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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第二章
16/127


 吹き付ける風の匂いが、わずかに変わる。それは些細な変化ではあるが、紛れもない何かがここに近づいてきているという証でもあった。

 まとう風、そしてきらめく光。

 蹄の軽やかな音と共に、かの姿は我輩の前に降り立った。足音らしきものは蹄を下ろしてから歩く、その程度。

 疲労している様でも無ければ息を乱す様ですら無い。最初に蹴ってからここに蹄をつけるまで、いちども地に降りていないのだろう。距離たるものは関係が無い。強き脚なら無駄な動きひとつ無く、ひとけりでいかな場所へも征く。それは我が一族の駆けるもの特有の考えであり、理想形でもあった。

 そうして目の前に立つ同族の姿に、息を呑む。


「あら、見慣れない雄ね。どこの群れの出?」


 その雌の、鬣の色はあまりに見覚えのあるものだったからだ。

 驚きのあまり返す言葉を忘れ、かの姿を凝視してしまった。案の定、その礼を失した態度に我輩よりだいぶ年上だろう彼女は、訝しげな視線となる。雌らしく繊細に整った、けれど決して優しげではない鼻づらがふんっと鳴らされ、薄い色の双眸が剣呑な光を帯びた。

「なあに。近頃の若衆は、年長者に挨拶も出来ないのかしら」

「……は、済まぬ」

 慌てて角を下げた。

「お初に、お目にかかる。我輩は中層が草地、橙の雄が義理の息子だ。わけあってここにいる」

「そう、かの橙の息子なの。それにしては礼儀がなってないこと」

「面目無い」

 手厳しくもその通りであるので、恐縮して角の位置を低くした。亡き養父どののに心中で軽く詫びる。

「まあいいわ。私は中層が北渓谷に棲むものよ。今はわけあって上層と中層を往復して過ごしているの。……事情は知っているのかしら?」

「我輩の知るものがすべてでは無いと思うが、大体は」

「そう」

 軽く頷き、我輩と同じほどの体躯を持つ成獣は、そのしなやかな脚で横を通り抜ける。さらりと、その見事な鬣が鼻先を擽った。

 まるで夕暮れの最後の瞬きを閉じ込めたような、美しい色。

(紅、の)

「ッ待ってくれぬか!」

 思わず呼び止めてしまった。

「なあに」

 脚を止め軽く首を巡らし、訝しげにこちらを見る視線。その双眸は黒ではない。体躯自体も雌らしく線が柔らかいが、決して小さいものでも細いものでもない。彼女の身体はまさに駆けるためのものだ。脚はしっかりとした骨が成り立ち、強靭な筋肉が脈動していた。

 そう、彼女は我輩の知るかの雌ではない。

(しかし、その鬣は)

「あ……」

 情けなくも、口ごもる。その強い視線に射られたとき、なんと言ったらよいのか解らなくなってしまったのだ。

 懐かしく暖かい色の鬣、その隙間から覗く見慣れぬ双眸がまたも剣呑になった。

「用が無いのなら呼び止めないでちょうだい。私は忙しいの」

「……済まぬ」

 項垂れた我輩を一瞥したあと、颯爽と彼女は歩き去った。その背後から、低位天使であろう二本足の若者がちらりとこちらを窺いつつ続く。


 我輩が生涯で二度目に出逢った家族以外の同族、それは紅のの叔母にあたる貴婦であった。




「彼女は、失踪した仲間の捜索のため北渓谷より来られた一頭です」


 上層部の会合場所が広間にて、大天使どのが我輩に説明してくれた。

「北の渓谷にある大きな群れからは、最大五頭もの失踪者が出ています。大規模であるがゆえ個々の行動も自由に近く、失踪の把握も遅れてしまったのです。それを取り戻そうと今、かの群れは三頭が私達天使と共に派遣され、天を駆け巡っています」

 他の群れは一頭ずつなのに、北の群れからは三頭もの派遣。行動は自由にしても、基本拠点は離れることを望まない我らにしては、だいぶ思い切った選出ともいえる。

 乳白色の大きな柱は、この建物の至るところに何本も立つ。その一角で、我輩らは声を潜めるようにして話していた。少し離れた箇所で、主天使どのの暗い銀髪が後ろを向いて立ち、その向かいにはかの雌が連れの天使と共に、彼と話しこんでいる。

 広間にある色の入った壁――ステンドグラスから、朝の陽光が差し込み、乳白色の柱や石のはまった床などを色めかせている。その一端が彼女の鬣の裾にも落ちていた。

 やはり、似ている。

(紅のと……同じ鬣だ)

 つん、と鼻が詰まるような心地がした。懐かしくも痛みを伴う、亡き群れへの思い。暖かく優しかった我輩の幼馴染。

「彼女は行方不明となったつがいを見つけ出すために、みずから志願されたそうです。北の群れにおいては一、二を争うほど強き脚を持つ御仁とか。天使を乗せての捜索も、最も行動域が広く活躍なさっています」

