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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第一章
8/127


「教えたと思うけど、麒麟という獣は血に弱いんだよ?」


 我輩の身体を丹念に拭きながら、天使の若者は言った。

「種によるけど、臭気だけで気分が悪くなったり気絶したり、ひどいときは生命力自体が弱まる場合だってある。総じて麒麟は怪我をするような争いや負の感情を避けるけど、血が苦手だからそういう傾向になったってのが大きいんだ」

 鬣に付く残骸を丁寧に洗い落とし、全身も清めてくれる手の動きは口をも動かしながら緩まない。

「その点君らイヴァはちょっと特殊で、目の前で流血があっても割りと動ける。むしろ興奮状態になって、好戦的にもなる。けれど、精神が消耗するのは避けられない」

 角にこびりついていた脳漿その他諸々を拭い取る。晴れ渡った空の瞳が、ぎゅっと細められた。手の動きがふと止まり、白い翼がふわりと寄り添う。

「こんなに無茶をして」

 角を労わるよう優しくなでながら、彼は言った。

「辛かったね」

 我輩は黙って、目の前の藁束に身を埋めた。角を彼に擦り付けるには、まだ汚れは落ちていないと感じたからだ。


◆ ◆ ◆


 優しいだけの夕日が、赤い大地を照らしていたあの日。

 ふらり、身を起こした一頭は、ぼたぼたと赤い泪をたれ零しながら、いちど足元を見た。

 そしてそれきり、ふらつく脚を踏み出す。


 もう一頭は、しばらく動けず、そのままでいた。




 あれから、我輩は泥のような身体を引き摺るようにして、一頭一頭を弔った。

朝方か昼間であったらそのまま数日は自失していただろう。しかし夕日が沈みゆく合間とその直後による薄暗闇、それが視覚的に状況をやわらげてくれていたせいで、割と冷静に動けたのかもしれない。

(とむらわ、なければ)

 我ら霊獣の葬送は自然に帰すのが基本である。しかしそこに悼みや思いやりが加われば、さらに意義のあるものになる。遺されたものは、いとしきものが悔いなく精霊の糧となり得るよう弔う義務があるのだ。例え心をぼろぼろに裂かれた直後とて。

 草地に入って真っ先に目に入った惨状、それを成す親仔の遺骸。全身を切り裂かれた雄と、両断された雌と。そして、喉元を一突きにされた小さな雄と。別々になっていた三頭を寄り添わせるようにして、上から草をかけた。

 草地より奥まったところに倒れ付していたのは、萌黄色の鬣が被さるように亜麻色にかかる、体格差の大きいつがいの遺骸だった。乾いて固まり変色した赤がかの雄の背に広がっていて、重なるように雌の細い身体の下にも同色が染みていた。二頭は動かすことなく、このままにすべきだと思った。願わくば、糧とする精霊も意図を汲んで欲しい。

 更に離れた場所で、もう一組のつがいを見つけた。我輩にとっては最もつらい、弔いだった。


「わが……ちち…、ははよ………ッ」


 四肢を絶たれ、両眼を切り裂かれた状態で赤い海に沈んでいたのは我が養父どのだった。その傍らに、頭部を一突きにされた我が養母どの。それを目にした時、堪えきれず声無き慟哭が地を這った。


 なぜだ。なぜ、彼らがこのような目に遭わねばならなかったのか。何よりも優しく、厳しく、暖かかった存在が、このような有様で命を絶たれた理由はなんだ。そんなもの踏み潰してやる。

『ようこそ、我が新しい息子よ』『我が新しき息子、よろしくね』

 あの日我輩を迎え入れてくれた声はもう、二度と聞けぬ。


 ばらばらにされていた身体を拾い集め、ほっそりとした身体の傍に添わせる。冷風に共に揺らぐ、橙と藍の鬣。赤く染まった大地の上、二頭は心持ち穏やかな表情に見えた。つがいの傍ら、それこそ我が居場所だと誇るように。

 脚が、全身が、石を載せたかのように重い。

 無理矢理に四肢を動かし、残りの連中を弔う。首を絶たれた紅の雄、背を貫かれた紫の雌、その瞳にかつてあった光はどこにも無い。にも関わらず、まるで何かを捜し求めるかのように、寂しげで。彼らの娘である、紅の雌の遺骸を傍に添わせた時、耐え切れず我輩は泣き出した。

「どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてだ……ッ」

 一度溢れた泪は、かなしみは、止まらない。姉のように慕った、大好きだった雌の骸を傍らに、かつての仔どもに戻った勢いで我輩は泣いた。そうすれば彼女は生き返り、何事も無かったようにかの優しげな風情で、慰めてくれるのだろうか。そうであったらどんなに幸せか。

 ああ母御。どうすればいい。


 我輩を置いて、皆が逝ってしまうのだ。


 胸部を裂かれた蒼い鬣の雄、彼のつがいを共に弔ったあと、音も無くいずこへと駆け去った彼らの息子を思う。

(何処にいても、何をしていてもいい)


 死なないでくれ、と。





 全てを為した後、気力を使い果たしぶつりと意識を失った我輩。その身体を赤く染まった場所から連れ出してくれたのは、やはり天使の我が友だった。層に伝わる不穏な空気を読み取り、かの臭気を探知しながら辿り着いた先が我らの群れが拠点とする草地だった、と彼は語る。

「とりあえず、今は身体と心を休めよう。これからどうするかはそれからでいい」

 ぼろぼろになった我輩を手当てしてくれたあと、友は何も聞かずしばらく自宅に置いてくれた。落ち着く香りのする藁束を寝床に、我輩の好物を食物に。まるで、六年前に戻ったかのように。

「君はよく、頑張ったよ」

 暖かな言葉に、ほろりとまた泪が零れた。


◆ ◆ ◆


 友の自宅に舞い戻って、五日ほどは経っただろうか。

 恐る恐るではあるが、あれから現場はどうなったのか彼に聞いた。

「すぐに天の上層部から調査が入ったよ。残留思念の読み取りなどが行われるから、近いうちに結果がわかると思う」

 群れの遺骸は皆真っ当に、精霊の糧として昇華されたそうだ。それを聞いて安堵する。

 ただ、かの場所に残る骸はそれだけではなかったはずだ。

 こちらの視線に含まれるなんとも言いがたい色を、我が友はすぐ察してくれる。

「ああ、奴の死体はすぐに天の上層に届けた。君の家族と一緒に昇華されるなんてたまったものじゃないしね。天には無い道具をもっていたから、もう少し詳しい調査が必要だと思う。けど、」

 軽く息を吐き、やるせない風で呟く彼。

「器の――死体に残っていた気の礎は、間違いなくこの界の霊気たるものだった。つまり、奴は間違いなく天に生まれ育ったもの、恐らくは妖精だ」


 妖精。

 天にすまう二本足のものは、なにも天使だけではない。下層から中層にかけて、妖精と呼ばれるものが存在している。ただし天においては至極稀少な部類であり、見かけることは珍しい。何より、彼らが多く棲むのは天界より人界のはずだ。

「天に棲む妖精ってのは本当に珍しい。なにせ、その身体は純粋な霊気で練り上げられてもいない、かといって完全な『外殻』でもない。人界の生物と同様、色々なものが混ざって成り立つ類の器なんだ。だからどっちかっていうと、人界の方が棲みやすい」

 妖精が天にすまうとしたら、大概は人界と近い下層に限られる。しかし、他の層と出入りしやすい利便性を求め、中層に棲むものもわずかながら存在するという。

「妖精は、天使ほど霊力が強いわけでも霊獣ほど筋力があるわけでもない。代わりに頭が良くて手先が器用だから、界にあるものを用いて様々なものを作り出すことが出来る。そしてその能力により、彼らは古代での人界で繁栄した」

 彼ら妖精の作り出したもの、特に形ある道具は「霊具」と呼ばれ人界で知られている。

「器においても能力においても、彼らは俺たちよりも人間に近いのかもしれない」

 でもね、と天使の若者は腕を組む。

「霊具は、人界においては彼ら自身を護るためだけではないことに使われた。あまりに強力過ぎて、ね。元々力を持つ超自然の産物に、更なる霊力を組み合わせて最も力を発揮する形に作り上げた、そんなものは人界においてまさに凶器だよ。想像の通り、争いが生まれ、戦争が起こり、いくつも国が――ああ、人間における大きな群れのことね――滅んだ。ひどいものだったって聞いたよ、人界で失われた命が多すぎて、最高位天使様でもその思念を救いきれなかったって」

