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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第一章
3/127

 我輩は天の下層、人界との狭間に位置する深山で生を受けた。


 今となってはおぼろげにしか記憶していないが、母御は我輩とまったく同じ鬣を持っていたように思う。周囲の深き影に溶け込むがごとき緑。それが生まれ落ちた最初に目にした色であり、最古の記憶だ。

 多くの同族がそうであるように、我輩は母御に寄り添って幼生期を過ごした。

 母御は強く優しく、そして美しかった。ひとけりで千里を征くが佳き脚よ、という我らの諺があるが、まさに母御はその佳き脚を持っていた。我輩を護りの霞で包み、ひとりで中空に飛び上がったあの強き蹄。ひといきで界を渡り層を越え、数刻も待たぬうちに貴重な霊梓の実を、その口いっぱいに咥えて帰ってきた。母御はまさに、ひとけりで千里を征く脚の持ち主だったのだ。

 母御は食物を得て戻ってくると、まっさきに我輩に分け与えた。例え界を渡る際に嵐に巻き込まれ身体中がびしょ濡れであろうと、層を超えようとしたあたりで無粋な輩に追い回され見えぬところに傷を負っていようと、母御は我輩には毛ほども苦しげに見せなかった。護りの霞が解かれたその間から除く瞳はいつでも優しく、深緑の鬣はいつでも麗しかった。母御が命がけでとってきた食物は、まさに天上の味がしたものだ。

 我輩はそんな母御の愛情を当然のように感受して育っていった。

 母御は優しいだけではなく、我輩の成長に合わせ時に厳しく接した。己の体重を支えるだけではない脚力が備わってきたとき、罪も無い小さな獣を遊び半分で踏みつけようとした我輩を激しく折檻した。動くことの無い霊樹を無闇に蹴りつけようとしたときもそうだった。あの美しくも恐ろしいほどに強い後足で、我輩を容赦なく―――いや、さすがに手加減はしていただろう、そうでなくては怪我だけでは済まない―――蹴り上げ跳ね飛ばした。そしてぼろぼろになって地面に叩きつけられ、痛みで動けなくなった我輩に、あの苛烈に澄んだ瞳で言い放つのだ。「我が息子。これがお前のしようとしていたことよ」、と。

 母御はそうやって我輩を躾けた。悪きことをすれば蹴り飛ばし、善きことを行えば甘い褒美を与えて。そうやって身体で覚えこませたのだ。おかげで我輩は最低限の善悪の区別はつくようになったが、多少の弊害も残った。いまだ、一番の恐怖はと聞かれ真っ先に思い浮かぶのは母御のあの後足だ。今でもたまに夢に出てくる。

 そんな、母御の愛情と強さと恐怖の象徴である佳き脚に護られ我輩は幼生期を終える。

数里走るだけでふらついていた脚も丈夫になり、我らの象徴でもある角も伸び、鬣も立派になった。背に張った我ら特有の皮も硬く滑らかになり、時折痒くなる。身体の大きさも母御と同等にはなっただろうか、そこまで成長した。ここまでくるともう母御に寄り添ってはいられない、そろそろ独り立ちの頃合いである。

 運命が一転したのは、そんな矢先のことだった。




 その日は下層の天気がやけに晴れていたように思う。雲ひとつ無い、見事な晴天であった。空気にも水分が薄く乾燥気味、これは火の精霊らが喜びそうな天候だと感じていた。

 実際、大気中には多くの火精が飛び交っていた。火の霊力をまとう精霊が全体的にうきうきとしているのが伝わってくる。逆にげんなりしているのは水の精霊だったが。

 鼻先にあらわれては悪戯を仕掛けてくる火の四元精に誘われ、我輩もつられて戯れていた。身なりこそ立派になったものの、中身はまだ仔供であったから。

 母御はそんな我輩を呆れながら見守りつつ、少し離れたところで水を飲んでいた。相変わらずしなやかで美しい身体、熱した空気にたなびく深緑の鬣が麗しく映えていた。

 平和な光景は一瞬にして破られる。


 がぁん、という聞きなれない音。

 周囲の鳥達が一斉に飛び立つ羽音もした。


 我輩の周囲でぱちぱちと火花を上げ遊んでいた火精たちが突如、悲鳴をあげて消えうせた。散り散りになりつつ残留思念が我輩の耳元に届く。

《やだ》《へんなのきた》《ぼくたちじゃないひだ》《にんげんのひだ》《かくれろ》

 状況がつかめないまま我輩は首を巡らす。いきなり周囲の空気も変わったような気がした。そして。

 匂いが。

 何かの強烈な匂いが鼻腔に押し寄せた。

 それだけではない。目の前にいるのは、いつの間にか自分の目の前に立っているのはさっきまで水を飲んでいたはずの母御で、しかも地面に倒れるところで、その首元から噴水のように赤い水が噴出していて。


