表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我輩は騎獣である  作者: KEITA
第一章
7/127


「緑の、最近どこかへ遠駆けをする予定はある?」

 そう紅の雌に聞かれたのは、群れに来て六年目の、落葉が終わりかけた季節のことである。木枯らしが緑褪せた草地を吹きぬけ我らの短い体毛を撫で上げる、肌寒い日だった。

「遠駆け?」

「ええ。なんとなく、知りたいのだけど。その、出来れば、蒼のの予定も」

 漠然とした問いではあるが、少し考えを巡らせてから答える。

「今のところ特には無い。蒼のも我輩と同じではないか」

 そう返すと、紅のは「そう」と息をついた。

 確かに「遠」駆けをする予定は無い。明日はざっと百里以上離れた平原まで蒼のと駆け比べをするつもりではあるが、特段我らにとって遠出でも無いゆえだ。

 うぬぼれでもなんでもなく、ここ数年で紅のとは脚力も体力も差が付いている。

 そもそも、彼女にとっての遠駆けがどの程度なのかもわからない。我輩と蒼のはその時分既に、群れの中で養父どのに次ぐ脚力を得ていた。紅のら若い雌と雄、養母どのが普通の成獣並みであったとしたらその軽く倍は速く長く駆けられるのが養父どの、そして次点にあたる我らもそれなりである。紅のは脚力に関しては一般の域を出ず、我ら一族にしては駆けることにさほど興味を抱かない雌だったので、このような聞き方になったのだろう。

 それにしても。

「なぜ急にそんなことを聞く?」

 これまで我らがどこへゆこうが何をしようが、特に口を挟まず柔らかに見守っていた黒い暖かな双眸、その視線に少し懸念とうろたえが混ぜられている。困ったように、蹄が地面を擦った。

「……長の(さい)さまが、気になることを話されていたから」

「我が養母どのが?」

 ええ、と頷き彼女は足元に視線を落とす。


「最近、しょっちゅうではないのだけど、我ら一族のものが突然いなくなることがあるのですって。北の渓谷に棲んでいる群れ、五頭も立て続けにいなくなったそうよ。この前は別の群れで一頭。たまたま単独で遠くへ出かけてから、戻って来なかったって」


 そういえば昨日養父どのらと食物をとりに留守をしていた間、群れに訪問者があったという。養母どのが代理で聞いたことを、群れの雌らに話したようだ。どうやら、失踪した仲間を捜索している輩だったらしい。

 それにしても、群れに属しているものが理由も無く離れることは、我らの性質上考えにくい。離れるなら離れるで申告し、無断ということは無いはず。とすると、何か不可抗力な出来事があったのか。

「戻れぬような事象があったのではないのか。もしくは、あまり考えたくはないがどこかで命を落とし、器が残らなかっただけでは」

「でも、半分はつがい持ちだったのよ。何の音沙汰も無いなんて変じゃない」

「まあ、そうだな」

 我ら一族はつがいとして結ばれると、深く切れない絆が生まれる。かの存在を捨て行くなど、滅多なことではあり得ない。しかも互いの気は唯一無二としっているゆえ、一方が死んだら、一方は誰よりも早く強くそのことを感じ取るのだ。同じ界に居る限り、どこまで離れても互いに通じ合うとされている。

