識とはまた違う。
(ふしぎ。だけど、悪い気分じゃない)
この男はシルエラを性欲の対象に見ず、かといって無視もせず、主のように命令もしなければリュス達のように甘える風情でもない。他の文人系のように嫌悪や軽蔑の視線で見下げるわけでもない。ただ、シルエラの言葉を受け取り静かに見つめ、静かに言葉を返してくるだけだ。それは、彼女が生まれて初めて体感する「対等」な態度だった。
今までに無いその感覚は、不可解でありながら不快でない。それどころか、正体の解らない高揚すら在る。このひとと視線を合わせるたびに感じる動悸や、声を聴くたびに生まれる温みは、あの日からずっと続いている。そう、あのとき愛称を呼ばれたときから、ずっと。
背後の爽涼な声は、自然な流れで次なる質問を舌に乗せた。シルエラを無意識に麻痺させるあの音と一緒に。
「――シーラ。シーラはリュビリスさんやディアントスさんよりも年上で最年長だと聞きましたが、それより年長のかたはいらっしゃらないのですか」
「いたわよー? でも、随分前にいなくなっちゃった」
実際のところ、シルエラの前に「生まれた」何人かがどうなったのかは知らない、というより覚えていない。彼女にとって、どうでもいいことだったから。今は何より背後の美しい声がシルエラに質問してくること、そして他人と自分とで呼び名を違えていることが心地よかった。このひとにとって、あたしはきっとほかとは違う、特別な存在なのだ。そこまで考えて頬が勝手に熱くなる。また不思議な高揚が襲ってきた。
「どこに行かれたんですか」
「……さーね?」
熱くなった頬を誤魔化すように歩を進める。今は顔を合わせていなくて良かった。
「あ、でも。今思い出したけど、そいつらより前に生まれたやつもいたのよ」
「へえ、」
背後の相槌が興味深げになったのを感じ、シルエラの胸の内側にまた高揚が生まれる。このひとの興味をもっと引きたい。
「あたし達のずぅっと前に生まれた『しょごうしけんたい』ってのは、あたしも会ったことないわ。勝手に出て行って、勝手に自滅したって聞いただけ」
「自滅」
「ええ。過去のことだけど、そいつに費やした金と人手が本気でバカになんなかったらしいわー。しかも主が言うには、まったくの無駄手間だったんですって」
初号試験体。エクイセートと名付けられたそれがどんなエルフであったのかはシルエラは知らない。知っているものといえば、そいつは出来の悪い奴だったという結果だけ。
「なんでも当時の主に逆らって逃げ出したあとで、戦場で殺されたんですって。バカよねぇ」
なんで主に逆らったりするのかしら、と鼻で嗤う。常なら余裕めいた笑みを絶やさない艶美な顔に、珍しくはっきりと苦味が浮かぶ。続く声音も、常よりわずかに低かった。いずれも、無意識であったが。
「ほんっと、主に逆らうなんてバッカみたい」
それを受け、背後の空気が訝しげな様子を帯びた。
「……あなた個人は、そうとしか思えないと?」
「え」
不意にそう問いかけられ、シルエラはきょとん、とする。歩を進めていた脚を止めて後ろを見やると、電灯にうっすら照らされた端正な顔が真面目な表情で見つめてきていた。
「カルヴァリオさんは、確かにあなた方の『親』『主』ともいうべき存在ですが。シーラは彼の言う事ならばなんでも聞く、というわけですか」
「ま、そゆことね」
「少し、伺っても良いですか」
「何ー?」
その形の良い双眸から注がれる真っ直ぐな視線にどきどきとしつつ、シルエラは彼を見上げる。すっきりとした頬と通った鼻筋、薄めの唇と尖った耳朶の先まできれいな肌、個々のつくりはどんな角度でも完璧だ。照明が下から当たっているせいか暗闇に浮かび上がる美貌は恐ろしいほどだが、それでも魅力的なことに変わりはない。
とん、とん、と長い脚がその場に停まっているシルエラの横を通過し、狭い階段の下方に移動する。すれ違いざまほんのりと感じた大気の流れ。たなびく細緻な金髪。
「……」
