四
《きりんだ、きりんがまたきた》《きれいなみどりのきりん》《みどりのきりん、あそぼうよ》
鼻づらにまとわりついてくるのは、小さな四元精らである。幼生の時分、母御と暮らしていた頃は毎日のように彼らと戯れていた。天の下層はこういったものらが数多くすまうのだ。
《ねえ、みどりのきりん、あそぼうよ》
我輩の深緑の鬣をついついと引っ張ったり、裾に絡みついたり、角の隙間を面白げに通り抜けたりを繰り返す四元精ら。幼生期を思い出し、懐かしい心地となった。
「済まぬな、小さき精霊らよ。遊ぶ時間はまた今度としてくれ」
我輩のやんわりとした断りに、残念そうに散ってゆく四元精の気配。
《わかった、またこんどね》《みどりのきりん、またあそぼうね》
「うむ」
下層へとまた舞い戻った真の目的。それは。
(まずは空間の穴を確保しなければなるまい)
人界への足がかりを、つかむためなのだ。
■ □ ■
「界から界への出入りは、私達にとってそう簡単なものではないわ」
あの日、食事を終えてから紅色の貴婦は言った。次なる探索へと駆け出す前に、我輩への助言として。
「実力あるものならば下層からじかに穴を開けることができる。霊気濃度の薄い箇所を見極めて、自身の持つ霊気をぶつければ空間に歪みが生まれるから、そこから更に霊力を使ってこじ開ければいい。けど、霊力の低い私達にとって、それは容易なことではないの」
霊力の弱いものは、霊気を感じ取る感覚も鈍い。大気中に霊気が含まれているか否か強いか弱いか程度ならわかるが、針の穴ほどの霊気の綻びを正確に辿るなぞ不可能に近い。なので、我ら獣は天界から他界に移動することが滅多に無いのだ。出来ないとも同意である。
「だから、人界へ行くとなるとそれとわかるぐらいの空間の穴を自力で発見しなければならない。幸い、私達には脚があるからさほど問題では無いけど……」
我らの脚さえあれば、数年もかからずに空間の穴を見つけることは出来るだろう。しかし、問題はそれからだ。
「見つけた穴を、その位置を忘れずに覚えておくこと。そして準備が出来ていないうちはそれ以上のことはしては駄目よ。……例え、今すぐに飛び込みたくとも」
一歩踏み出せば、そこは我らにとって未知なる世界なのだ。無闇やたらに動けば動くほど危険な事態を引き起こすだろうし、当初の目的も果たされにくくなってしまうだろう。そして空間の穴とは、ただ単に天界と人界を繋ぐ便利な出入り口ではない。
「穴があるということは、こちらから出入りできるだけじゃない。向こうからも出入りできるということなの。それを忘れないで」
……そう。
「勝手に広げた穴の向こうから、危険が入ってくることもあり得る。人界から天へと侵入者が現れることだってあるのよ」
母御が亡くなったあの時のように。人間たるものが天に侵入してくることもある。そしてかの惨劇が繰り返されることも充分あり得る。
我輩は彼女の言葉に頷く。あの日のあの思いを、繰り返すものかと改めて誓って。
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紅色の貴婦が天使と共に去ったあと、我輩は友と共に中層へと戻った。上層とは違う穏やかな霊圧、慣れた空気の中、我が友は引き受けていた霊圧を元に戻す。
白い翼がふわりと翻り、我輩の背から離れた。晴天が、瞬いて微笑む。
「さて。俺が手伝えるのはここまでだ」
我輩もそれに応えた。
「うむ。……諸々の事項、感謝する」
「今更だよ。お礼は、人界に行ったあとでくれたら嬉しいな。何かいい報告と一緒に、ね」
「うむ」
夏の光を湛えた白き天使は、中空へと舞い上がる。美しい羽がきらきらと光った。
「じゃあ、またね。――元気で」
翼持つ親友が去ったあと、しばらくしてから我輩も歩みだした。胸中にある沢山の温かみ、それを一歩ずつ確かめながら。
天における下層とは、人界に最も近い場所だ。ゆえに、環境も棲まうものもそれに近いものが揃っていると云われている。
(まずは、ここで暮らしながら空間の穴を見つけるのだ)
