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我輩は騎獣である  作者: KEITA
間章
39/127

若葉の巻2


「ただいま」


「父さん、お帰りなさーい」

「あんた、今日は早かったね」

 家に帰ると、それぞれ家族から声がかかる。一人娘と女房だ。都から実家に戻ってから得た、ドリスのかけがえのない宝物たちである。

 そして。


「おかえりなさい、とうさま」


 家の裏手から出てくるのは、もう一人――いや、一頭の家族だ。

「ああ、ただいま。けどまだ近寄んなワカバ。ウサギ狩ってきたばかりだからな」

「あ、うん」

 かぽかぽ、とドリスの方に近寄りかけたその四足が、ドリス自身に遮られてその場に止まる。うっすらと風に流れて届いたらしい血の臭気に、その若草色の瞳が怯えたように潤む。同じ色の鬣も心持ち艶を失ったようになった。

「ホラ、いわんこっちゃねえ。――コーラ、こいつを母ちゃんとこに」

「はーい」

 脇に下げていた獲物を娘に託し、血のりが付いていた上着を一枚脱ぐ。手や脚も清水で丹念に洗ってから、もうひとりの娘に呼びかけた。

「ワカバ、もういいぞ」

「うんっ」

 かぽかぽっと嬉しげに近寄ってくるのは人間ではない。人界の生き物でもない。四本の脚と長く豊かな鬣、樹木のような二本の角、しなやかな体躯を持つ美しくも不思議な獣であった。

 名を、ワカバという。ひとの形こそしていないが、血を分けた家族同様、ドリスの大切な宝物のひとつだ。

「とうさま、指はもう痛くない?」

「ああ、もう平気だ。ワカバの『いやしのれいりょく』のお陰だべ」

「良かった」

 若草色の瞳がほんのり細められ、声音にも喜色が滲む。そうして甘えるように樹木の角がドリスの腕に擦り付けられる。硬い感触だが、痛くは無い。表面はすべすべとカドが取れているからだ。なんでも角をこうすることは一族の愛情表現のひとつだと聞いた。

「ワカバ、また少しでかくなったな。ウチに来た時はおらが抱えられるくらいだったのに」

 この不思議な生き物の正体を、ドリスは詳しくは知らない。けれど、さほど重要なことでもないので、特段気にもしていない。

「とうさまの下に来てから、もう十五年以上だもの。わたしだって成長するよ」

「はは、そうだべなあ」

 ワカバという女の子は、ドリスが保護官になった直後に託された、大切ないとしご。もうひとりの娘。ドリスと共に在る大切な家族。それだけで充分だからだ。


◆ ◆ ◆


 あれは、もう十六年ほど前の出来事である。


 田舎の実家に舞い戻った青年は、苦悩していた。幼い頃からの夢が呆気なく破れたばかりか、両親の援助と応援をすべて無に帰してしまったからである。都の高名な学校に通わせてくれたのに、それに報いることが出来なかった自分。周囲の期待を一身に背負いながら、応えることが出来なかった自分。情けなくて恥ずかしくて、実家に戻ってからもしばし放心状態だった。

 見かねた友人が家から連れ出してくれ、色々と気を紛らわせてくれた。そうした中で徐々に己を取り戻し、これからのことを考えられるようにもなった。動物保護官になろうと欲したのも、少しでも前向きに生きたかったからである。

 音楽一筋に過ごしてきたせいで他に役立つ資格も技能も持っておらず、職探しも難航した。からだ自体は丈夫だったので、身体を動かした分だけ儲けられるような仕事がしやすいだろうとも自分で感じていた。ドリスの兄が既に家業を継いでいたので他に逃げ道も無く、仕事内容を選ぶことすら無理だろうとは思っていた。それでも、世話になった両親やきょうだい、親戚、そして大切な存在となっていた友人――のちにドリスの妻となる――に少しでも恩を返したくて、ドリスは自然区域内にて動物保護官と兼ねられるような職を選択した。すなわち、木こりである。

 田舎育ちなので最低限の知識はある。幸いにして霊気豊富な自然区域での自給自足生活はさほど苦でもなかった。苦労もしたことはしたが、気持ちが前向きだったので苦しいとまでは感じなかった。何より、大切な存在が一生傍にいると約束してくれたのだ。彼女が家で出迎えてくれるだけで力が湧いた。