 大天使どのは話しこむ二つの影を見つめ、軽く息をついた。称賛の色が晴天の瞳にある。

「――いつ見ても、素敵なお姿です。見るからに強靭なのに、女性らしい麗しさが共に在って。恐悦ながら、彼女はとても美しいかたですね」

「うむ」

 主天使どのの銀髪ごしに見える紅色の鬣は、豊かで艶があった。それに大天使どのの言う通り、彼女の体躯は骨組みはしっかりと逞しく、盛り上がった筋肉もついている。なのに雄のようにいかつくはなく、線が至極流麗だ。我輩とて溜息をつきたくなるほどに見事な雌の成獣だった。

「あのかたは……おそらく、我輩の知るものの、親戚筋だと思われる」

 彼女をぶしつけでない程度に見つめ、小さく呟く。それに反応して夏の晴天がこちらに向きなおり瞬いた。

「貴方の知り合いと、似ておられるのですか?」

「うむ」

 色とりどりの光にきらめく、暖かで懐かしい夕日のいろ。

ふと、切なくなった。

「……我が群れの惨事は、まだ他の群れには知られていないのだろうか」

「はい」

 けれど、と大天使どのは我輩から視線を外し、かの紅色へと移しなおす。

「おそらく、彼女が一番に知ることとなるのでしょうね」

 夏の晴天にも、切なさがあった。


■ □ ■


 友に塗りたくられた軟膏をなんとか落としたあと、我輩は一晩上層部に留まった。理由は天使らの引き留めである。

 広間にいた時の揶揄めいた表情とはかけ離れた、真なる友好的な笑みを老輪に滲ませた力天使どのは、我輩に出発は明日以降にしたらどうかと勧めてくれた。

「明日の早朝、捜索隊の一頭であるイヴァがこの場所に拠ることになっておる。ここ数日の報告と補給のためにな。かの存在と逢ってからここを発つとよい」

「そうだね、それがいい。あなたも捜索現状を知っておくべきだろうし」

 老天使の言葉に頷くよう能天使どのも勧める。権天使どのもうんうんとかぶりを振りながら言った。

「ぬしは丁度良き頃合いに来たのだぞ、緑のイヴァ。日を待たずして、捜索手の一頭と出逢えるとはそうはない」

「ご存知の通り、天はとても広き界ですからね。下層はまだ目処がつきますが、中層から上層はさすがにそうはいきません。イヴァの脚や私達の翼を総動員し、補給場と往復しながら少しずつ進めているというのが現状です」

 大天使どのが続けるように説明したあと、主天使どのが静かな双眸でこちらを見つめる。

「効率よく進めるために、捜索の脚が被らないよう手配してはいる。貴殿ら同族同士でも滅多に無い機会だ、逢ってゆくといい」

 意図をもって赴くか、かなりの遠出をしない限り、違う群れの同族には滅多に遭遇しない。広大な天を駆け巡る脚と行動域ゆえ、捜索手である我が一族が互いに逢う機会は更に少ないのという。

 相変わらず面倒見の良い我が友は、薬液まみれになった雑巾を自然な動作で拾い集めながらにっこりと笑って言った。

「だから、君は運がいいってこと。明日には前線で活躍する同族に、すぐに逢えるよ」

 察しの良い彼は、我輩が同族に逢えるという高揚に胸を高鳴らせていること、それをちゃんとわかっていた。こんなところも、六年前から変わらない。

「……うむ」

 良かったね、と。視線で微笑む彼に同じく微笑み返す。視界の傍らで、他の天使らの表情も心なしか和んでいた。この分だと、我輩への気遣いもあったのだろう。

「世話になる」

 感謝の意も込め天使どのらに角を下げると、彼らは一様に頷いてくれた。




 上層部たる建物には、会合場である広間を中心にいくつかの部屋がある。最初に入った待合室、高位天使個々の控え室、天における事変を記録してある書庫、茶葉や茶請けなどを常備している給湯室、「使役」らを生み出す特別な部屋、そしていくつかの空き部屋。

 この巨大で便利な建物を作ったかの妖精が棲んでいるのがその一室で、あのあと報告も兼ねて顔を見せに行ったら丁度就寝している頃合いだった。

「――んだよ、ひとが寝てるときに」

 不思議な柄の衣をまとい、揃いの布を頭に巻いた格好で顔を出した妖精。もじゃもじゃとした髪の隙間から覗く双眸が、至極眠たげだ。

「ごめんごめん。ジャス、急なんだけどさ、俺たちを一晩泊めてくれないかな?」

「泊める? そいつも?」

 もじゃもじゃの髪から除く小さな双眸が、こちらをとっくりと眺める。

「我輩は別段、外でも構わない」

 でかい図体なので、二本足らが入るような小さな寝床では傷つけたり壊したりしかねない。そのことに思い当たり言い添えると、彼はかぶりを振って言った。

「外は吹きっさらしで寒いだろうが。イヴァの生態なんつうもんはしらねえけどよ、風の強い日は同族同士で寄り添うかどっか壁のある場所で寝るかすんだろ? おいらの御殿は広いから、寝相が悪くなきゃでかいイヴァでも入る」

