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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第六章
73/127

挿入話・ある男の追憶

※色々と痛い話且つ心持ちR15





 彼が生まれてから最初に目にしたのは、美しい女の顔である。

「まあ、もう意識があるようです」

 女は自分と目を合わせ、にっこりと微笑んだ。彼もつられて微笑んだ。

「成功といっていいですわね」

「そのようだな」

 女の横合いから、別の声。彼の視界に現れたのは、これまた美しい男の顔である。ただ、男は女と違って笑ってはいなかった。彼もつられて笑顔を消した。

「純エルフの遺伝子を掛け合わせたはずだ。なのに、なんだこの汚い肌の色は」

「そんなことを言わないでくださいな。褐色は確かに珍しいですけど、南方の国ではありふれた色ですわ」

 女は男を窘めながら、こちらにまた視線を移して微笑んだ。その笑顔を見ると彼もやっぱり同じ表情をしたくなった。

「こちらの顔も、もう識別出来ているのね。なんて賢い子なんでしょう」

「賢いかどうかは、試験管から出て判断することだ」

 女はこちらを柔らかく見つめ、優しい音を発しているのに。男はこちらを突き刺すように睨み、発する音も刺々しい。

「せいぜい我々の期待に沿うよう、動け」

 そんな刺々しい声音は、続く優しい声音にかき消される。

「待っているわね、あなたがこちらに出てくるのを」

 彼は、女の顔を見ながら頷いた。

 このきれいなもののそばに、すぐいきたい。そう思ったから。



 彼が「出て」こられたのは、それから間も無くのことである。

「凄いわね、本当ならあと一週間は培養液に浸かっていなければならなかったのに。たった三日でもう外表が完成して、筋肉も半日でつくなんて。あなたはやっぱり凄い子ね」

 女は彼の「誕生」をとても喜んでくれた。あの笑顔が至近距離にある。それだけで、これまでの苦しみも霧散していくようだった。

 彼は外に「出て」きてからすぐに歩けはしたが皮膚が弱く、動くたびに出血した。硬くて冷たい物体を身体の要所に付けられ、手足を粘度のある液体に浸し、その状態で数日過ごした。表面組織が外の空気に慣れる間、大層な苦痛を伴ったが、気持ちで耐えた。傍できれいな顔と優しい声が励ましてくれたからだ。そして硬い機具が取り払われたとき、彼女が彼の腕を引いて、その場から連れ出してくれた。そう、嫌な気配が充満していた建物内から、狭くも清潔で温かな家へと。

「今日からわたくしはあなたのかあさまよ。言ってごらんなさい。『お母様』」

「オ、カア、サマ」

「そう、そうよ!」

 彼が言葉を反芻すると、女の顔がますます輝く。

「やっぱりあなたは賢い子ね」

 女が嬉しそうだと、彼も嬉しい。

「ずっと考えていたの。もしわたくしに子供が出来たらと思っていた名前。それを、あなたにあげるわね。だって実験体一号じゃあかわいそうすぎるもの」

女の優しい声が、その言の葉を紡ぐ。

「エセト。あなたの名前はエクイセートよ。エクイセート=ディチナーレ」

 二つ目の名は、あなたのおとうさまに名付けてもらいましょうね。女はそう続け、またあの微笑みで彼を呼んだ。

「ねえ、エセト?」

 彼はそのときから、おのれの呼び名が「エセト」だと認識した。このきれいなものがそう呼ぶなら、自分はエセトなのだ。そのことを、識った。



 彼は「生まれて」すぐ動けるようにはなっていたが、ひとりで生きるには些か問題があった。見かけはもう女と同じかそれ以上の大きさだったのに、言葉がうまく発せなかったのだ。