 そのにおいは、ははごのもので。


 どうっと倒れた愛しい身体、びく、びくと痙攣しつつそれはあっという間に動かなくなった。いつも護ってくれていた佳き脚が赤く、赤く染まっていくのをひたすら我輩は見つめた。

 何が起きた。一体何が起きたのだ。

 動くことすら忘れ呆然と立ちすくむ我輩に、近寄る気配があった。下層のものではなかった。更に言うなら、天に属するものでも、霊力をまとうものでもなかった。

「これは幸運だな。まさか親子連れの麒麟だったとは」

 水場のすぐ傍、見通しの悪い茂みから呟きながら現れたのは我輩が見たことの無い生き物だった。姿かたちだけなら天の中層に存在する二本足のものらに似ているかもしれない、しかしその身に霊力は薄く、器も違う。背に翼も無ければ、変化した特有の証すら無い。身に纏っているもの、持っているものひとつひとつが天に存在するものではない。

 こいつは、何だ。

「一気に二頭も仕留められるとはついている。悪く思うなよ」

 そう言いつつその生き物は手にしていたものをこちらに向けた。そこから例えようも無く嫌な気配がした。逃げなければならないと本能が警告する、しかし身体が動かない。脚が竦む。鬣が逆立って角からびりびりと放電するのがわかった、ここまで危機を感じていながらなぜ我輩は動けない!!

「あばよ」

 生き物の手にしたものから何かが放たれる寸前だった。横から飛び出したものが、その生き物に体当たりをした。生き物は呻きながら体勢を崩し、勢いそのままに茂みに倒れこむ。

「ぐあっ?!」

 がぁん。

 その衝撃で生き物の手から吹き飛ばされたものが、またあの聞きなれない音を発する。耳をつんざくような、嫌な音だ。何かが、我輩の頭上を掠めどこかへととんでいった。

「な、ぐっ、てめえ、何をしやが、ぎゃあっ」

 体当たりされ、茂みに突っ込んでもつれ合っていた生き物は怒号と悲鳴とを挙げたのち、沈黙した。がさがさという音と何かが擦れるような気配の後、茂みから身を起こしたのはあの生き物ではなかった。

 頭上にある太陽、そして空のような色がきらめく。小さく聞こえたのは、独り言と称していい声音の言の葉。


「……たく、こんな簡単に人間が入ってきてたとは」


 身なりを整えながら立ち上がるその姿には見覚えがあった。密度の濃い霊気で練り挙げた衣、同様の装飾を身にまとう二本足の特徴的な肢体。そして背に広げられたのは空を翔るための大きな翼。今度こそ間違いが無ければ、彼らは天の中層にすまう、かの住人だ。さきほどの生き物に体当たりをし、何かをして足元に転がしたのはこのものらしい。

 がしがしと陽光のような金色の鬣―――後で知ったことだが、彼らのその部分は鬣ではなく髪というそうだ―――をかきあげながら、見かけは至極若い天使は独り言を呟く。頭上に広がる晴天と同じ色をした目が足元を見やり、溜息をついた。