「つがいの元へと戻らず気も読み取れないとなると、本当に天から失せたということになるか」

「だからそう言っているじゃない。層はおろか界からも気配が消えうせるなんて、怖くてたまらないわ」

 そう言って、紅の雌はぶるっとしなやかな身体を震わせる。足元に落ちていた黒い視線が、再びこちらへ向いた。寒さだけではない慄きを滲ませた表情。

「だから心配になったの。もしも、もしもの話なんだけど、ある日遠くに行った緑のらが戻ってこなかったらって……」

「考えすぎだ」

「そうかもしれないけれど、でもいやなの」

 見かけによらず怖がりで、見かけそのままに暖かな気性を持つ年上の雌は瞳を潤ませる。

「突然逢えなくなったら、いや」

 思わず苦笑混じりの溜息が零れた。

「紅のは、我輩や蒼のをまだ仔どものように思っているのか。これでも我が養父どのとまではいかないが、それに次ぐ脚を持っているのだが」

 無論、そのようなことを彼女が心配しているわけではないとわかっている。けれど、敢えて軽い口調で我輩は言った。

「例え天上の崖から落ちたとて、我輩と蒼のは必ず駆け戻ってこれる。決して、紅のの前から勝手に居なくならない」

「そうだ」

 横合いから別の声が賛同した。するりと見事な蒼い鬣を冷風に躍らせ、我輩と彼女の間に割り込むよう現れたのは、やはりというか。

「俺も緑のも、独り立ちするまでは群れと共にある。黙って消えうせるなど薄情な真似はしないさ」

 我輩の口調に合わせ軽く重ねつつ、蒼の雄は紅の雌に微笑みかけた。成長してやや切れ長に釣り上がった蒼眼が、至極優しく彼女を見下ろす。対する紅のは少し表情を和ませつつも、突然割り込んできた彼に驚き、やや気おされたように後ずさった。

「蒼、の……」

 もはや彼らの体格は完全に逆転していた。蒼のは我輩と同様、ここ数年で飛躍的に発育を遂げたのだ。体高こそ我輩よりやや低いが、全長は幼生を完全に脱し、若い雌よりはずっと大きい。彼の特筆すべき部位はやはり鬣で、仔どもの頃に片鱗のあった長さを増し立派に蓄えられていた。体格は勿論脚力も前述の通りで、もう彼に昔の劣等感は欠片も見当たらない。蒼のは紅のより断然に逞しくなり、余裕を持って彼女を見つめるようになったのだ。今、このときのように。

「もう、びっくりした。どこから聞いてたの」

「ん、最初から。緑のは気づいてたが紅のは気づいてなかったんだな」

「当たり前でしょう、身を隠すときみたく、気配を潜めるなんて」

「ごめん」

 蒼眼が柔らかに細められ、叱責したはずの黒目は気まずそうに彷徨った。しかしその表情はもはや、先ほどの強張った様子ではない。蒼のは紅のにとって、自然と心が緩む存在なのだろう。

 蒼のの風情と比例するかのように、幼馴染の関係も変わった。以前は抱える想いと現実の差に打ちのめされていたせいか、我輩はおろか紅のに対しても妙な意地を張り、遠慮もあった。しかし、身体が出来るに従いそういった鬱屈が消化され、彼女に対する態度も見つめる視線も穏やかなものになっていったのだ。

 ただし。

「それはそうと、先ほどの話。俺は黙っていなくはならない。群れにはまだ……」

「まだ?」

 ふと、彼の声音が変わる。

「何をおいても欲しいものがあるから、な」

 それまでの穏やかな空気が一転した。蒼眼に熱が宿り、高温で一気に燃え相手を焼き尽くすかのよう凄まじい気配が、彼から発せられる。

「欲しい、もの?」

「ああ」

またも後ずさる彼女を逃さぬようにじり寄りながら、彼は眼前のいとしい雌に、自らの情念をひとかけ、知らしめるよう囁く。

「待ってろ」

 それに絡み取られ紅のが動けなくなったのがわかった。傍らで見ていた我輩も圧倒されたのだから、標的にされた彼女はたまったものではないだろう。態度も視線も穏やかになったとはいえ、芯に秘める情熱は変わらないのだ、ずっと。いや、むしろ雄の雄たる慾が蓄積され、いっそう凄まじいことになってはいまいか。鈍感な彼女も、これでは気づかざるを得ない。

 そういう様を見るたび、つくづくと感じる。蒼のが独り立ちを迎えた際、紅のは瞬く間に食われるだろう。色々な意味で。

「み、み、緑の」

 戸惑うのはわかるが、そこで我輩に助けを求められても困る。厭がる風ではないが、豹変した弟分に戸惑い圧倒されているのがこの頃の常でもある。案の定、蒼眼が熾き火のような熱を瞬かせた。

「今、紅のは俺と話してる。他の雄を見るな」

「あー……。我輩、用事を思い出した、では」

 確認するまでも無く、我輩はさっさとその場から逃げ出し……いや、離れることにした。 背後から紅のの困り果てた気配が伝わってきたが、気づかぬ振りをして。彼女の当初の懸念も晴れたことだし、もはや助ける義理も無い。頑張れとしか言えない。つがい(決定)同士の間に、第三者は不要なのだ。後足で蹴られるどころか踏み潰されるだろう、主に雄の嫉妬で。