 哀れみを滲ませ、彼は続ける。

「人界で巻き起こった戦乱は、人間だけではなく、彼ら妖精にも傷跡を残した。多くの命が失われただけじゃなく、貴重な霊具が殆ど壊され失われ、彼らが信奉する始祖たる王族も戦争の火種に巻き込まれ、全員が死に絶えてしまったらしい」

 憂いを浮かべた晴天の瞳が、ついと虚空を見上げた。

「彼らは戦乱が収まったのち、いずこへとばらばらに散って生活し始めた。天へ移住してきた者もいる。彼らは彼らなりに、精一杯周囲に溶け込もうと頑張っているから、そういう者に対しては俺たちも協力を惜しまず援助している」

 彼らがその数を減らした戦乱、その根源は間違いなく彼ら自身の作り出した凶器だ。自業自得と言ってしまえばそれまでだろう。しかし、どのようなものでも、生きようと足掻く姿を理不尽に踏みつけられる謂れは無い。共存できるのであれば、それに向かって邁進する。誰だって生きたいのだから。


「けれど、共存を望まない例外も一部だけど、居るんだ」


 もしかしたら奴は、その類かもしれない。そう吐き出した天使の友は、至極憂鬱そうだった。


◇ ◇ ◇


 どんどんどん!


 長くなった話に「一息つこう」と友が腰を浮かしかけたその時、家屋の扉が激しく叩かれる。

 この、気配は。

「はいはいー……って、わっ!」

 軽く答えながら、扉に手をかけるも外から開かれ、勢い余って前へ倒れこむ我が友。それを華麗に避けながら扉の外、すっくと立つその姿は、以前も目にしたことがあった。


「応答が遅いわよウスノロ」


 その霊気は我が友と似通ったものだ。容貌も、我輩より彼に近い。しかし、背に持つ翼の色はまったく違った。

「エルヴィンのくせにあたしを待たせるなんて、生意気。そのまっちろい羽毟られたくなかったら、次からもっと早く戸を開けな」

 顔を合わせるなり穏やかとは言いがたい口調でまくし立てたのは、我が友と同じ天使である。ただしその背に広がるのは真っ黒な翼であり、彼の霊力とは属性が異なるのが一目でわかる。よく見ると容貌も異なり、声もこのもののほうが遥かに甲高い。我らで言う「雄」が天使の我が友だとしたら、このものは「雌」にあたるのだ、と以前説明を受けた記憶がある。二本足の容姿は、我輩にとって区別が難しいのだが。

「……はいはい、悪いねサリア。ちょっと今立て込んでるんだ」

 突如現れた黒き天使の毒舌にも動じず、翼を使って体勢を整えながら慣れた調子でそう返す友。黒き天使は双眸を眇め、ひょいと家屋の中を覗き込んでくる。友の翼越しに、鮮やかな空色と目が合った。