「火衣の複製品なんつうものを着てたわけね。通りで気配に鋭いはずの麒麟が気づかなかったわけだ。こっちも一瞬わかんなかったし」

 口内で呟いているつもりらしかったが、生憎我らの五感は彼らのそれより遥かに鋭い。全て聞こえていた。この時の我輩は内容の半分も理解出来なかったが。

「しかも銃か。麒麟を、こんな立派なイヴァを殺しちゃうとは……かわいそうに、しかも母親だ」

 ぶつぶつと取り留めなく呟きながら、天使はこちらを痛ましげに見る。未だ立ちすくむ我輩、そしてその足元に倒れ付したままの母御を。

「残された仔は独り立ち一歩手前ってとこか。こんな形で親がいなくなっちゃあ、情操に影響が残るかも。この辺りはイヴァの主棲息地でも無いし……仕方ない」

 よっこらせ、と声をあげながら、二本足の若者は茂みを乗り越え、こちらに近づいてきた。びくっと震えが我輩の身体に走る。多少動けるようにはなっていたが、それでも精神は混乱の最中にあった。母御譲りの深緑の鬣が総毛だっている。未だ状況の把握がしきれない中、更に状況のわからないものが近づいてきていると感じていた。震える身を咄嗟に母御の身体の前に押し出す。近づくな、と全身で威嚇した。ぶちり、と地面を踏みしめた脚から何かが切れる音がした。母御から発する匂いと相まって、それは我輩の意識を更に遠くさせる。

 近づくな、これ以上、もう、われらに。

「あー……大丈夫だよ、俺は危険じゃない、味方だ」

 そう言われてもこの時の我輩に何がわかっただろうか。

 手の平を向け、こちらを落ち着かせるようゆっくり近づいてくる若者をなおも全身で威嚇する。逆立てた鬣の左右で角が激しく放電した。全身が熱く、また寒かった。母御は背後の足元に倒れたまま、動かない。あの匂いもずっと続いている。

「お願いだ、落ち着いて」

 くるな、くるな。

「やばいな、血の臭気で混乱してる……このままじゃいけない」

 もうこれいじょう、われらを。

「ごめん、ごめんね、坊や」


 ちかづくな。


 その意識を最後に、ふつりと記憶が無い。気がつくと我輩は見知らぬ場所にいて、母御もいなかった。



□ □ □


 全ては、後から知ったことであるが。

 天の下層、つまり我らの棲んでいた場所は人界と最も近しい。人界において超自然区域と呼ばれ秘境とも称される箇所に、我らのすまう下層と直接通じる穴がところどころ存在してるのだが、ある時その一箇所がひどく広がるという事態に陥った。

 かの生き物――人間は、そこから侵入したのだという。どこから手に入れたのか、自らの気配を薄くさせるという特殊な道具をも手に入れて。

 あの日、母御を死に至らしめたのは銃と呼ばれる人界の武器であった。仕組みこそ不明だがとてつもない力で鉛の塊を押し出し、相手の身体に穴を空ける恐ろしい道具。あの人間が何を目的に天に侵入したのか、何を狙って我らを殺そうとしたのか、それはわからない。

 全ての結果は母御が死んだ、それだけだ。我輩の母御は、あの佳き脚を持つ麗しい雌は、あんなにもあっけなく、駆けることかなわなくなってしまった。悪きことをしても蹴り飛ばす後足はもう無い。善きことを行っても欲しい褒美は出てこない。湖のように澄んだ視線が、あの凛とした呼び声が、我輩を包み込む日はもう永遠にこない。

 そして、それだけ認識すれば十分だった。


□ □ □


 境遇を哀れんだ天使の若者――彼は天の巡察という役割を持つ特殊な天使だった――が気を失った我輩と母御の遺体を中層へと連れて帰り、気を酷使していたことにより消耗していた内在霊気を回復させ、母御も丁重に弔ってくれた。

 今から思うと、彼には感謝してもしつくせない。放っておけば野たれ死ぬか道を踏み外して魔獣になるかどちらかであったと思うから、今の我輩があるのも彼のお陰だ。多少世に擦れてはいたが、彼はお人よしな天使だった。様々な思惑が裏にはあったかもしれないとはいえ、何の関係も無い獣にあそこまで親切にしてくれたのだ。

 当時、何から何まで彼には世話になった。身ごろが落ち着くその時まで、食物や寝る場所を与えてくれたのだから。天使の若者が我輩を連れて帰ったのは文字通り彼の自宅で、中層の程よい霊圧を持つ場所に建てられた落ちついた家屋だった。場所の妙もあり、また母御がとってきてくれたものほどではないが良い食物もあり、我輩の内在霊気はみるみるうちに回復した。


 しかし目に見えぬ怪我というものは、案外厄介である。


 彼の家屋に来てからすぐの我輩は、至極ひどいものだったと回想できる。

 目覚めたのちも、全てを拒否しおのれの内にとじこもった。見るもの全てが敵に見え、全てが恐怖と怒りを呼び覚ますものでしかないように感じられ、またそのように振舞った。事情があったとはいえ今思い出すと赤面の限りである。