 小走りに駆けながら、ふと自然に思う。蒼のはかの雌への想いでこれほどまでに強く逞しくなった。群れの他の雄も皆、つがいに対する愛情がかの姿を輝かせている。やはり、つがいとは我らにとってなくてはならぬ存在だ。

 なら我輩も。

 我輩も早く、そのような存在にめぐりあいたい。想うだけで幸せになり、その姿を護ろうとするだけでどこまでも強くなれる、唯一無二に。


 そんな最愛に、いつか出逢えたら。


 冷風が吹きすさぶ中、ほかほかと暖かい心地でいた我輩であったが、ふとそこに隙間が差し込んだ気がした。紅のが教えてくれた、かの事変を思い出したからだ。

 つがいの元へも戻らなかった、同族の謎の失踪のことを。


■ ■ ■


 我が養父どの――群れの長が、群れ全員を招集したのはその日の夕刻だった。

「既に聞き及んでいるものもいるが、昨日、北の渓谷から二頭の訪れがあった。内容は仲間の捜索。聞けば、最近群れから音も前触れも無く立て続けに失踪するものが出ているという。皆の意見を聞きたい」

 養父どのの巨躯を中心に、めいめいの場所に身を落ち着け、神妙な表情で聞き入る。

 かのつがいである養母どの、四組のつがいと一頭の幼生、そして我輩ら若者三頭が、この群れを成す。生まれたばかりの幼生は、その小さな身体を昼間目一杯遊ばせて疲れ果て母親と共に寝床についていたが、それ以外のものはほぼ全員が揃っていた。

「長、」

 ついと角を挙げたのは、我輩のすぐ傍らにあった痩身の雄だ。賢明そうなこげ茶の双眸が瞬く。

「私もその話は以前、聞いたことがある。北では五頭がいなくなったそうだが、その前にも南西で二頭、最近ではまた一頭が行方をくらましたと」

「俺もあるぜ」

 呼応するかのように、向かい側にいた大きな雄が声をあげた。太い地鳴り声に似合わない、淡く優しい萌黄色の鬣が暗闇に光る。

「南西の一頭はつがいに水場いってくらーって告げたあと、そっから消えちまったんだと」

 その言葉に付け足すよう、彼の横にいるほっそりとした亜麻色の鬣の雌が言い添える。

「しかも、つがいでさえ足取りがつかめぬほど、気配が途絶えてしまったそうですわ。生死すらもわからないとは、一体いずこへ消えてしまったというのでしょう」

「ふむ……」

 養父どのは考え込むように角を傾げる。群れ全体に沈黙が降りた。

ややあって、聞きなれた声に非常に似たものが響く。

「長、いなくなったものらに共通点はあるのでしょうか」

 蒼い鬣の我が親友、彼に年齢の渋みと深みを持たせればこのような様になるだろう。そんな外見の雄が、朗々とした声で問いかけた。想像の通り、彼こそ我が親友の実父である。ちなみに彼とは対照的に慎ましやかな風情で佇む雌――彼のつがいは年上だと聞いた。嗜好は遺伝するのだろうか。

「ふむ、共通点か」

「それがわかれば、失踪の理由も浮かび上がるやもしれません」

「まったくの共通点は、今のところわからない。思いつく範囲では浮かばないと言っていい」

 雌雄の別、年齢、性質、つがいの有無、仔の有無。ついでに鬣の色などの外見。確認されている南西の失踪者の二頭、北の渓谷においての三頭、そして最近失踪した一頭共に共通点は無し。

「わからないわね……どうなっているのか」

 むう、と唸るのはこれまた見慣れた黒い双眸と優美な体躯を持つ雌である。ただし、鬣は日暮れの紅ではなく夜明けの紫なのが、娘と大きく違う箇所だ。かの紅色を受け継がせたのは、その傍らに寄り添う優しい表情をした雄である。