「立て込んでるってのはそいつのこと?」

「そ。以前も逢ったよね。彼は、」

「知ってるわよ。大体六年ぶりだっけ? あの時のイヴァがかなり成長したもんね」

 白い翼の説明を遮り、無遠慮にずかずかと家の中に入ってきた黒い翼。友のものより色の濃い瞳が、ぱちりと大きく瞬き我輩を眺め回す。その口唇が、面白げに釣り上がった。

「ふうん。同族十頭以上の血を見ても壊れなかったの。随分頑丈じゃない」

「――サリアッ」

 友が珍しく声を荒げる。一瞬、黒き天使が何を言っているのか解らなかった。

「何よ、本当のことでしょ。麒麟が大量の流血沙汰を目撃して、未だちゃんと生きてるってこと自体が奇跡に近いんだから」

「だからって、そんな言い方は無い。彼は今、療養中なんだ」

「は、ここまで図太いイヴァがこれ以上療養する必要なんざ無いでしょうがアホ。てゆうかあんたさ、いつまでエルヴィンとこにいるつもり?」

 いきなり我輩に話を振ってきた。しかも、何やら喧嘩腰だ。その勢いと内容にぎくり、と身体が震える。

「サリア、いきなり何を言ってる」

「アホエルヴィンは黙ってて。ねえ緑の鬣持つイヴァ、あんたもう平気なんでしょ? ならどうして同族でもないこのお人よしの家なんかに、いつまでも居座ってるの」

「それ、は……」

 言葉に詰まった。何かを言いたかったが、何も言えなかった。

「本当だったらとっくに独り立ちしてておかしくない年頃なんだから、いつまでもぬくぬく他種族の棲家にいること自体、間違ってるって言ってんの」

「……」

 何も言い返せない。その通りだったからだ。

「その様子じゃあ、わかっててここにいるのね。わかってないのはこのアホ天使だけか。大方、このアホの思惑を薄々察して留まってるって感じ? 律儀なイヴァねぇ」

「な、なにがわかってないっていうんだ。それに思惑ってなんだよ」

 我が友が、焦ったように声をあげる。

「彼はとても弱ってたんだ。保護するのは当然だろう。今も完全じゃないし、第一、友に優しくして何が悪いんだ」

「優しくするのと甘やかすのは同じで同じじゃないわ」

 黒き天使は、ぴしゃりと断じた。次いで、やや物柔らかに彼に問いかける。

「ねえエルヴィン。 このイヴァは、六年前と同じことをあんたに繰り返したのかしら?」

 自分が傷つけられたとて、他人にもそれを強要したか?葛藤のまま、当たり構わず暴れた?それともまるで意味の無い、自らを省みない行動に出たか?

「ッ…………いいや」

 友の目から、焦りと険が抜け落ちた。晴れ渡った空の瞳が、ぎゅっと絞られ我輩を見つめる。その表面は水面のように揺れていた。

「右も左もわからなかった仔どもとはもう、わけが違うのよ。彼はもう、自分の脚で立って駆けることの出来る成獣。だから仲間の死を目の当たりにしても己を保って、敵を討ったばかりか立派に全員分の弔いまでこなした。その後も精神的錯乱すら無く、こうして理性ある瞳であたしたちを見据えている。誇り高きこの一族を自己満足じみた甘やかしで引き留めるのは、道理に反してる」

 黒き天使は静かに言い放つ。


「このイヴァはあんたが思ってるよりずっとつよい。それはあんたが一番良くわかってることじゃないの?」


(……)

 しばし沈黙が降りた。友はいちど黒き天使を見てから、我輩を見て微笑んだ。彼がまた、あの表情をしている。

「そうだった、ね」

 ああ、晴天が、泣きそうだ。

「君は俺なんかより、ずっと毅き存在だ。なのに、ずっとこの家に引きとめたがっているのはこの俺だ。ただ、寂しいから。一人でこの家にいるより、誰かがいてくれた方が何倍も慰められるから。それだけなんだよ、俺が君に優しくするのは。ただの……そう、ただの自己満足だ。ごめん、本当にごめん。君らイヴァを、誇り高き一族を下に見ていた」

「我が友、」

 たまらず、彼に飛び掛るようにして言った。

「そんな顔をしなくていい。この家にいつまでもいるのは、我輩の意思でもあるのだ」

 本当ならば身が清まった時点で出てゆかなければならない、それに気づかぬ振りをして居心地の良いこの空間に留まり、友の好意に甘えていたのは我輩なのだ。確かに彼の行動には無意識の惑いがあったかもしれぬ。しかし、それに寄りかかり一時でもおのれの脚で駆けることをやめたのは、ただ単に我が内なる弱さ、それだけなのだ。

 どうすれば、この気持ちが伝わるのだろう。我輩は、この友に言葉ではそれこそ語りつくせない借りがあるのに。

「我輩をあの場から連れ出してくれたこと、身を清めてくれたこと、ここに居させてくれること、全てに感謝している」

「ううん、それも全部俺の自己満足なんだ」

「それでも、感謝している」

 今はすっかり汚れのとれている角を幾度も擦り付ける我輩に、またあの温かな感触が寄り添う。

「……感謝するのはこっちだ。助けているつもりで、助けられているのはいつも俺の方だね」

 同じく温かな手が、ふわりと瞼を覆う。見えなくなった視界のすぐ傍で、掠れ声が囁いた。


「……ありがとう、翼無き我が親友よ」




「おさまりついたとこ悪いけど」


 不意に、空気を断ち切るかのように甲高い声が響いた。

「あたしがここに来たのは、あんたらの友情ごっこに付き合うためじゃないの」

 温かな感触が遠のいた。同時に「はわっ」という友の悲鳴、ごつっと何かが床に当たる音。視界に映るのはなぜか床に突っ伏した白い翼の主、それを冷淡な目で見つめる黒い翼の主。

