挿入閑話・ある樹木の思念
かのものは、ゆったりと意識を覚ました。
身のうちにまたたく粒子。一体どのくらい取り込んできたのかは数えなくなって久しい。気の遠くなるような歳月のなか、時に激しく時にゆるやかに、それらはかのものへと流れ込んできた。生きるため奪い取った場合もあれば、意図せず譲られた場合もあり、そして自ら投げ出された場合もある。
今回は、そのどれでも無いようだ。
新たな命が潰えたらしい。脈動する肉、丈夫な骨を持っていたもの。寿命を果たしたわけでもない、何か理由のある命の終焉だ。
それをうすらと感じつつ、かのものはその器を受け取った。命を失った躯をその腕に包み込み、身のうちへおさめてゆく。幾度と無く繰り返したそれのなか、刹那触れる器の記憶。
それはまだ、温かかった。
遠ざかりかけた意識を再度呼び覚ます。器を置いていったものに、思念を飛ばした。
《大天使が百四番目の使役よ》
呼びかけられたものは、羽ばたきかけた翼を止め目を瞬かせた。
《そう、お前に呼びかけた。我に器を授け置いた天使よ》
相当驚いているようだ。
「……呼びかけられたのは、初めてです」
《そうであろう、お前はまだ幼いゆえに》
「はあ、キュリス様に生み出していただいてまだ七十年ほどですから」
七千の歳月を越えてきたかのものと、その十分の一にも満たぬ己とでは格が違う。そのことは充分識っているとでも言いたげに、小さな天使は頭を下げた。
「何かご用でしょうか、偉大なる存在よ」
《今しがたの器、母親であろう。仔はどうした》
頭上に広がる晴天のような瞳が再度瞬く。
「……お解りに、なるのですか」
《記憶が在る。無念と母性の残る器であった》
「そうですか……」
天使は、木漏れ日をちらちらと撥ね返す眩い色の髪をがしがしと掻いた。ぎゅうと皺を寄せた顔で、搾り出すように答える。
「仔を庇い、命を失ったのです。不慮の出来事でした」
そう言いつつも、晴天の瞳は何か苦いものを噛み締めたかのように歪む。まるで自分がその因であるかのように。白い翼もしゅんと項垂れた。
《お前が失わせたのか?》
「違い、ます。……いや、」
歯切れ悪く否定するも、次いで首を振る。
「それも同然なのかもしれません」
しばし沈黙が降りた。
梢から吹き抜けてきた涼風が、天使の陽光のような髪を撫でて通り過ぎてゆく。さわさわと慰めるように擽ってくるそれに、彼はようやく噛み締めていた唇を解いた。
「俺が――俺はもしかしたのなら、かの器が命を失うのを防げたのかもしれないと思うと、やりきれないのです。残された仔はまだ幼かったから」
この天使は若い。雰囲気も中身もまだ練達とは程遠い。それがこのような迷いと悔恨に繋がるのだろう、とかのものは感じた。救えなかった命に憐憫と後悔を抱くのは悪いことではない、しかしこの小さきものが負っている役割からすると、些か神経質すぎるきらいがある。
《過ぎ去った事象は戻らぬよ。それに、お前の役割からするにこれしきの出来事、珍しくもなかろう》
「ええ……」
そうです、と天使は俯いた。やはりこのものは、未熟だ。
幼子の波立った心を落ち着かせることが出来れば、と伝えた。
《仔を連れてくるがいい。きっとお前の迷いも晴れよう》
七つの日を跨いだのち、天使が連れてきたのは四足の獣であった。弱々しくも意思を持った足取りで地を蹴り、かのものに相対する。
脈動する肉、丈夫な骨。
その姿は、まさしく身のうちにあるものに似通っている。言われずともこの獣が、かの器が生前護りぬいた存在に相違ないだろう。
四足の仔どもはしばしかのものを見つめていたが、やがてその湖面のような双眸から水滴を零した。静かに、獣は泣いた。
距離を置きつつ背後から見守っていた若き天使の感情が、再度波立つのをかのものは感じる。しかし彼は、すんでのところで駆け寄るのをこらえることに成功したらしい。
仔どもは雫を振り払うように被りを振って再度、かのものを毅く見つめてきた。全てを、その眼に焼き付けんとするように。しっかりと地面に脚を落ち着かせ、きりりと立つその姿は、これから千里を駆けようとせんばかりに威風を放っていた。
どれほど時が経ったか。
もう気は済んだとばかりに立ち去るべく、仔どもは天使を促す。その足取りにもはや行きの弱々しさは微塵も見当たらず、覇気と気概に満ち溢れていた。その潔さと所作は、かのものが過去に知っている一族の果断さそのものだ。すぐに解る、親がおらずとも、彼は立派な成獣になるだろう。
そう、この仔はちゃんとわかっている。
《……俺が悩む必要など、無かったのですね》
颯爽とした後ろ姿を眩しそうに見つめていた天使から、珍しく思念が飛んできた。弱き心も、その様子に救われたらしい。
《偉大なる存在よ、ありがとうございます》
《礼はその毅き仔に贈ってやるがいい。あとは正しく導いておあげ》
《……はい》
天使は応と返してから辞し、周囲にいつもの静寂がもどる。かのものは欠伸めいた真似をした。まるでそこらにいる、只の獣のように。
眠りに落ちる直前、ふと思念が零れ落ちる。
《我が息子よ、佳き脚となれ》
同時に重なった麗しき声は、愛しさを滲ませながら深緑に溶けた。
霊樹・・・樹齢七千+α。天界中層に生えてます。霊樹らしくちゃんと意思があるけど、取り込んできた命と受け取ってきた器が多いので意識が重たい。なのでたまーに思念を飛ばす程度。下~中層では一番年上だけど、樹齢数万とかが上層に生えてるので、天界全体においてはこれでもやっと中堅者。天界における霊圧が凪いでいる間は、中層の我が子たち+住人の様子を見守りつつ、抜け殻になった器を受け取りつつ、時々悩み相談室も開きつつ、うとうとしながらのんびり過ごす日々。