「いずれにせよ、警戒を怠らず行動するのが旨ですね。聞くに、単独行動をとった際失踪する場合が多いと存じます。遠駆けの際も、二頭以上で行動した方がよろしいかと」

 うむ、と養父どのはその言葉に頷いた。群れ全体もそういうことで総意とし、その場はお開きとなる。

 昼間、我輩にこのことを教えてくれた紅のをちらりと見る。失踪のくだりでやはりそわそわとしていたが、こちらと目が合うと双眸を細めふわりと笑んでくれた。すると傍らに寄り添う嫉妬深い蒼い雄が、彼女の気を引くかのように鬣を噛んで引っ張る。振り返って叱りながら、紅のはまた表情を明るくさせたようだった。かの雄の心の狭さはともかく、紅のにもう不安は無いようで、安心する。

 彼女に不安を抱かせないためにも、我らは必ず戻ってこよう。かの失踪に対する懸念は無いことも無いが、はっきり把握出来ないものを長く考え込んでいても仕方ない。我らは皆、おのれの心と脚を信じて行動するだけだ。

 群れから離れることになろうと、心の在り処は離れない。

 家族は常に、この暖かな草地にあるのだから。


■ ■ ■


 翌朝。

「準備はいいか、緑の。そろそろ行くぞ」

「応」

 軽い食事を済ませたあと、蒼い鬣が意気揚々と話しかけてくる。それに応え、我輩は鬣を軽く振ってまとわりつく小さな身体を引き剥がしにかかった。

「みどりの、あおの、わたしもいくっ!」

 諦め悪く鬣の裾に食らいつく仔どもは、六年前生を受けたばかりの群れの新参者だ。

「駄目だ、小さいのにはまだ早い。大人しく待っていろ」

「やだっわたしもいくんだ!!」

 駄々をこね、父親譲りのこげ茶の双眸が目一杯こちらを見上げた。生え揃っていない鬣は樹木の色、全身のやわさ小ささは言うに及ばず、体毛も産毛そのままで作り物のように覚束ない。初めて見たときは、本当に同じ生き物なのかとすら思えた。それでも、足腰が出来たと見るやこうして飛び掛ってくる好奇心、いっぱしに利く口、生き生きと輝く瞳、全てが微笑ましい。身体は小さいが、生の光は誰よりも強く大きいのだ。

「我が息子、いい加減になさい」

 後ろから伸びた雌の頭部が仔どもの尻尾を噛み、容赦なく引っ張った。ぐいっとそのまま簡単に引き剥がされる小さな体躯。往生際悪くじたばたと暴れる我が子を叱りつけ、しゅんとなった樹木の鬣をするりと顎で撫でてから、彼の母親はこちらに向き直る。毅くも暖かな気配をまとう灰色の双眸が、ゆるやかに細められた。