「とっとと客人に茶の一杯でも用意しろやウスノロ」

 臀部を押さえながら立ち上がり、涙目になった若者は背後を見上げる。文字通り尻を蹴飛ばした少女を。理不尽な暴力に非難の声をあげかけた彼は、彼女にぎろりとにらまれ簡単に萎縮した。

「わ、わかりました……」

 ふと納得できたような気がした。どの世界においても、雄が雌に弱いのは共通らしい。


◇ ◇ ◇


 天の御使いたるかの一族は、霊力属性を二つ持つ。ひとつは、我が共に代表される白き翼の光属性。もうひとつは。

「この茶葉しけてんじゃない? 超マズいんだけど」

 眼前の毒舌家に代表される、黒き翼の闇属性だ。

「ひどいよ、サリア。淹れろって言うから淹れたのにそんな言い方!」

「悔しかったらもっと美味く淹れられるようになりな。あそっか、この家は客来ないからしけてんのか」

「っまたそう心を抉ることを……っ」

 我が友を涙目にさせる毒を吐きながら、その容貌自体は至極無害そうだ。枯れた霊木で作られている椅子に座り茶器を傾ける仕草は物柔らかで、口調とは正反対の感情が含まれているように(勝手にだが)思う。

 我が友の棲む家屋はさほど広くない。といっても、でかい図体を持つ四足の他に二本足がふたりも入れるのだから、広くもないが狭くもないというべきだろうか。我輩が滞在するようになってから、香草藁が寝床に敷き詰められている。そのせいで至極良い香りに満ちた、居心地の良い空間だ。

 今は香草のものに混じり、別の匂いが家屋に漂っている。天使の友が家屋の裏側に回り、物置のような場所から引っ張り出してきた茶色の物体の匂いだ。水分をほぼからからに飛ばせ、乾燥させた葉。そこに湯を注ぎ、色と味、香りを染み出させたものを飲むのだという。何度見ても不思議で面白い過程で、また漂う匂いも不快なものではないので、思わずじっと見つめてしまう。

 茶葉を蒸らす様子もそれを飲む様子も凝視している我輩が気になったのか、黒き翼の客人は茶器を片手に「あんたも飲むの?」と聞いてきた。至極残念ではあるが、我輩は熱い水が得意ではない。例外無く口内を傷めるからだ。そう言うと彼女は納得していた。

「やっぱあんたって獣なのね」

 夜空に浮かぶ星の色をした髪が、軽く波立って肩に流れている。友の持つ陽光の色の短さとは対照的な風情だ。上背も横幅も、我が友より一周りから二周りほどは小さい。背に広がる翼の色といい肝心の性質といい、似通っている箇所があまり無いふたりであるが、唯一共通とも言えるのがその瞳だった。全てが同じではないが、同じ系統の色だ。陽の光が眩しい夏の晴天と、それより気温が低く色が濃い秋の晴天。例えるならそのようなものだろう。

 彼女とは、六年前に一度だけ出逢ったことがある。我が友が与えられていた天の役職――界の巡察警護という大仕事を手分けして行っていたひとりで、彼の同僚にあたるのだと、当時はそう聞いた。

 黒き翼の天使は白き翼の天使と表裏一体だ。闇たる力の持ち主は、必ず光たる力の持ち主と対になっており、その補助を務める。逆もまた然り。彼らは互いに助け合う間柄なのだろう。

 六年前、我が友は幼き我輩を保護するため仕方なしに一月ほど仕事を休んだが、その間代役を全て引き受けてくれていたのが彼女なのだ。つまり、我輩はこの天使に対しても恩がある。それを言ったら、「恩とかひきずるの、面倒くさい」とあっさり感謝を流された。つくづく、彼女は彼と正反対な天使だと思う。我輩が今まで出逢った雌の誰とも違う。しかし彼女の持つ低い温度は、不思議に不快と感じない。

「黒き天使どの、あまり我が友を虐めてくれるな。友は打たれ弱いのだ」

「あらよくわかってんじゃん。こいつ本当に弱っちーからねー」

 彼女と話すのが楽しいのは、この見解の潔さからかもしれない。明け透けとも言う。

「うむ。気にしなくとも良い箇所を気にするしな」

「なんでそんなんで落ち込むの?ってことで落ち込むし」

「しかも這い上がるまで時間がかかる」

「自分からは戻って来れないくせにねー」

「面倒だな」

「面倒よね」

「君たち俺のこと嫌いなの!? 絶対そうだ、そうなんでしょ!!」

 瞳を潤ませ半泣きで叫びながらも、新しい茶葉を蒸らし始める我が友。打たれ弱いがへこたれないのが、この若者から見習うべきところだ。ここまでからかい甲斐のあるものも中々いない。それに何より、彼の一番良いところは別にある。