そして視線の位置を逆転させた状態で、彼はシルエラを見上げてきた。角度を変えた照明に、美貌がまた違った様を見せる。電灯を反射する青紫色が、その表面にしらじらと像を結んだ。
「ときにはシーラにも、カルヴァリオさんに対し意見要望があると自分は感じましたが」
「……どぉゆうこと」
(いけないいけない)
場所を弁えずうっとりと見惚れかけた意識を引き戻す。心の構えを解いてから、どうもこの男の爽涼な美しさだけが目に入ってくるのだ。その認識は嫌味でなく、押し付けがましくもないのに勝手に入り込んでくる。
まるで動いた分だけ髪や肌に触れてくる、かたちの無い風のように。
「今現在あなたが置かれている状況のように、あなたのせいではないのに責任を問われる、そういった理不尽な事態はどうやって解決するのです?」
美しい男は真面目な顔で、そんなことを訊いてくる。シルエラの自尊心を満足させ言葉を聞き入れ易くするため、彼女を殊更に立てる物言いをして。
「そんなとき、シーラはカルヴァリオさんに不満を訴えないのですか」
「――そんなのヨケイな詮索ってやつよ」
「余計、ですか」
「だって主は主なのよ。ヤなときだってヤだって言っちゃいけないの。そうしなきゃいけないから、そうしてるの」
「理由は無い、ということですか」
「理由なんて……」
茶化そうと思っていたのに、真剣な声と同様の表情を向けてくる彼に困惑する。そして、唐突にむず痒い思いが込み上げた。どうでもいいことをこんなにしつこく問い続けるなんて、このひとは、何を云いたいのだろうか。不思議に不快ではないのだけど。
「……だって、仕方ないじゃない」
「仕方ない、とは」
「え、えぇっとぉ、」
(あれ?)
またも、言葉に詰まった。さらりと流せるはずの話題が、流せない。今まで当然だと思っていたことが、今になって不思議に思えてきた。
薄暗い空間に沈黙がおりる。青紫色の端麗な瞳は無言でこちらの言葉を待っている。
さらり、とまた金髪がそよいだ。暗がりなのに、そこだけ薄く光を発しているかのよう。同色の睫毛が見上げる形で上向いている角度は珍しい。輝石よりも重みがあり、鉱石よりも輝かしい二つの青紫が滅多に無いほど近い距離でシルエラを見上げてくる。
(きれいな、ひと)
「……ッあ、あたしは、あたし達は、」
こんな自信の無さそうな音、自分の声じゃないみたいだ。
「あたし達はホラ、主によって活かされるテゴマってやつでしょぉ? なのに、なんで好き勝手振舞うような頭の悪い真似しなきゃいけないの」
「手駒」
「そうよ、……」
当然の認識を話しているだけなのに、彼はそれを反芻しただけなのに、無性に決まりが悪くなった。
「カルヴァリオさんにとってシーラはただの駒だと、そう云いたいのですか」
「そう、よ」
そう。シルエラはいつだって駒のひとつに過ぎない。だって「生まれた」ときから、主にそう定められたのだ。お前はツクリモノだと、ツクリモノが生き物のマネゴトヲスルノヲユルシテヤルト。
「……」
不意に黙りこくったシルエラに、眼下から覗き込む視線の主がゆっくりと瞬きをする。
「どうかしたのですか」
「…………」
なんでもない、とすら返せない。軽く受け答え出来るはずの話題に、完全に詰まってしまった。なんと言ったらよいのか、わからない。こんなこと、どうだってよかったはずだったのに。当然の論拠だと思っていたものが空気よりも軽い虚偽で、疑問だとすら感じていなかった事実が矛盾に満ちた事象であるように感じた。
視界に映るのは数段下に立つ、すらりとした男。無言なのは、こちらの言葉を待っているせいだろう。控えめな男も女性を立てるような物腰の優男なども、探せばどこにでもいる。今までのシルエラだったらとっくに玩具として「堕とさせて」いるか、そうでなかったら興の乗らないつまらない存在として無視するかしているだろう。
(なのに、今は全然無視出来ない。だって……このひとは、純エルフ、だもの)