「エセト。これは何かしら?」

「リ、……リン、ゴ」

「そうね。じゃあ、これは?」

「ホ……ホン」

「そうよ。段々上手くなってきてるわ。その調子」

 女はそんな彼に一日中付き添い、物をひとつずつ手に取り指差して、彼に教えた。そうしていくうち彼は知識を蓄え、常識を吸収し、程なくぎこちないながらも普通に生活をおくれるようにもなっていた。ただし、言葉だけは中々普通に繰れない。何を喋っても抑揚の無い平坦な口調になり、それが嫌で声もぶつ切りになってしまう。女と違う低い声音をなんとか高くしようとしては咳き込み、無理だとわかってからますます言葉が出てこなくなる。悪循環だった。

 このきれいなもののように、柔らかに、優しく音を発したいのに。

「……」

「どうしたの、エセト」

「オ、オカア、サマ。えせと、オカアサマ、オナジ、シャベ、リタイ」

「そう。でもエセトは生まれたばかりなのよ。無理をしてはいけないわ」

「え、えせと、オカアサマ、チガウ、イヤダ」

 なんで自分とこのきれいなものはこんなに違うのだろう。声も、喋り方も。姿だって。

「……そう」

 女はほんの少し困ったような顔をした。それを見て彼は胸が痛くなり、やっぱりこんなこと言わなければよかったと後悔した。女が困ると、彼も困るから。

 しかし次の瞬間、女はいつもの笑みを浮かべて彼に言った。

「焦らないで。エセトはお母様と確かに違うけれど、それは違ってて当たり前なのだから。エセトはこれから、時間をかけて成長していくのよ。だから、焦らないで」

 彼は思った。このきれいなものがそう言うのなら、そういうことなのだろう。



 彼が女と過ごすようになってしばらく経った。

「お母様……オハナ」

「まあ、ありがとうエセト。わざわざ摘んできてくれたのね」

 彼は徐々にであるが、女と同じように喋れるようにもなっていた。相変わらず平坦な口調は抑揚が無く感情表現には乏しかったが、取り敢えず女の呼び名だけは普通に発することが出来るようになっていた。練習の成果だ。

「少し背が伸びたわね。髪も」

 女の柔らかい手が、彼の髪を梳く。最近気づいたこととして、このきれいなものと自分が違くとも嫌な気分にならないことがある。それが、身体の大きさだ。

「エセトは男の子だから、どんどん大きくなるわね」

 さらり、と彼の髪に差し入れられる細い指。彼のものと比べてひとまわりは小さい手の平。白い手首。視線を落とせば目に入る髪のわけ目。その下から、優しい瞳が見上げている。優しい声と共に。

「えせと……オトコノコ。お母様、オンナノコ?」

「そうよ。男の子と女の子では、成長の仕方が違うのよ」

「お母様……ノビナイ?」

「ふふ、そうね。わたくしはもう大人だから、背はこれ以上伸びないでしょうね」

 少しだけ、その瞳が寂しそうに見えて。彼は慌てて言った。

「お母様……キレイ。セ、ノビナイ、ヘイキ」

「あらあら、慰めてくれるのね」

 女の笑い声が弾けた。

「それに、お世辞なんてどこで覚えたの。本?」

「オセジ……チガウ」

 彼は本気で、きれいなものにきれいだと伝えたかった。



 平穏な生活は、突如として破られる。

「随分と図体が成長しているな」

 ある時、彼と女が暮らす家に入ってきた男はそう言いつつ彼を見下ろした。見覚えのある、突き刺すような視線で。あの刺々しい声と共に。

「情操が発達しないまま世に出しては問題ゆえ、お前に預けたのだ。経過は良好であろうな」

「はい、もちろんですわ」

「それで。人工培養の純エルフ第一号として、使い物にはなりそうか」

「……ここでは、話しにくい、ので」

 女の瞳が潤んでいる。彼は疑問に思った。どうしてだろう、きれいなものの表情がいつもと違う。具合が悪そうなわけでもないのに、まるでじっとりと、熱を含んだような目付きで男を見つめている。