 彼が我輩用に出してくれた蜜スグリの実をかりかりと噛み砕き、飲み下してから、付け加える。

「だが、我が友は至極優しい。我輩はそのような箇所が好きだ」

「ですって」

「っ…………それはどうも」

 途端、目に見えるほど照れた風情になる我が友。わたわたと茶葉の入った器を上げ下げしたかと思えば、「ほらっもっと食べなよっ」と新たに蜜スグリを押し付けてきた。とても頭が良く気のきく彼だが、感情が常に駄々漏れなのは、もはや変わらぬ性質なのだろう。黒き翼の彼女がやけに彼に毒を吐くのも、こういう姿が見たいからかもしれない。

「まーエルヴィンをからかうのはこれくらいにして」

 生ぬるい視線を同僚に送ったあと、黒き天使は茶器を傾けた。白い喉が良き香りの茶を飲み干し、同色の白い指が茶器を置く。ふと、彼女のまとう空気が変わったのを感じ、我輩の片耳がぴくりと跳ねる。

 彼女は、我が友とは違った意味でやや特殊な役割をもっている。それが天「本部」の使役としての役割である。つまり。

「ここに来たのは、報告があるからよ。まずはかの死体および保有武器の調査結果」

 ごく、と友の喉が鳴った。




「睨んだ通り、かの死体は妖精。種はエルフ。生まれてから五十年ってところ。名は……エルフの固有名って長いから忘れちゃったけど、先の戦乱で直系が途絶えたとされる名門貴族の出身だったわ。親が人界から天界下層への移住者で、二十年ほど前に亡くなってから子供だけ行方知れずだったみたい」


 エルフとは、妖精の一種だ。人界において最も繁栄した種族で、外見もかのものに似通っている。大きな違いは寿命の長さと身体能力、そして武器を携えた際の凶暴性にあるという。彼らは普段穏やかな生活を好む種族だが、争いとなると極端に気が荒くなる傾向にある。その二面性は天においても有名であり、彼らがここではなく人界にて発展したのも、その性質によるものが大きかったらしい。何せ人界は天界の比較にならぬほど、争いや戦乱が多い界だからだ。

 我が群れを襲った輩は、五十歳ほどの若いエルフだった。そして携えていたのは、霊具という名の武器。


「奴が保有していた霊具、あれね。天界ではなく人界との狭間の『超自然区域』、そこに存在する類の鉱物を用いて、エルフの武器強化的な霊力を込め鍛え上げた剣だった。刃渡りの伸縮以外特殊能力は無いけど、軽さと切れ味が極限まで高まってた。だから、あんなに簡単にイヴァを殺すことが出来たのね」

 いくつかの言葉に反応するよう、こちらの喉も鳴った。

 イヴァを。

 殺す。

 脳裏に赤とかの絶叫が過ぎって一瞬立ちくらみが起きたような気がしたが、なんとか耐える。

「……それで」

 震える声で促せば、秋が晴天の瞳がこちらを見据えた。

 これ以上この話を聞く気力はあるか。静かな双眸はそれを問うている。

 ある。我輩は、事情を知りたいから。

 蹄を踏みしめ、正面から彼女を見つめ返した。視線で頷き、黒き天使は言葉を続ける。

「天に棲む妖精の大半は細々と穏やかに暮らしてる。人界での過ちから学んで、霊具の扱いも慎重になった。戒律を作って制限もしたぐらい。けれど、本能的な凶暴性にとらわれて、霊具を武器として振るいたがる輩もいんの」

「かつて人界での妖精は、霊具により繁栄し霊具により衰退した。災禍を生き延びた輩の多くは深く自省し、過ちを繰り返さないよう誓ったんだ」

 こぽこぽと新たな茶を注ぎながら、我が友が注釈を入れてきた。声に憂いが滲んでいる。

「……戦争において勇壮なエルフは英雄だった。命を失わせることはおろか、どんな残虐な作戦も実行することが出来たから。それゆえ最も命を狙われ、最も数を減らした妖精でもある。だから、一族が味わった悔恨も残された自戒も重く厳しい」