当初こそ疑いの念を抱いたが、もう既にその感覚は薄い。いったん存在を認めてしまえば、あとはただ単純な五感情報だけが入ってくる。威圧感や猛々しさなど持ち得ていないのに弱々しくもない、不思議な魅力の男がシルエラに話しかけてくるのだ。
男は男だが、このひとは色欲全般に興味が薄い。そしてとても有能で、主も認める生粋の純エルフ。つまりはシルエラの仲間なので、玩具としてみなすことも出来ない。だから調子が狂う、そういうことなのだろう。
(こういう仲間って初めて、だから)
自分も相応の容姿は持っているというのに、見目の良い男なんて今まで沢山見てきたはずなのに、シルエラはこのひとに見つめられるたび感じる動悸をどうしても抑えられなかった。文人系がなよなよしくつまらない存在であるとも、もう思えない。
シルエラは無自覚だったが、これは男の外見というより巧みな話術にあった。決して自分を否定せず鏡のように言われたことを反芻する相手だからこそ控えめな言動でも無視出来ず、どうでもいいことをしつこく問いただされても勢いのまま撥ねつけたり出来ないのである。彼を否定するということは、自分を否定するということだから。
無論、そのように細やかな会話の妙をシルエラが分析できるはずもない。彼女はただ、不可解ながらとてつもなく美しい男性に見つめられ、動揺していた。
「えっとぉ……」
意味なく視線を彷徨わせた挙句、不意にまたどうでもいいことに気づく。このひとはこんなに地味で飾り気の無い服装をしているのに、全然みすぼらしくない、と。自分がそうしているように肌を露出させたりもしていないし、胸元や手首に貴金属など着けていない。弟分らがそうしているように刺青をあちらこちらに入れたりしていないようだし、長い耳朶に穴を空けてそこに耳飾を施したりもしていない。極々簡素な文人エルフ風の上衣と動きやすく纏めた下衣を身に纏っているだけで、あとは在りのまま、なんの装飾も無しに佇んでいる。
(なのに、立ってるだけでこんなに目立つ)
またも、唐突な疑問が過ぎる。このひとと自分は本当に同じ生き物なのだろうか?
(おなじよね。あたしだって純エル、)
『つくりものが』
「――」
出そうとした言葉が、また詰まった。確信を得ようとして、シルエラはそれが出来ないことに気づいた。彼女にとって影響力の大きい存在の声が、頭の中を過ぎったからだ。
脳内でまた、かつての情景が明滅する。
―――
『処理しろ』『情報を選閲遮断するように』『初号の二の舞』『つくりもの』『刷り込みは有効』『私に従え』『つくりもの』『いっぱしの生き物の真似事』『生まれついての淫売』『つくりもの』『実験体』『つくりもの』『つくりもの』つくりものツクリモノ――
―――
足元は、先が見えない長い階段のせいで暗闇である。再び沈黙したその場に、風が音無く吹きぬけていく。「ツクリモノ」、ことあるごとにそう言う主の声が脳内にこだまする。今更だ、今更なのにどうしてそれを思うと目の前が真っ暗になるような心地になるのだろう。
シルエラの手が、電灯を持ったままだらりと垂れ下がる。視界がますます不明になった暗がりの中、置き去りにされた少女のような声が洩れた。
「あ……たし、は……?」
ふかくかんがえたら、だめ。かんがえたら、はめつする。だから、あたしはそうやっていきてきた。なのに、かんがえることをやめられない。かんがえただけ、からっぽのやみに、ひきずりこまれるのに。「それ」をわかってしまったら、あたしはおわり。だめ、だめよ、かんがえちゃ。なのに、なのに。
いつもであったら厭な予感がした時点で思考に靄がかかり、そこで考えるのをやめていただろう。しかし、鏡のような相手に真正面から問われたことにより、シルエラはこれまで有耶無耶にしていたものを無視出来ない状況に陥ってしまった。まともに考えただけ辛くなる、どうしようもない事実なのに。
すなわち、今までの空虚な人工物を。
(ツクリモノって。そういう意味、だったの。あたしは、純エルフじゃない、の。ふつうのエルフでもない、の?)