 対して男は、平坦で冷たい表情でその視線を受けて。

「ほう? ではどこでなら話せるというのだ?」

 くい、と長い指で女の顎を掴む。女は息を荒くしながら、言った。

「あなたの、家で」

 それから女は男とどこかに去り、その夜は帰ってこなかった。

 彼はずっと、待ち続けた。



 翌朝、女は彼のもとに帰ってきた。

「ただいま、エセト」

「……」

 いつもなら、すぐに返応するはずの口が巧く動かなかった。どうしてだろう、きれいなものが帰ってきたことは嬉しいのに、今の彼女には近寄りたくない、なんて。

「どうしたの」

 そのからだから。いつもと違う匂いがする。

「エセト?」

 どうして。外見は昨日までの女と変わらないのに。

「―――お母様……ナニ、シテキタ?」

「え、エセトには関係の無いことよ」

 その匂いを発している女を見ると、どうしようもなく胸が掻き毟られる。



 それからまた何日かが過ぎ、彼はその間も成長し続けた。背はどんどん伸び、元から強かった力も更に強くなった。ぎこちなかった口調は抑揚を付けられるようになり、語彙も増えた。

 そして、身体がある程度出来てからは多くの人間がこの家に訪れるようになった。大抵は複数の男であり、彼の血液を採取して帰ることを繰り返した。そしてある時、測定と称して彼を家から連れ出し嫌な気配のするあの建物に閉じ込め、電流の流れる椅子に何時間も座らされたり、生命維持に必要な限界値まで酸素の薄い部屋に押し込めたりした。自然区域で捕らえたという罪の無い獣、それと闘わせられたりもした。勿論、息の根を止めるまで部屋からは出られない。彼はそういった扱いを受けるたび、女の顔を思い起こして我慢した。いくら辛くとも、今を辛抱すればすぐ彼女のもとに帰れるとわかっていたから。

 ただ。

「お母様……また、あいつの家にいくの」

「あいつとか言ってはダメよ。いずれはエセトのお父様になる方なのだから」

 彼の大切なひとは、彼が帰ってきても長く顔を合わせてはくれない。今夜もこうして出かけてゆく。そして、朝まで帰ってこない。そんな日々が続いていた。

「俺……オトウサマ、いらない。お母様だけいれば、いい」

「そんなこと言わないで」

 そして、何度訴えてみても女は首を縦に振らない。そして哀しそうな顔をして、彼の視線を避けるようさっさと出かけてしまう。

 彼にとって静かな苦痛が積み重なってゆく毎日。けれども、測定の時間が終わればきれいなもののもとへと戻れる。出かけてしまう彼女も、朝には必ず帰ってくる。あの嫌な匂いを湯浴みで流してから、彼を笑顔で抱きしめてくれる。だから、彼は無理矢理自分を納得させていた。

 大丈夫。我慢していれば、女は必ず自分のもとへと戻ってくるのだから。朝まで扉の前で待っていて、湯浴みが済むまで大人しくしていればいい。それだけの話だ。それだけ我慢すれば、きれいなものはきれいなもののまま、彼に微笑んでくれるのだから。

「お母様……早く、帰ってきて」

 しかしある朝、女は戻ってこなかった。



 彼は、走った。

 女が毎回向かっている場所への道筋、それはもう既に把握していた。彼は生まれてしばらく上手く話すことは出来なかったが、自分の身体の動かし方はちゃんとわかっていたのだ。「生まれて」来てからの年数に反して強い身体を持っており、またそれらを制御する感覚にも優れていたので、女や周囲の者に気づかれることなく尾行することなど、彼にとっては容易過ぎたから。けれども、肝心の男の棲家で女が何をしているかまでは知らずにいた。女が言っていたからだ、「エセトには関係の無いこと」だと。だからそれ以上詮索せず、分厚い扉の向こうにきれいなものが消えるのをひっそりと眺めてから、ひとりで来た道を戻り、家の扉の前でじっと彼女を待つ、という毎日を繰り返していた。

でも今朝、初めて女は戻ってこなかった。今までこんなこと無かったのに。

「お母様」

 どうして帰ってこなかったの。何か、あったの。

 全力でかの家へと走る。もしかしたら、大変なことが起きているのかもしれない。あの刺々しい気配を発していた男が女をひどい目に遭わせ、きれいなものが助けを求めているのかもしれない。そう考えたら、たまらなくなったのだ。