 しかし、戦乱を知らない若者、特に知らぬうちに孤児になったものらにその真意はわからない。自制心を求めたとしても、教えるものがいない限り無理な話だ。

「奴はおそらく、強力な霊具に魅せられ、エルフたる凶暴性に心を支配されていた。若いから自制心も無い、だからあれほどの凶行に至ったんだろう」

 ただ、あのエルフの若者は、単に殺戮していただけではない。何か目的があった様子だった。遅れて現れた我輩に対して「ついて来い」というようなことを言っていた。

「あんたの群れがいた草地にも行ってきた。残留思念を出来る限り読み取って、見えてきたことがあるわ」

 そこでじっと秋の晴天がこちらを見上げた。全身を強張らせて耳を立てている我輩に、視線で再度問いかける。

 ここからは、更に辛くなる。それでもいいか、と。

 頷いた。どちらにせよ、そうでなくては我輩は前に進めない。

 彼女は息をひとつ吐き、続けた。

「群れに対して奴は何か最初交渉していた。けれど拒否されて、見せしめとしてまず群れの長を斬ったの」

 それから他の連中にも交渉を持ちかけたが、いずれも拒否を示され。

「逆上した勢いに任せて、奴は逃げるものすら逃さなかった」


 我が群れは。


 それだけの、理由で。


 ずきり、と。なぜか背の皮の疼きが始まった。

 我が友が、そっと手を背に乗せさすってくる。ずきずきと痛みにも似た疼きにさして浸透もしない程度だったが、気持ちはやんわりと伝わってきた。

 視線を彼と合わせ、深く頷く。

(大丈夫だ。我輩はもう、壊れない)

「……かのエルフの目的は、何だったのだろうか」

 そう聞くと、鮮やかな晴天がふと細められた。それはこの手厳しい天使の少女にしては、至極珍しい優しげな表情でもあった。労わるような、よく耐えたわねと褒めるような。

 かの表情は一瞬で消え、次の瞬間には見慣れたものになっている。

「そこで出てくるのが、昨今地味に問題になりつつあった、イヴァの失踪事件よ」

 卓上の茶器は、すっかり冷めてしまっていた。




「あんた自身イヴァだし、もう知ってるでしょ。天全体において、イヴァが群れから突然失踪するのが続いてるってこと」

 頷くと、彼女は続けた。

「イヴァの群れはだいぶわかりやすくて、拠点とする場所はほぼ動かないことが多い。例えばあんたがいた群れは、もうざっと五百年はあの緑豊かな草地に留まって生活してた。北の切り立った渓谷、あそこの群れはもっと長く棲んでるわ。あと有名なのは南西の砂地で暮らす群れ、彼らは人界で言う創生期直後の時代から、ずっと拠点を移してない」

 それが、なんの関係があるのだと考える。

「あんたらみたく強い脚と旺盛な好奇心を持っていれば、行動範囲は広くて当たり前。けれど、棲み処及び補給場所が変わらず定まっているなら、その行動パターンは読みやすいってわけ」

 我らの行動域が読まれやすい?

「失踪ってのはいくつか理由が考えられるけど、君らの場合群れから無断でいなくなることはほぼ無い。つまり、不可抗力ってことだ。調査をするうえで判明していったのは、思念や気配を残す暇も無く、どこかへ移動したのだということ。抵抗も出来ず、何者かに連れ去られ隠された可能性が、最も高いということだった」

(何者かが我らを)

 一体、誰が。

「―――誰が、」

 おのれのものとも思えぬ声が、洩れた。

「誰が、なんのために、連れ去ったというのだ」

「それがずっとわかんなかったの」

 こちらに含まれる険に気づいているだろうに、気づかぬ振りをして会話を続けてくれる天使の少女。

「けど、ついに尻尾を出したのが先日。そう、……その、あんたの群れを襲った、あいつよ」


 脳裏に蘇る、猟奇と退廃が織り交ざった視線。だれた雰囲気。濁った瞳。飛び散る赤。

 赤を浴びた唇が釣り上がり、声が。


『なーそこの。ちょっくら俺についてこいや?』


 ざわりと総毛だつ身を宥めるよう、天使の友はとんとんと背を叩いてくる。

 なぜだろう。こんなときに、これまでで一番と言ってよいほど背の皮が疼いている。


 湧き上がる恐怖を、なくしてくれるものを。

 離れているもう一つの魂を、呼びよせるように。



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