 若者が持って来た霊梓の実の果汁、それをぶちまけたあとで彼に飛び掛り、角で突き殺そうとした。身体を拭こうとした手に噛み付き、力の限り圧し掛かって相手を潰そうともした。若者が用意してくれた寝心地の良い宿舎、その柵に幾度も幾度も体当たりし、丈夫な樹木の切れ端が自らの身体に打ち身を作ろうと体表を傷つけようと構わず暴れた。とにかく、その時の我輩は周りも自分も見えていなかった。


 母御がいない。あの強くて優しくて怖くて、我輩を力の限り護ってくれていた母御がいなくなってしまった。恐らくは、我輩を庇って。そう、母御が死んだのは我輩のせいなのだ。いや違う。我輩のせいではない。


 かなしみや得体の知れない恐怖、自分への怒りと罪悪感、それを打ち消して全てを壊したくなる乱暴な衝動、様々な感情が入り乱れ、暫く我輩は混乱の極みにいた。

 天使の若者は我輩の八つ当たりを受けながら、それでも我輩を放り出そうとはしなかった。忍耐強く我輩の手当てをし、身体の世話をし続けてくれた。

 落ち着く機会となったのは、そんな彼のある一言だ。




「勿体無いよ」

 暴れまわったあと力尽きて(何せ図体はでかくともまだ仔どもである)ぐったりとした我輩の身体を丹念に拭きながら、若者は言った。

「きみはこんなに佳き脚をもっているのに、粗末にしちゃいけない」

 佳き脚。意識に残る言葉であった。幼生の頃、母御が教えてくれた我ら一族に対する褒め言葉だ。


『ひとけりで千里を征くが佳き脚よ―――我が息子、あなたもそのように育って欲しいわ』

 幼き頃、寝床で聞いた言葉が蘇る。同時に、あの温もりも。あの澄んだ目も。あの深緑の鬣も。そして、あの、佳き脚も。


「…………よき、あしは」

 柔らかな藁の間に横になったまま若者に身を任せながら呟いた。つるり、流れ落ちる泪が母御と同じ鬣に伝って沁みる。かの言葉で、全身はおろか心の強張りが解けてしまったかのようだった。あれほど会話を拒否し続けたというに、その時は不思議と言葉が洩れていた。落ちる泪のかけらと共に。

「よき、あしは、ははごの、ものだ」

「……そっか」

 若者は静かに相槌を打ちながら我輩の後足を丁寧に拭く。

「お母さんからもらったんだね、この脚は」

「そう、だ」

 つるり、また新たな泪が鬣に沁みた。

 ああ母御、母御。

「ははご、から」

 この脚は、身体は、母御から生まれたのだ。深緑の鬣も、光によって具合を変える全身の色彩も、全て母御からもらった。母御がすべてを与え、最期まで護り通してくれたものなのだ。それなのに、それなのに我輩は。


「言い直そう。……いずれ佳き脚となるものを粗末にしちゃいけないよ」


 やがて若者が去ったあと、我輩は藁束に全身を埋めて力の限り啼いた。情けなく振舞うのはこれが最後にしよう、と思った。やがて啼き疲れ眠りに落ちる直前、母御が語りかけてくれたような気がした。

『おやすみ、我が息子』、と。


□ □ □


 翌日、天使の若者は母御を埋葬した場所へ我輩を連れて行ってくれた。

 七千の年月を経た霊樹、それが母御の眠る揺り篭だった。母御はこの霊樹の糧となったのだ。我ら一族をはじめ天にすまう全ての獣は、死を得たあと空になった器を無駄に散らすことなく他精霊の糧とするのを何より尊ぶ。常ならばそのまま大地へ還り、名も無き精霊が糧となるのが主だ。しかし天使の若者は我輩を気遣い、天全体においても名高い霊樹のもとへ母御を運ぶことにより最大級の弔いとしたのであろう。本当に、彼には感謝の念が絶えない。

 聳え立つ霊樹はまさに圧巻のひとことであった。

 数多の歳月と風雨を耐え抜き、幾多の天災や戦乱を超えてきた風体はあるがままにそこにあり、中空いっぱいに広がった枝葉から苔むした木肌、浮き上がった根の隅々までひたすらに静謐で、何より巨きな存在感に満ちていた。我輩はただただ、その姿に見入った。