 慎ましくも確かな幸せを噛み締めながら、新米保護官の仕事をもこなしていたとある日のことである。ワカバと彼女の母親、双方と出逢ったのは。




『に、んげん、のかた』


 あの日。超自然区域に近い場所にて見回っていたドリスが発見したのは、血まみれになり蹲っていた不思議な生き物だった。


『たのみが、ある、のです』


 切れ切れの声で、その生き物は言った。自然区域周辺にすまう言葉を操る獣、それを霊獣と呼ぶこと自体はドリスだって知っている。しかし、こんなかたちの獣は見たことも聞いたことも無かった。美しい、見事な橙色の鬣が夕日を浴びて燦然と輝いている様に、ドリスは静かに圧倒される。なぜだろう。その生き物は既に、瀕死であったのに。優美な身体中が血まみれで、打撲や裂傷の跡が生々しく、二本あっただろう角も一本が欠けていた。いのちの明滅が弱々しく、気力のみで生きているという風情だった。

 なのに。この生き物は、なんて美しいんだろうか。


『このこ、を。どうか、てん、に、』


 血の赤に染まった鼻づらが、最期の力を振り絞り、前足と胸元に抱え込んでいたかたまりを指し示す。小さな――若草色をした、幼生の生き物だった。生き物から滴った血に濡れてはいたが、幼生自体に傷はないようだった。意識は無いが健やかに呼吸を繰り返している。


『われらが、こきょうに、かえして、あげて。わたしの、つの、あげるから』


 ドリスはその生き物が言っていることを、あまり理解は出来なかった。しかし、感じた。


『おねが、い』


 この生き物は、母親だ。こどもを、最期まで護ろうとしている。


『どうか、この、こを、いかして、』


 そのことを、感じ取ったから。


『――――ああ。おらに、任せろ』


 躊躇いも無く、そう約束したのだ。



 ドリスは、夢が破れた青年だった。しかし、夢がすべて潰えたわけではなかった。根本にあるロマンチストな願望。それはずっと胸の内にあった。だからこそ、こういう職を選んだのだ。

(動物となかよく、たのしく暮らすんだ)

 そのことは、故郷に戻ってからいっそう強く感じたことだった。かつてあった都会の楽隊への憧憬、展望。それも確かなものだったが、こうして自然の中で緑の匂いを嗅ぎ生き物の気配を濃密に感じ過ごしていくうち、これもまた己の望みのひとつだということを改めて思い知ったのである。でなくては今までと百八十度違う生活をこうも簡単に受け入れられるはずもない。

 好きこそ、ものの上手なれ。その言葉はやはり、ドリスにとって真実だった。

(だから、)

 ドリスは誓ったのだ。不思議な生き物から、いとしごを託されたその瞬間に。

「全力で、この仔を護ってやる」と。



 不思議な生き物の遺骸を丁重に葬ったあと、目を覚ました幼生にドリスは語りかける。

『お前の名前、なんという?』

『なまえ? なまえってなあに』

 知能は高いらしいが、どうやら名前という概念が希薄な生物らしい。ドリスはしばし考え、一応の呼び名を付けてやることにした。

『この世界だと、呼び名を持たない奴は不便だべ。おらが名前を付けてやる』

 そして。


『ワカバ。お前の名前は、若葉ワカバだ。その鬣の色さ綺麗だからな』


 同色の瞳が、好奇と歓喜に瞬いた。どうやらお気に召したらしい。

『わかば。わかば!』

『ああ』

『にほんあし。なまえ、なあに?』

『おらか? おらの名前はドリス。けど、今日からはお前の父ちゃんだからな。父ちゃんって呼べ』

『とーちゃん? とうさま?』

『ああ、そっちでもいい。むしろそっちの方がいいな。なんだか偉くなった気がすんべ』

『とうさま!』

『ああ』


 そしてその日から、ドリスと若草色をした生き物は家族となったのだ。いつか「てんにかえす」その時まで、しがない杣夫はこのいとしごを護りぬく事を決心した。



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