中層に比べるとやや雑多とも言うべき空気、様々な匂いが織り交ざった気配。幼生の頃暮らしていたお陰で割かし馴染みがあるが、それでも我ら一族にとっては棲みにくいともいえる場所である。
(多少のことは慣れれば良い。幸いなことに独り立ちの頃合いと重なる時期だし、この空気にも耐え性はある)
ここを拠点にしつつ、徐々に探索場を広げてゆくのだ。そしておのれの世界や視野、見識を高め、人界へと行く準備を進める。
それに。
(生きていれば。なんとかなる)
身のうちに脈打つ鼓動と確かな呼吸。そしてそう考え得るだけの、意志。
「我輩は、生きてゆく。そしてつよくなる」
言葉に出し決意を確かめ、蹄を前に進める。
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空間の穴めいたものを見つけたのは、下層へと降りてから二年余り経ってからのことだ。
「これが、そうか」
食物を採りに分け入った木立の隙間、背の高い草に埋もれるようにして妙な気配があった。――まるで、そこだけ異次元のような。天であるのに天でないような、不思議な空気を漂わせていたのだ。
用心しながらもその様子を伺うと、周辺の砂や千切れた葉などが風も無いのに微量に吸い込まれていくのが見えた。我輩の蹄の先程度の、至極小さな亀裂が何も無い空間に開いていた。隙間から、光とも闇ともつかない気配が洩れ出でている。
(これが、人界へと通じる穴)
喉が鳴る。あの日紅色の貴婦が言っていた忠告が身に沁みた。人界への警戒心も何も無しに飛び込みたくなる気持ちが、痛いほどに解った。
「――今は、駄目だ。準備も何もなっていないゆえ、我慢するがいい」
言葉に出して自身を納得させる。そうしてその場に、軽く結界を張った。我輩のような霊力微弱な獣でもなし得る程度の、護りの霞である。人界の動物風に例えるなら縄張り誇示とも言う。
(こうしておけば、滅多なことでは他の生き物は入って来ず目印にもなる)
我ら一族が使える霊力は至極限られている。
ひとつは、駆けるときに使用する風の霊気。大気に漂う霊力に身を任せ、辿るように脚を運ぶことによりどこまでも征くことの出来る我ら特有の能力だ。
そしてもうひとつが、こういう光の霊気である。主に小さな仔を持つ親がわけあってその場を離れる際、最低限の護りとして仔に纏わせておくことが多い。かつての母御が我輩に対しそうしていたように。範囲はさほど広くは出来ないが、部分的に霊力を集中させることによりその中への物理的な危害は殆ど受け付けなくなる。霊気を発動させたものが生きてさえいれば、その霞は絶えることなく持続する。そしておのれの霊力は何にも勝る目印だ。離れても霊気を辿り、すぐにこの場へと戻ることが出来るだろう。
(目的のひとつは、達成したか)
濃い霧のような護りの結界(小規模)を見下ろし、ひとつ息をつく。最終的な目的までは程遠いが、とりあえず足がかりは掴めた。
「――中層にでも行くか。我が友にも会いたいし、下層はもう既に駆け終えたし」
水場へと移動する際、途中で見つけた天無花果の実をもっしゃもっしゃと口の中で噛みながら考えた。もうこの辺りは我輩にとって狭いとも言える場所になってしまった。
「よし、そうするか」
ごくん、と甘い果実を飲み込んで、我輩は地を蹴る。我が友への土産は何にしようかと思いながら。
(この前知り合った妖精に聞いてみるか。二本足が好むものは、二本足に聞いた方が手っ取り早い)
下層に棲んでいる妖精は割かし多い。人界と出入りがしやすいうえ、人界の超自然区域と環境が似通っているので過ごしやすいのだという。
我輩は知り合ったのは、そういった案配で暮らしている妖精の家族であった。
「ようイヴァの坊ちゃん。今日も鬣いい艶してんね」
「あ、緑のイヴァがきたわよーフィオ」
「ホント?! ……わーいホントだ!!」