「緑の、蒼の。今日は西の平原まで行くのでしょう? 気をつけていってらっしゃい。よかったらこの仔に、お土産を持って帰ってくれると嬉しい」

 その言葉に、項垂れていた樫色がぱっと翻った。きらきらと期待をひらめかせるこげ茶の目に、我らは笑いかける。

「うむ、承知した」

「楽しみにしていろよ、小さいの」

「うむ!」





 駆けるときは、無心だ。


 地を蹴ってなお、中空にある脚は前へ、前へ進まんと動く。


 ただひたすらに、もっと速く、もっと大きく、もっと遠くへ。


 脚から全身に伝わる鼓動、いのちの脈動。


 ああ、我らは生きている。





「また、俺の完敗だな」

 目当ての平原に辿り着いた矢先、乱れた息を整えながら、蒼のはそのように呟いた。

「緑のには、追いつける気がしない」

「なぜだ?」

 角を傾げ、問い返す。我輩の方が速く辿り着いたとはいえ、至極僅差だったというに。

「俺の目を節穴だと思うな。道中、いちど地を蹴ってから脚を降ろすことさえしなかったくせに」

 気づいていたらしい。我輩としても、半分は無意識だったのだが。

「いい加減、緑のはおのれの脚を誇っていい」

「そうか」

「ああ」

 更には息も切らしていないとはなあ、と蒼のは苦笑する。

「ひとけりで百里を征く脚に負けたとて、誰も屈辱には思わない。緑の、また強くなったな」

「ありがとう。蒼のも、また速くなった」

 むしろ蒼のが得意とするは瞬発的な身のこなしだ。駆け比べがこの半分ほどの距離であったなら、我輩は文句なしに負けるだろう。

 そのことを告げると、蒼眼がやや得意げに瞬く。

「まあ、そうだな」

 相変わらずこの雄は、根が正直だ。


 冬に入りかけた季節は、緑が少なくなる。目の前に広がる平原も、数ヶ月前とは違った風情であった。

 我らが拠点の草地よりも遥かに広大な地を目一杯駆け巡り、吹きすさぶ冷風も心地よく感じるほど身体が温まってきた。調子に乗って蒼のと共に駆けていた矢先、ふと我にかえる。

「蒼の、そろそろ戻らねば」

「ああ」

 蒼のも同じことに気づいたらしい。昨日、不穏なことを知らされてからの今である。群れから一時的に離れるのは若者の常とはいえ、あまり時間を食うと不要な迷惑もかかってしまうだろう。特に、我らの心配性な幼馴染が落ち着かなくなった様など、目に浮かぶようである。

「早く帰らないと、紅のが心配する」

 言うと思った。まあこの雄にとって、かの雌以外が抱く心配などどうでもいいのだろうが。

「よし、戻るか」

「その前に」

 寸でのところで思い出したことがあった。危ない危ない。

「小さいのに土産を持って帰らねば」

「ああそうだったな」

 脳裏に、きらきらとしたこげ茶の幼い双眸が浮かぶ。彼がお気に召すようなものを持って帰らなければ、妙な罪悪感に襲われそうだ。

「何にするべきか」

「この辺りは近くに皇柘榴が生えている。それがいいと俺は思う」

「うむ」

 皇柘榴すめらぎざくろは天中層を主な自生地とする、秋の植物だ。実は幼生でも食べることが出来るし、見た目も美しい。自生する場所がやはり限られているので、あの小さいのはまだ見たことも無いはずである。一も二も無く、我輩は蒼のに賛同した。

 決まれば我らの行動は早い。地を蹴った二頭の脚は数分ほどで皇柘榴の群生へと辿り着き、沢山の実と花を得た。

 群れへ戻る道中、行きと違って慎重な足取りになった。咥えている柘榴の実は、ふとした衝撃で割れてしまうことがある。ゆえに、遅くは無いが全力には程遠い速さで、我らは群れを目指したのである。


 今、思い起こしても詮無いのではあるが。


 我らがもしも、かの約束を思い出さなかったなら。もし、土産を皇柘榴に定めなかったのなら。もし、もう少し早く群れに帰り着いていたなら。


 あの惨劇は、防げたのだろうか。


 いや、いずれにせよ、もう全ては終わったあとだ。



■ ■ ■



 それは、群れの拠点である草地にだいぶ近づいた距離でのことだ。

「っ、……!」

 先を駆けていた蒼のが、不意に脚を止めた。

 口に皇柘榴の枝を咥えているせいで、言葉を発することが出来ないが、視線での会話なら出来る。どうした、と問いかけると蒼眼が眇められた。何かを感じ取ったらしい。

「……?」

 彼が見つめるは前方、群れの方角。鼻をひくつかせ、蒼い鬣が風も無いのにざわざわとうごめいた―――彼は、何かを感じている。

 脚力こそ我輩は蒼のより強いかもしれぬが、正直なところその他の感覚では勝てる気がしない。鋭敏な嗅覚に代表される気をつかむ妙は、年下であるのに並みの成獣以上、むしろ我が養父どのより優れているのではないかと常々思っている。

 その敏感さが、何かをとらえている。

(何だ?)

 びり、と空気に緊張が走った。今度は我輩にも感じた。角に感じる圧力、迸る霊気、びりびりと音を立て放電する先端。そしてぞわぞわと立ち上る得体の知れない感覚、何より、何よりもこの匂いは。


覚えがある、嫌になるほど覚えがある!!