「あ……あ……」
このまま出口の無い暗がりに彷徨いゆくかと思われたシルエラの意識は、不意にかかった声に現実に引き戻される。
「シーラ」
茫洋と彷徨わせていた視線を仰げば、至近距離にふたつのきらめきが。そして、電灯を持っていない方の手を包む、温かな体温。真顔だったその表情が、ふ、とまた柔らかさを乗せて緩められている。
暗闇の中でも目立つ、その姿。まさしく視界を照らす、光だった。
「シーラ、あなたにとって厭なことを訊いてしまったのなら、謝ります。けれど、忘れないでください」
爽涼な声は、きれいなそのひとは。
「少なくとも、自分が出逢ったのはシルエラ=ディチナーレという名前の女性です。それ以上でも、それ以下でもありません」
彼はひたすらに優しく、
「だからシーラ、自分のことを手駒などと言わないでください。今こうして生きている自身を信頼してください」
シルエラを確実に「堕とす」ことばを発した。
「あなたは、あなたです。……シーラ」
「――――ッ」
無言でぎゅう、と握られた手を握り返す。何かを言おうとしたけれど喉奥にその何かが詰まってしまったかのようで、何も言えない。何も吐き出せない。ああ、こんなことも初めて。
「てぃりお、さん」
「はい、なんでしょう」
顔が熱い。自分が今、どんな顔をしているのかもわからない。なのに、隠そうとも思えなかった。
「ティリオさん、てぃりお、」
込み上げる熱い感情のままになんとか声を絞り出した。このひとの名と、それから。
「あたし、あなたがすき、大好き、」
数週間前にも同じことを言った、なのにそれをまた繰り返してる。いや、あのときとはまったく違う、心からの言葉だった。今までのお遊戯とは比べ物にならない、とても濃くて密なものがシルエラの中に渦巻いているのに。どうして、外に出すとこんなちっぽけで代わり映えのしない音になってしまうのだろう。
「ティリオさん、だいすき……!」
どうしてじぶんはいままで、こんなせかいをしらなかったの。
「――ありがとうございます」
シルエラの渾身の想いを込めた言葉に対し、緩やかな微笑みと穏やかな礼が返ってくる。それは告白をさらりと受け流すような、曖昧ともとれる言い草だったが、シルエラはやはり、気づかない。ただ否定されなかったこと、笑顔を向けられたことに単純に歓喜し、ますますこのきれいなひとへの憧憬と思慕を深めていた。
(あたし、このひとがすきなんだわ)
彼女は不思議な高揚の正体が、やっとわかったばかり。初体験である自身の感情に、目一杯であったから。かつて気味が悪いと思っていた視線をみずから発していることにも、因果応報の土台が完成してしまったことにも自覚が無い。
暗闇の中、緑眼を潤ませ頬を紅潮させる女の表情は、今までの軽薄な華美さとは打って変わってぎこちなくも初々しく、ひどく美しい。綻びかけた花の蕾のように、やっと本物の魅力が顔を出し始めたのだ。今まで潜在意識下に刷り込まれていた主への盲目的忠誠にヒビが入り、本当の自立に向けてやっと足を踏み出したシルエラ。
しかしこの状況下に置いてその認識は地獄への一歩であり、不幸でしかなかった。
「さあ、今はとりあえず先を行きましょう。シーラ、お願いしますね」
「任せといて、ティリオさんっ」
恋に「堕ちた」女を映す至高の青紫は、ただ冷静に瞬く。ややあって歩き出した豪奢な金髪、その背後に続く細緻な金髪は、絶え間なくそよいでいた。―――ここが地下であるのにも関わらず。
彼女が贋者たる遊戯観念から脱し、人型精霊族として本物の道程を歩み始めるに、時はすでに遅すぎた。
「ここですか」
数分ほどで到着したその部屋は、入り口じたいはとても小さい。だが、ひとたび中に入ると視界に広がるのはとてつもなく広い室内だ。
「かなり奥行きがありますね」
「でしょぉ?」
「研究員の方はいないようですが」
「『れいばい』がカクホ出来ないから、その調達のためにあっちこっち散ってるの」
普段は沢山いるのよ、と続け、手元の電灯を手にあちこち回っていくつかのスイッチを入れる。ぶぅん、という音と共に機械が起動し、暗闇だった場が徐々に明るく照らし出されていく。
「電灯は、機具それぞれに備え付けなのですね」
「そーよ」
この研究所内の機具はそれぞれに照明が付いているせいか、部屋全体が明かり要らずだ。地上から特殊な空間を取ってある地下なので、配置物は限定される。光源を必要とすればするほど新たなスペースを確保しなければならない。そういった理由で、地下の研究所は天井に電灯が無かった。配置物を幾つか起動させればそれだけで視界が開けるので、不便は無いが。