二本足のこじんまりとした家屋、その扉に備え付けてある呼び鈴と称されるものを鼻づらで揺らすと、りぃん、と不思議な音が響く。そうして扉を開けて歓迎してくれるのは、先の戦乱で家族総出で疎開してきたと言うエルフの一家である。つがいと幼いこども、そして老齢のものの四人。近隣に広がるのは平らにならされた地面と、そこに均等に植えられ育てられている植物。そして木の枠に繋がれ「モーウ(こんちわ)」と声を上げる人界の獣。どうやら乳を搾取するために育てられているらしい。妖精はこうやって、自分達の手で食物たるものを育てて収穫し、糧としているのだそうだ。そして人間もほぼ同様とのこと。
食物だけではない。妖精らはその身にまとっているものや、使っている道具なども天使らのそれとは違う。あの日「上層部」にて見かけたいくつもの見慣れない物のように、自ら自然産物を採取し扱いやすいように作り変え、生活用品としているのだそうだ。
「みどりのイヴァさん、おせなに乗せて!」
小さなエルフの雌が、我輩をきらきらとした瞳で見上げてくる。
「うむ、構わない」
「毎回ありがとなー坊ちゃん。おいフィオ、ちゃんと礼を言うんだぞ」
「はーい。ありがとうございますっ」
「うむ」
幼子を背中に乗せるというのは、至極悪くない心地なのだということを最近知った。それに他種族のものにべたべたと触られる様も、慣れてしまえばどうということもない。相手に害意が皆無でむしろ好意的なものに溢れていると識ってしまえば、触られるのはむしろ心地いい。
「おやまあ……今日も来てくださったのね」
小さな二本足の雌が背中できゃっきゃとはしゃいでいる、そんな中、年季の入った家屋の奥から現れたのは、これまた年季の入ったエルフの雌である。
「ヴィオラおばあちゃん、今日は元気なの?」
「ああ、今日はなんだか気分が良くてね。何かと思ったら、イヴァが我が家に来てくれたおかげなのね」
老輪の刻まれた目元で微笑みながら、年老いたエルフはゆったりとした物腰で我輩に近寄ってきた。聞くところによると、彼女の先見によりこの一家は戦乱が本格化する前に人界を離れることができたとのこと。
「さすがいのちの獣だわ、近寄るだけで年寄りにもきっとおこぼれがあるのよ」
そう言いながら、彼女の紫眼が何かを懐かしむように瞬いていた。長命なエルフの老齢者ともなると、他生物には及びもつかないほどの年数を生きていることになる。彼女の実年齢がいくつになるのかは不明だが、きっと人界で多くの経験を得てきたのだろう。かの戦乱を回避し様々な困難を乗り越え生き延びてきた、その年輪が端々の所作に顕れていると勝手ながら思う。
「フィオ、そろそろおやつよ、手を洗ってらっしゃい」
「はーい!」
聞こえた母親の声に、我輩の背から飛び降りて家屋へと引っ込む幼い二本足。その頭上にはエルフのものではない獣の耳が生えている。曾祖父にあたるものの血ゆえだそうだ。
「……ねえ、緑の鬣持つイヴァ」
玄関脇にて、我輩の鬣に櫛を通してくれるエルフの老女は、静かに言った。
「ありがとう。――あたしが死ぬ前に、あたしの前に現れてくれて」
どういう意味だ、と聞いたら、彼女は微笑んだ。上層で見た高位天使らとはまったく違う、齢を静かに重ねてきたもの特有の空気。
「あたしは昔から獣が好きなのよ。けど若い頃は色々構い過ぎで鬱陶しがられていたから、こうやって触らせてくれなかったし撫でさせてももらえなかった」
願望を達成出来たのは結婚してからだったわ、と老女は面白げに言う。彼女のつがいは、我らと違う一族であるが同じつくりを持つ獣だったのだそうだ。
「夫とこども以外の獣をこうして毛づくろいできるなんて、思ってもみなかったわ。この年になってまた新しい経験をさせてくれて、ありがとう」
大袈裟だ。そう言っても、老女の紫眼は微笑みながらも真剣だった。
「本当にありがとう。気高き獣とこうして触れ合えたこと、それこそあたしにとって最期の素敵な思い出よ」
彼女が命数を終えたのは、我輩が中層に戻ってから程なくのことだった、とあとから知る。
どのような生物でも、終わりは必ず訪れる。例え永き寿命を持つものであっても、この世の理に属している限りいのちの終焉というものは避けられない。
(願わくば)
我輩は、思う。
(願わくば、死せるものが少しでも安らかに眠れるように)
勝手ながら、生きているものとしてそう思う。