「……っ、蒼のッ」

 もはやかのような場合ではない。口にしていたものを気にせず我輩は叫んだ。枝が地面に落ち、柘榴の赤い実が音を立てて弾けて中身が飛び散る。

「早く群れへ!!」

 何も言わず、蒼のも咥えていた実を捨て駆け出した。


 ぱん、と新たに赤い実が弾けとんだ。





 赤だ。





 草地は、我らの家であったあの暖かな場所は、赤いもので塗れていた。


 声も無く。我らは立ちすくんだ。

「あーあ、大人しくそいつを寄越してくれりゃあ群れ自体見逃してやったのによう」

 誰だ。赤く染まった大地に立ち、赤く染まったものを掲げ、赤く染まった声をあげるこのものは、一体誰だ。


 そして、その足元に転がっている、小さな身体は、いったい。


「ぁあああぁああ」

 身のうちから引き裂かれるように絶叫し、一頭の雌がかのものに躍りかかった。その身は既に半分、赤く染まっているのにも関わらず。近くに横たわる、もはやぴくりとも動かない、痩せた雄のからだも赤く染まっていた。

「うっせえな」

 ぼつりと呟き、かのものは片手を振った。赤いもので塗れた何かが翻り、鈍く光を発した、そして。


 ざぶっ


 あっけなく。肉を薄いもので薙ぐような音と共に、雌のからだは両断された。そう、真っ二つに。

 赤が、噴き出し、大地が更に染まっていく。

 赤、赤、赤。

 匂いが充満している。母御が死んだときも感じた、あの匂い。鼻をつんざくような、脳内をぐちゃぐちゃにかき混ぜるような、正体不明の匂い。

 どうっと倒れ痙攣しながら動かなくなった雌の身体、その灰色の双眸、光の消えた眦からひとすじ、泪が伝い地面に消えた。


 数刻前、『よかったらこの仔に、お土産を持って帰ってくれると嬉しい』と彼女は微笑んでいたのに。


 なぜ、どうして、なにが、どうなって。

「無駄な手間かけさせやがって。てめえら畜生の血で、こいつが錆び付いたらどうしてくれる」

 だるげに息を吐きながら、かのものは雌を切り倒したばかりものを軽く振った。飛び散る赤。増す匂い。猟奇と退廃が織り交ざる、濁った視線。

 それが、ふと、こちらに気づく。

「ん? ……なんだ、まだいたのかよこの群れ。さっきので最後かと思ってた」

 にやり、とその口が「笑った」。


 動かない。身体が、この脚がぴくりともしない。


 角が激しく放電する。充満する匂い、それに呼応するかのように鬣が総毛だってざわざわとうごめいた。あの時とまったく一緒だ、なのになぜ、また動けなくなっているのだ。

 目の前で繰り広げられた一連の凶行、見知った命の終焉、把握出来ない現状、しかし生きようとする本能が叫ぶ。感情と織り交ざりながら、我輩の脳裏をがんがんとさせた。

 逃げるな、逃げろ、いや、逃げてはいけない、しかし逃げろ!

「なーそこの。ちょっくら俺についてこいや?」

 背景に広がる赤い海。それを無いような表情で話しかけてくるもの。狂気の沙汰だった。いや、我輩のまったく知らぬ生き物だった。

 逃げろ。

「抵抗すんなよーこいつらみたいになりたくなかったら」

 ごつ、と足の先で倒れ付す赤い塊を軽く蹴る、――二本足の、生き物。けれど母御を殺した人間でもなく、友と同じ天使でもない。

 逃げろ。…………いや、

「返事しねーのは了承ってことでいいな、じゃあ、」

 逃げるな!!


 地を蹴った。


「―――ぐほぉっ」

 二本足の身体が、呻きと共に吹き飛んだ。正面から渾身の体当たりを受けたせいである。かの手から、赤く染まった何かが吹き飛び、共に中空を舞う。

 そのまま二つとも地面に叩きつけられる。しかし生き物の方はすんでのところで衝撃を殺し、受身を取りながら体勢を直そうとする。

「……、な」

 息を整える暇与えず、再度地を蹴る。一呼吸で肉薄し、後足で跳ね上げた。

「がっ!」

再度吹き飛んだあと地面に叩きつけられ、受身も取れずかのものは潰れた悲鳴をあげ転がる。身を起こす間も無くもう一度。急所に脚がめり込み、骨が砕かれる。かのものの口から薄汚い赤が飛び出す。それを避け、更にもう一度。