「お母様……!」

 待ってて、今エセトが助ける、から。


 男の棲家に辿り着き、分厚い扉を開いて。進んだ先にて、見たもの。





「…………

 …………

 …………なんだ。おかあさま、たのしんでたんだ」





 彼は微笑んだ。優しく麗しい、悪鬼のように。



 ある高名な貴族分家の屋敷内に、何者かが強盗に入ったことがエルフ界隈で話のタネとなった。

 侵入者は、屋敷内にいた生命体をすべて惨殺。そして家宝たる武器霊具を奪って逃走。以後の足取りは不明となった。

 屋敷に残った屍骸累々たるや、ひどいものだったそうだ。皆、直前までいたぶりながら死なせたとわかる様だったという。中でも特に、惨い遣り方で殺されたと見えるのが、屋敷の主人とその愛人であった。

「なんでも高名な文人で『科学者』の先駆けたる男だったのに、残念だね」

「いや、死に様が物語るように、ろくでもないエルフだったそうだし」

「いくら多妻制及び複数相手の性交渉が認められている純エルフだからといっても、少々過ぎた『趣味』をお持ちだったようで」

「その愛人も、やっこさんの『趣味』に悦んで付き合ったまま、死んでたんだと」

「ああ、知ってる。『趣味』が高じて子が産めなくなったっていう、出来損ないの純エルフだね」

「そういやかの家は特権に物言わせ、怪しい実験を繰り返していたらしいよ」

「代々当主が決まったように『騎士』の称号を戴いているのは不自然だよな。挙げた功績だってホントかどうだか」

「犯人もそういった関連だろう。自業自得ってヤツさ」

 そういった醜聞が界隈を駆け抜けていき、いつしか貴族の本家も徐々に没落していった。

 事件の犯人も消息がまったく無く、足跡も掴めぬまま、いつしか噂は風に吹かれるが如く薄れていった。



 ああ、ああ、つまらない。

 本当に、この世界はつまらない。弱く愚かな生き物ばかりであるし、強く賢いと思っても見掛けだけ。面白いものといえば、愚かな生き物の仮面が剥がれる、その瞬間のみだ。

 女は仮面が剥がしやすい。いくら見掛けは清楚で美しくとも、一枚化けの皮が剥がれれば現れるのは醜い雌の顔。どんなに嫌がろうと肉体的には受身であり、快楽にも流されやすい。苦しみながらもそこから快感を得ようとする貪欲さ従順さ、すべてが醜く愚かしく面白い。女ほど、裏表のある生き物はいない。

 女は最高だ。特に、処女がいい。まだ肉体の快楽も知りえないような幼い無垢が「堕ちる」瞬間、それが何よりも快い。何よりもこの世界の真理に近い。見掛けはどんなに美しくとも中身は醜い、最たるものではないか。

 今まで逢ってきたすべての女がそうであった。大抵はこちらに警戒を抱き、清廉たる精神でこちらを拒んだ。いくら優しい言葉と麗しい微笑みで接しようと、正常な感覚でこちらの邪念を見抜き、本能的にこちらを拒否した。嫌忌した。ああ、それが正しい反応だ。雌の通常感覚として、自分を犯そうとする雄の視線は感じ取らなければなるまい。害を与えようとする雄には身体を許そうとはしまい。そしてきれいなこころできれいなからだを護ろうとしては、その都度「堕ちた」。こちらを拒否しない鈍感な女であっても、親しくなると同時に醜い中身をさらけ出した。そしてその都度、更なる深遠に「堕として」やった。

 女とは、そういうものだ。弱さと愚かしさを持ち、それを隠そうとする仮面も持ち合わせている。それを剥がす面白みがある分、男よりは愉しめる。あくまでいっときではあるが。

 ああ、面白くも、つまらない世の中。

 どんなにきれいなものでも、中身は醜い。それが今までの半生で知りえた、真実だ。


―――では、最初は「醜い」と感じたものが、実はきれいなものであったら?