「通気口は一箇所のみですか」
青紫の視線が天井を見上げる。気圧や電圧が必要な機具のために四方八方に様々な管が設置されているが、その向こうに見えるのは丈夫な金網の天井だ。室内や機具の温度整備のために配置されてある空調施設はそこに、つまり金網のすぐ上なのだが、彼が言う通りボイラー室のポンプはひとつである。ここからでは見えないはずなのに、どうしてわかったのだろう。
「空間を確保するためというのはわかりますが、奥行きの割には風通しが悪いですね」
「そーお?」
喋りながらも男は狭い通気口を凝視し、脚も歩みを止めている。薄色ながら存在感のある睫毛がゆっくりと瞬きしながら、コードや金属管まみれのそこを眺めている。そのどこか探るような視線に無意識の不安を感じ、また天井を見上げている整った眉目が自分の方を向いていないことが悔しくて、シルエラは彼の腕を引っ張った。
「ムズかしいことはわかんないわ。それよりティリオさん、お仕事オシゴト」
「――ああ、そうでしたね。自分としたことが、すみません」
「うふふ、ティリオさんでもぼーっとすることってあるのねぇ」
彼の視線が自分に戻ったことに安心し、シルエラは満足気に大好きなひとにくっついた。
彼女はただ、嬉しかった。自分達にとって大切で大事なこの場所に、このひとを案内出来たことが。単純に、このひとが視線を向けてくると胸が高鳴る。微笑みかけてくれるだけでよろこびを感じる。もっと笑って欲しい、よろこんで、ほしい。
どうして、もっと早く彼に出逢えなかったのだろう。
「……この機具の配線は、構造上こちらに移したほうが良いですね。シーラ、手伝ってください」
「この電源はこれからの作業傾向において不要とのこと。シーラ、取り外してください」
このひとの役に立てるのが、嬉しい。
「代わりになる電源はこちらのを取り付けましょう。これも節約のためです」
「ああ、そちらの配線はこちらに」
主に対するものとはまったく違う感情が、このひとを見つめるたび湧き出してくる。
「内部の物品のいくつかは、新たな霊媒搬入の邪魔になるそうです。取り出しておきましょう」
「不要なものはひとまとめにしておいたほうが良さそうですね」
従わなければ破滅であるという強迫観念ではなく、ただ単純な喜びがそこにある。彼の言う通りにしただけで気分が良くなるなら話は簡単だ。それこそ深く考える必要がない。
このひとが望むんだったら、あたしはなんでもする。
「シーラ、」
だって、だって。
「―――ありがとうございます。これで準備は完了です」
これがあたしの「はじめて」なんだもの。
・
・
・
地下から地上へと戻ったとき、既に時刻は正午を過ぎていた。長い階段を何往復もし、少人数で地下の研究所から物品を運び出したのだ、時間もそれなりに食う。その間、この建物に誰も訪問がなかったのが不自然でもあったのだが、例にもよってシルエラは気にしていなかった。自分にとって重要なのは、このひとと二人きりであるという事実だけだったから。
「これですべてですね。シーラ、お疲れ様です」
どさり、と袋詰めにした器具を床に置き、青紫の双眸は満足気に瞬く。階段に繋がる部屋は、地下から運び出された荷物で所狭しと空間が埋まっていた。
「ううん、疲れてなんかないわ。ねぇ、次はなにするの?」
わくわく、とシルエラは少女の瞳で彼を見上げる。とにかく彼女は深く考えず、彼が指示するままに動くのが楽しかったから。
男はにっこりと微笑み、置いた袋の内部に手を差し入れた。取り出されたのは細長い形状の試験管。木枠に収まった何本かのそれが、筋張った指に一度に引き抜かれた。ちゃぷんと音を立てたそれには、透明な液体が入っている。
「そうですね――次は、」
シルエラの高揚と期待に満ちた視線を受け、美しい男はまたも微笑む。そして。
「こうしましょう」
視線の高さまで持ち上げたそれらを、床に落とした。
◆ ◆ ◆
「ねえ、てぃりお、さん」
声が、呼吸が。まるで自分のものではないようだ。
「うそ、うそでしょう、」
身体も、満足に動けない。
「ねえ、ねえってば、てぃりおさん、」
そんななかで、シルエラは。
「てぃりお、ッ」
必死に、
「てぃりおっ、ティリオてぃりおティリオ、ティー………!」
「彼」を、確かめようとしたのに。
「――いい加減黙ってください。耳障りです」
返ってきたのは、感情がまったく見当たらない無慈悲な風であった。