「がっごほっ、ぐっ、は、ぁ、」

 かのものから呼吸も薄くなった頃合い、蹴り上げ宙に浮いた薄汚い身体に、角を構え――

「や、やめ」


 ぶじゅっ


 角に伝わる重量。

 飛び散る赤いものと白い破片。

 そして鋭利に尖った先が貫いた感覚。

 すべてを、無感動に受け止める。

 宙に浮いた二本足はがくんがくんと痙攣し、動かなくなった。ぶん、と角を一振りし、突き刺さっていたものを地面に放る。新たな赤が、噴水のように周囲に散った。

 恐ろしいほど、呼吸は落ち着いていた。

 動かず呼吸もしない二本足のものを静かに見下ろし、息絶えたことを確認する。あれほど激昂したにも関わらず、かのものを蹴飛ばした際の脚は全力では無かった。全力だったなら一撃でかのものは死んでいる。無意識のうちに、苦しみを長引かせるよう攻撃していたのだ。こんなものでは到底足りなかったが。

 逆立っていた鬣も、角から発していた放電も、身のうちから湧き上がる恐怖と紙一重の興奮も、全てが遠い事象のようだ。背筋に感じていた危機がかのものの死と共に遠ざかったことを実感する。

 我輩は、危険を遠ざけることが出来た。

(しかし、遅すぎた)

 悔恨にも足りぬ思いで、我輩は背後を振り返る。赤く染まった大地、飛び散った内漿、倒れ付す遺骸。

 なぜ、どうして。


「うああああああああああああああッ」


 声が。絶望の声がまた上がった。

 嗅覚は充満する匂いで麻痺している。しかし、聴覚は鋭敏なまま、その音を拾った。

(ああ)

 いやだ、いやだ。そのことを、認めるのがたまらなく、いやだ。

 けれど。

 心を切り裂かれるような思いで声のする方へ視線を向ける。

「どうしてどうして、どうして、俺のつがい、俺の、おれのおれの、嘘だウソダうそだ嘘だうそだぁぁあああああああああああああああ」

 生きたまま八つ裂きにされる獣。そのままの絶叫をあげているのは蒼の鬣を持った雄だった。揃いの色をした双眸から滴り落ちる、真っ赤な泪。

 泪が落ちて伝うのは。




 無残な赤に汚され、ぴくりとも動かない紅色の雌の遺骸だった。




『突然逢えなくなったら、いや』


 立ち尽くす我輩と絶叫する蒼のと、全てが赤く染まった大地。いとおしいものたちの命が悉く散ったその日、夕日の紅ばかりがただ優しかった。



※麒麟の角は、全種共通で彼ら最大の霊力源、そして弱点。大きな損傷は大怪我と同様である。角単体で凄まじい貴重品なため、多くのものから狙われるさだめにある。

※ゆえに、彼らの角は大抵のことでは傷つかず、滅多なことでは折れない。ただしそれは硬さゆえではなく、状況に応じて形状を微変化させ、衝撃に柔軟に対応しているせいである。感情や行動意図によって多くが変化するらしい。

※コミュニケーション手段や感情表現でもあるため、親しい挨拶として向けられる角は微妙に柔らかくなり、相手を決して傷つけない。反対に、攻撃手段や威嚇として向けられる角は鋭利且つ頑強になり、まさに武器として振るわれる。

※麒麟は流血を厭い、それに繋がる争いを避ける。敵や危険に遭遇したときはまず逃げることが基本である。次点で体当たりか、良くて流血をさせない程度に噛み付く、脚で蹴る程度にしか相手への攻撃はされない。雄同士の力比べでさえ、相手を傷つけぬよう角のカドは取れている。

※彼らが攻撃手段で角を使うことは、まさに非常事態。精神が大いに混乱しているか、最悪の嫌忌表現かいずれかである。

※麒麟の性質の正反対と言われる「殺意」、それを抱いたあとの彼らは大抵ろくな道を辿ってはいない。唯一、古くから戦に関わってきた「イヴァ」という種のみが、それに耐えうるとされているが、前例はわずかである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