 そんなもの、いるはずがない。

 ああそうだ、最初から「醜い」とわかっている女など、仮面を剥がす価値も無い。

 そして、外見と同様にきれいなものなど、この世界のどこにもいない。

 この手に欲しいきれいなものなど……



「本日のお茶請けは、ご要望にお応えしてババロアですよ」

「……」

「どうしました、エセトさん」


 陽光を照り返す黒い髪。癖が無くて、柔らかそうだ。


「……これ、なに」

「これですか? 昨日、エセトさんが飲まれていたお茶の葉っぱです」

「……なんで、ババロアの中に」

「食用にも出来る香り葉なんですよ。とっても美味しいので、是非召し上がっていただきたいと思ったんです」


 小さな手は家事をしている手だ。細やかによく動き、表面は硬い皮が張っている。清潔に切り揃えられた爪と、手首の細さにしては肉厚の手の平と指。荒れてはいないようだったが、間違っても貴婦人の手ではない。


「……なんで」

「あ、どうしてこの葉っぱをババロアに散らしたのか、不思議に思ってらっしゃいます?」

「……」


 手は労働の証が刻まれているのに、その頬はなめらかで、うつくしい。ほっそりした顎も首元も肌理が細かい。まるで少女のように。


「だって昨日エセトさん、このお茶をお代わりなさったでしょう? きっとお気に召したと思ったんです。……違いました?」


 丸く小さな耳朶は彼とは違う、力が弱く寿命の短い人間のあかし。しかし、その瞳は彼と同じ色をしている。風になびく草原を思い起こさせる、命の輝きだ。


「……違く、ない」

「うふふ、良かった。美味しいですよ。召し上がってくださいな」


 柔らかい笑顔。つくりが小さくて、細やかで、可憐な顔立ち。服装も飾っておらず、実用的で簡素だ。化粧気だって無きに等しいのは戦場で見かける軍人女と一緒。

 そういう場所から離れてわざわざこんなちっぽけな一軒屋まで脚を運んだのだって、ただの暇潰し。そうやって、いつもと同じ感覚で近寄った。しかし見かけの清楚さとは裏腹な雌の匂いに辟易し、一旦は仮面を剥がすことを諦めた。剥がす価値など無いと思った。

 なのに。

 この女自体は、他の女同様、弱く醜い雌。そんなことなど「もう」識っているのに。


「……」

「どうですか」


 雌の匂いがほぼ消えた今。感じるのは。


「悪く……ない」

「でしょう?」


 また、あの微笑みがその小さな顔を縁取る。つやつやとした黒髪と、なめらかな肌と、いのちの輝きたる瞳と。髪と同色の睫毛は髪と同様真っ直ぐで、派手さや媚など見当たらない。なのにその双眸と品良く潤いのある唇が笑みの形になるだけで、胸の内側が不可解な音を立てる。不可解なのに、不快でない高鳴りだった。覚えのある、甘い痛みだった。

 彼は、実に久しぶりに思った。このきれいなものに、きれいだと伝えたい。


「――」


 なのに、口に出たことばは。


「――リラ」


 たった、それだけ。


「はい、なんでしょうエセトさん」


 それだけなのに、応える声が嬉しくて。


「リラ。……リラ、リラ」


 何度も言った。そしてその都度、彼は嬉しくなった。



 しっていた。

 本当の自分は、かの行為など好きではないこと。ただ、女を痛めつける手段として最も有効だったから、繰り返していただけ。

 しっていた。

 最初に出逢ったあの女の面影、それをずっと追い求めていたことなんて。美しく清楚で、優しくて可憐な女。願わくば、ずっとそのすがたのままでいて欲しかった。そう、もうひとつのすがたなんて見たくはなかった、知りたくなどなかった。すべての女がそうでないと確かめたくて近寄っても、募る期待が大きすぎて相手がそれに伴わず、結局すべて壊してしまった。そして長い時間それを繰り返した挙句、諦めと絶望が更なる悪鬼を作り出しただけだ。