 母御は、この樹と一体になったのだ。いや、この樹そのものになったのだ。


 知らず、また泪が滴っていた。何より巨きな樹の根元で、何よりちっぽけな我輩はひたすら泣いていた。若者の宿舎であれほど感情を吐き出したのにまだ足りないとばかりに、胸の内から湧き上がるものそのままに我輩は泣いた。

 脳裏にかの深緑が蘇る。霊樹の端にちらほらと、その片鱗はあった。あの影に溶け込むが如く深い色合いの緑、それを纏った母御の姿。そしてそれは、しっかりと己に受け継がれている。そして、眼前の巨大なものにもそれは確かに息づいている。

 我輩は泪を振り払ってそれをしかと目に焼き付けた。木漏れ日と深緑と吹き渡る風と。あの時感じていたもの全て、我輩は生涯忘れないだろう。

 やがて踵を返し、少し離れたところで見守っていた若者へと歩み寄る。「もういいのかい?」と言いたげな彼に頷き、我らはその場をあとにした。

 我輩の生命は、そこでまた生まれ直したのだ。


□ □ □


 それから十日ほど、我輩は若者の邸宅に留まった。同族がこれを知ったならば雄のくせに情けないと鼻を鳴らしたことだろう、親がいないのはいざしらず、独り立ち手前の齢に達していながら何日も関係の無い他種族のもとに留まるなぞ。

 しかし、何度も言うようだが我輩は図体こそ並みまで育ってはいたが、中身は矮小で幼い仔どもに過ぎなかったので、色々と準備をする必要があった――なにせ、棲んでいる天のことすら満足に知らなかったのだから。

 母御と暮らしていたのは天の下層における限られた区域であり、周囲に同族が存在する地でもなかった。しかもたった一頭で我輩の全てを世話し育ててくれていたので、他に生きる術も世界も知らない。我輩は脚の発達が遅く、ようやっと数里を駆ける体力を得たばかりであったから、自力で糧を得て生活するには時期尚早だった。体力的心許無さと世間知らずさが見事に合わさった仔どもをそのまま野に放ったとしたら、それはそれで厄介なことになったであろう。要するに、独り立ちまで少なくとも数年は母御のもとで過ごす必要があったのだ。今となってはもはや不可能だが。

 天使の若者、いや、我輩の仮の保護者どのは懇切丁寧に、知識を授けてくれた。我が一族以外の獣のこと、通識のこと、天という世界のこと、聞けば知る限りのことを教えてくれた。生きるための最低限の知識は母御より授かっていたが、より深く広い識は彼から授けてもらった。彼は身軽なだけでなく、様々な事柄についての見識も深かった。


 今思い起こしてもつくづくと感じる、我輩の世界は母御と我輩だけで完結してはいけないものだった。この界は広く、世には様々な体、形、質のものが存在する。それらを実際に見て、触れて感じるのは大切なことなのだ、特に自分自身を知る上でも。


 かの十日の有意義であったところは、知識ばかりではなく実際に外に出て歩き回り、天の様々なものに触れられたことにある。保護者どのはまだ色々と覚束ない我輩に付き添い、連れてゆける範囲で東西南北のものを紹介してくれた。そういった日々のおかげで天における一般常識及び事象を知ることが出来たばかりか、これからにおける気構えもついた。

 面倒見の良い我が保護者どのは、我輩の状態が安定したと見るや、我輩以外の同族が実際に生活している場所に連れて行ってくれた。

 生まれて初めて出逢った同族は、保護者どのの自宅より数里ほど離れた草地に群れとして棲んでいたものらだった。我ら一族はつがい同士を基とした幾頭かの集団で暮らすのが普通なのだ、とその時初めて知る。ならばなぜ、母御はたった一頭で我輩と暮らしていたのだろう?と不思議に思いもしたが、無論いくら問いかけても答えは返ってこない。このわけもまた後に知ることとなるので、今は省略する。

 ともかく、彼らは保護者どのから事情を聞き、我輩を受け入れてくれた。群れを指揮するかの雄――橙に燃える見事な鬣の主は、その巨大で雄々しい体躯を折り曲げるように我輩に接し、見事なその角を我輩のそれに擦り合わせて友好と親愛を示してくれた。あの時の声も、しっかりと覚えている。