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我が友への土産――妖精が作ってくれた食品諸々――を背に括り付けてもらい、中層へと戻る。かの妖精一家は他種族であるが、至極親切だ。
『イヴァに触らせてもらえるだけで、本当に恩の字なのよ。私達の子に貴重な体験をさせてくれて、感謝しているわ』
手製の食物(けえきと称されるいい匂いのものだ)を我輩に持たせてくれた、エルフのつがいの片割れはそう言っていた。人界においては勿論、天の下層においても我ら一族は稀少な部類の獣なので、初めて出逢った時は本当に仰天したそうだ。それほどのものなのだろうか。
『俺らにとっちゃ運がいい程度の感想だけど。気をつけろよ』
小さな娘を胸に抱きながら、父親たるエルフは真面目な顔で忠告してくれた。
『坊ちゃんたちは麒麟なんだ。そのことを忘れんなよ。特にここ下層は勿論、人界においては目ン玉飛び出るくらいの希少動物にあたるんだから』
改めて、おのれの立ち位置を確認せざるを得ない。
『希少動物をどうこうしようって考える奴らなんか腐るほどいる。――俺らに気安くしてくれるのは嬉しいが、肝心なところで見誤るなよ。特に、人界に行くつもりなら』
不用意に人界に渡った天の獣の多くが、死ぬより無残な目に遭わされているのだ。かつて聞いたその警告を、忠告と共に胸に噛み締める。
「ああ……我が友が顔広くて助かったー」
眼前でとろけた顔を晒し、土産をもこもこと頬張っているのは天使の若者である。
「エルフの香草入りケーキなんて食べたの久しぶり。本当に嬉しい」
「気に入ってくれたか」
「そりゃ勿論」
二年振りに訪れた天使の家屋には、馴染みの香りが漂っている。湯を注いで茶を淹れて、それをずずっと啜りながら天使の我が友はにこにこと機嫌が良さそうだった。
「妖精は器用だからね。加工物にかけて右に出るものはいないと言っていい。俺としてはこういう手の込んだ加工食品が彼らの真骨頂だと思うんだよね」
友が手にしているのはエルフが作ってくれた手製の食物だ。けえき、と称されるそれは至極不思議な外見をしている。鼻づらで触ってみるとまふまふと弾力があって柔らかく、様々なものが織り交ざった甘い匂いがする。穀物、油、甘味、特殊な果実などをすり混ぜ、気泡を含ませてそれが潰れないうちに熱を通したものらしい。我輩はそういった属性を持たぬ獣なので火は扱えない。ゆえにこういうものがどういう仕組みなのか、本当に不思議に思う。
「食べてみる? 卵は入っていないみたいだし」
「うむ。…………!!」
「おいしいでしょ?」
「―――」
驚いた。蜜スグリとまではいかないが、かなり甘い。そして口に入れた瞬間、濃厚な乳と麦の香りが満ち溢れ、甘みと溶け合う。歯ごたえは無いに等しいのにこの存在感。品良く絡まる香草の風味。
知らぬうちに、うっとりとだらしなく表情がとけていたらしい。見つめていた友の顔がにやにやとなっている。
「お気に召したようだね?」
「……うむ」
慌ててきりりと顔を元に戻したが、口内に残る芳しさが忘れられない。
「もひとつ食べる?」
「……食べる」
結局ひとりと一頭で土産を平らげたあと、我輩は密かに決心した。
(人界に行ったら、『けえき』も沢山食べよう)
それぐらいの楽しみはあっていいと思う。
「でも人界のケーキはたいてい卵が入ってるからきみには無理かもね」
「なんという……!!」
「そんな絶望の瞳にならなくても」
ヴァイオレット=セイン=エフェメラル(ヴィオラ)・・・人界に棲んでいたけど戦乱を予期して孫夫妻と一緒に天界に引っ越してきたエルフ。天界で生まれたひ孫を見守りつつ穏やかに余生を過ごす。旦那は人界の霊獣でもう随分前に命数を終えている。他の家族は戦乱で行方知れず。なお、リョクは知ることが無かったがリョクの騎者どのの縁者でもある。
ヴィオラがどんなひとだったのかは、拙作シリーズに載せてあります。「Lila2」「丁香花の君」にてちょこっと出てくる脇役です。「りらのぼーなすとらっく。」に彼女と彼女の旦那さんのお話が置いてあります。ネタバレハイパーでございますが。今更ですな。