 しっている。

 自分は寂しかっただけだ。生まれつき身体は強く感覚に優れていようと、致命的な欠陥があることなどわかっている。欠けたものから零れ落ちる感情が痛くて痛くて、それを埋めてくれるものを追い求めていた。そう、自分はただ、抱きしめて欲しかっただけ。抱きしめて、微笑んで、名前を呼んで欲しかっただけだ。ここに在るのは人工的に生み出された殺戮兵器ではなく、ただのエセト。そのことを他者に認められたかっただけだ。そして、その相手を大切にしたかっただけ。そうやって、自分は世の中に必要な存在だと確かめたかった。

 わかって、いた。

 本当の自分はただ、きれいなものにきれいだと伝えたかった。きれいなものを卑劣な手段で堕とすことなど望んでいなかった。きれいなものが、みずから望んでこちらに落ちてくるのを待ち望む、ただの寂しい男だった。

 そう、今でも扉の前で待っているだけの。



「―――ッく、は、ははは、あはははははッ」


 哄笑しながら、荒野を歩く。つくづく馬鹿らしくなったのだ。

 何を悩む必要がある? 感傷に浸る余地などどこにある? 自分がこれまでどうやって生きてきたのか、それを思い出せ。

「ひゃは、はははははははッ」

 狂った嗤い声が吹きすさぶ風の中、響く。あのことばを、きれいなもののきれいな名前を繰り返していたさっきまで、胸の内側は温かかった。なのに今はもう、胸の外側に吹き付けるもの同様に冷え切っている。

 ああそうだ、俺はこういう世界で生きてきた。今更何を思ったところで失ったものは戻らず、欠けているものも埋まらない。待っていてもどうしようもないなら、俺なりのやり方で欲しいものを手に入れるだけだ。

「あのきれいなのがまた、きれいじゃなくなる」

 今も人間界隈で続いている戦。それが静まった暁には、徴兵されていた兵は家に戻る。そして、妻を抱くだろう。

「ゆるせないゆるせないゆるせない」

 そうしてまた、きれいなものはきれいではなくなり、嫌な匂いを発するただの雌となる。

「お前だけがなぜ。お前などあのきれいなのの価値をわかっていないくせに」

 それを為すのが、あの無表情な騎士。出逢った当初から気に食わないと思っていたのだ、いくさ場に在るくせにその状況に染まりもせず、「権利」としての蹂躙行為に気ほども興味が無い、という風情の男。自分とはまったく違う、正当な生い立ちを持ち、世間にも認められている「騎士」。見かけるだけで癇に障っていたあいつが、よりにもよってあの男が、きれいなものの夫。きれいなものをきれいでなくす、憎い男。そう、追憶の中にある、刺々しい気配を発していたあの男と同じ。

 消したい。

「ああ殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺す殺す殺してやる……ッ」

 そう、すべて消せばいいのだ。きれいなものをきれいでなくすものなど、ぜんぶ殺せばいい。あの騎士はもちろん、留守中にきれいなものを抱いたであろう間男も探し出して殺してやる。なぜだか、きれいなものはそのことを把握していないようだった。理由は不明だが、すべては深く考える必要などない。今重要なのは。


「りらは、おれのもの」


 この想い、それだけだ。

 なおも狂ったように嗤いながら、赤がねの金髪は荒野を抜け、見えなくなった。





エクイセート=ディチナーレ(エセト)・・・没年代は三十路手前くらい。エルフ有数の貴族ディチナーレ家が極秘に推し進めていた計画の一環として、人工的に生み出された新世代エルフの第一号。生まれてすぐその優秀性を発揮したが、成長途中で監察役を殺害し逃走、以後の消息は不明となる。それからのち、戦場にて腕の立つ武人系エルフとして名を知られることとなるが、そのすべてが悪名であった。彼の通り名は『無垢を堕とすもの』。同じ世代に活躍していた『瑞獣と征くもの』とは対照的なエルフとされている。


この話を更新したわけについては8/2活動報告にて。

そしてエセトがどういう風に生き、どういう風にじいさんや嫁さんと関わったのかは「丁香花の君」悪鬼編及び名前編参照です。残酷描写が含まれるんで閲覧には注意ですが。

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