「ようこそ、我が新しい息子よ」

 その一言で、我輩は群れの一員になれたのを知った。歓喜と興奮に打ち震え、我輩は新たな仲間を仰ぎ見る。皆、暖かさと好奇心をひらめかせながら我輩を見つめてくれていた。一頭一頭と角を触れ合わせながら、ふつふつと熱いものがこみ上げる。皆が皆、我輩を歓迎してくれていた。天涯孤独の仔、しかも見るに出自が不明なものを快く受け入れるなぞ、今思い起こしてもなんと寛大で親切な群れであったことか。我輩は彼らと共に暮らせるのだ、新しき家族となって。

 最後の一頭に挨拶を終え、熱い心地のまま、我輩は背後を振り返る。そこにいるはずの我が保護者どのに報せたかった、我輩はもう独りではないのだと、今とても嬉しいのだと。


 しかし、かの保護者どのの顔を見たとき、ふと息が詰まる思いだった。


 その表情は微笑んでいたのに。どうして至極寂しげに見えたのだろう。

「……話はまとまったようだ。ではこれで俺は失礼するよ」

 そんなことを言いつつ、彼はあっさり去ろうとする。こちらに背を向け、翼を広げて。我輩を一瞥もしないで。

 ああそうか、と今更ながら気づいた。保護者どのは保護者どのではなくなったのだ、と。

「さよなら、坊や。元気でね」

 晴天が、離れ行く。

「待ってくれ!!」

 たまらず、我輩は彼の衣服を噛んで引っ張り、地面に押し留めた。たたらを踏む若者の戸惑った瞳に、我輩の姿が映りこむ。

「どうしたんだい。もう、君は独りじゃないだろう」

 だから俺の役割は終わった、そう言って我輩を振り払おうとする彼はいつものように淡々としていたが、顔にはもう形ばかりの笑みも無い。隠しきれない寂しさと諦めが漂っていた。もう君とは逢わない、逢えないのだと突き放した表情。

 違う、違うのだ。

 ぶんぶんと被りを振って、我輩は角を若者に擦り付けた。解っている、いくら感謝の念が募ろうと親愛の情を抱こうと、我らの間に特別な繋がりは無い。彼はあくまで仮の保護者どのであって、それ以上の存在にはなり得なかった。本来ならまったく別個に生きる存在で、それが互いに正しいすがたなのだ。それは種族差云々というよりもはや本能で理解していることで、だから、こうして別れの時が訪れるのは必然であろうことも解っていた、解っているのだ。

 だが!


 独りになったとき、傍にいてくれたのはこの晴天だ。


 そう、母御がいなくなってからはこの、眩しい陽の光と澄んだ空を宿した彼が我輩の傍にいてくれた。例え姿かたちが我輩と異なっていようと、母御より共に過ごした時間が短かろうと。他でもない、飄々淡々としながらもお人よし、知識が豊かで見識が深いけれど照れ屋な彼が我輩の傍にいてくれたのだ。感謝の言の葉をどれほど連ねたとしても幾度角を擦り付けたとしても、かの厚意に報いるには足りない。どうすればこの気持ちを伝えられるのか、それすらわからない。

 けれど。

 若者の指がそっと、幾度も擦り付けられる我輩の角に触れる。ふわりと、我輩を囲むように白い美しい翼が寄り添う。肌寒いと感じる夜は、この翼が包んで共に眠ってくれていたのを思い出す。真の意味で寄り添うことは決して無いが、それでもただ、傍にあってくれた確かな温もり。

 そうだ。もうこの翼を見ることが無いなどと、一体誰が決めた?

 元保護者どのに、我輩は言う。


「……逢いにいってよいだろうか、我が友よ」


 晴天の瞳が瞬いた。その色がじわりと潤んだように見えたが一瞬のことで、彼はいつもの調子で軽く返してくれた。

「いつでもおいで」、と。

 我輩の新たな家族と、初めての友が出来た記念すべき日であった。




※主人公の一族にとって角は最重要。身体の中で最も霊気濃度が高い箇所で、生命力の源。雄同士の力比べの象徴であり、共通のコミュニケーション手段であり、感情表現の象徴でもある。

※角を擦り寄せたり、擦り合わせたりは同族同士の親しい挨拶。他種族に対し攻撃以外の用途で角を向けることは滅多に無い。あったとしたら、それは最大最上の親愛及び信頼表現であり、誇り高い一族にしては非常に珍しい、「あなたのためならいつでも駆けつける」という誓いに似た意思表示でもある。

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