 そう言って一旦奥にひっこんだ妖精の男は、またあの銀色の束をつかんで戻ってきた。「ついてきな」と案内されたのは、確かに「でかいイヴァでも入る」奥行きのある部屋であった。二本足用の簡易寝床がひとつ、そして他には何も無い空間だ。丁寧にも床には石の上に藁束が敷き詰めてあり、用途が多い宿泊場なのだと察することが出来た。

「ありがとう、ジャス」

「恩に着る、妖精どの」

 礼を言うと、ふんと鼻を鳴らし自分の部屋に戻っていく。その小さな後ろ姿を見つめ、我輩は小さな声で言った。

「彼が、この建物の家主なのか」

「そう。ここも勿論そうだけど、上層における高位天使様の住まいの殆どが彼によって建てられてる。素晴らしい建築家であり、物づくりの天才だ」

 ちょっとだけ人見知りで頑固だけど、見てわかるようにいいひとだよ。そう言って友は微笑んだ。

「彼はドワーフだからね。機会があったら、彼の作ったものを褒めてあげるときっと喜ぶ」

「そうか。承知した」

 妖精の中でも、特に霊具づくりを得意とする種がドワーフである。手先が大変器用で身体能力も高く、膂力だけならエルフを凌ぐほどのものを持っているらしい。ただし、全妖精のなかでも特に霊力が低い部類に入り、内在霊気は並みの霊獣以下とも言われている。

 そんなドワーフである彼がここ上層にいられるのは、かの大天使どののお陰らしい。

「ジャスは、人界で名の知れた霊具作りだった。先の戦乱でいち早く人界から逃れてここ天界に移住したんだけど、霊力が低いのに何を間違ってか上層に来ちゃって。で、死にかけたところをキュリス様に救われたらしい」

 それから以降、彼は大天使どのに恩義を返すため行動していくうち、天での二本足相手に活躍する建築家となっていたとのことだ。

「我が主はやはり偉大だ。躊躇わず加護をお与えになったからこそ命が助かったばかりか新たな道を彼は見つけることが出来て、そしてこの建物がある。何より俺をこの場で生み出してくださった。ああ、キュリス様……」

 うっとりと、晴天が惚けている。どうでもいいが、使役というものはかほどに「親」に対して心酔的なのだろうか。悪いことではないのだが、たまに脱線するし周囲のものを置き去りにするしで、なんとも反応しがたい。

「何言ってるの、主に対して当然の敬愛だよ、これは」

 ……真実かどうかは、彼の相棒たる黒い天使に聞けばわかると思われた。




 何はともあれ、我輩と友はその場にて宿泊することとなる。相性の良い場所ゆえか、我が友は終始機嫌が良く寝付きも良かった。

 健やかな寝息聞こえる暗闇で、我輩は折りたたんだ脚と腹を藁に寝かせながら、窓の外にのぼる月と漏れる光をぼんやりと見つめていた。考えてみれば、友の家で眠れていたのは、無意識の強制力があったゆえかもしれない。恐怖心や心細さ、かつてあったものへの苦しげな郷愁と自責だけの悔恨。すべてをそのまま受け止めていたら、我輩は決して前には進めなかっただろう。

 ゆえに感覚を麻痺させていた。せざるを得なかった。

(けれど、今は)

 眠れない、というわけではない。ただ、今日一日のことを振り返り、考える時間が生まれた。

 これまでの怒涛の展開と気持ちの揺れ動き、すべてが良いものだったかというとそうではない。

『あんな言葉を、家族を失ったばかりの若者にぶつけるってのが気に入らない――』

 静かな怒りを秘めた能天使どのの声が蘇る。確かに、かの主天使どのと力天使どのの物言いはいささか乱暴だった。我輩がもう少し喧嘩を好む類の性質だったのなら、彼らの言葉に一二も無く飛び掛り、何より助言など受け入れなかっただろう。

(しかし、我輩は受け入れることが出来た)

 当初こそ口先の挑発に惑い飛び掛ってしまったわけだが。けれど、あとから言葉を聞き入れ自省することの出来る柔軟な性質は、確かな美点だ。そのことは誇ってもよいのではないか、そう考える。

 おのれを褒めることは、ときに必要だ。責めてばかりでは、重いものが溜まるばかりで吐き出す術がわからなくなってしまう。空白や余裕の無くなった心など、ふとした弾みで簡単に破裂し壊れてしまうだろう。

(そう、我輩はまだ成長できる)

 欠点も美点も、冷静に振り返ることが出来るから。未熟なことは百も承知だが、ゆえに前を向いて歩けることを知っているから。

(つよくなれる)

 そう確信し、我輩は目を閉じた。月明かりが完全に遮断され、闇のとばりが周囲を覆う。かつてとは違う、確かな眠りが我輩を包み込むのを感じた。体力と気力を回復させるべく、休息に入る。

 まずは明日、同族と逢うのだ。


■ □ ■


 そのようなわけで、翌朝一番に我輩はかの雌と出逢った。そして予期もしていなかった容貌の擬似感にしばし呆け、彼女の不興を買いつつもなんとか挨拶を済ましたのである。


「我が友、良き朝だな」

「おはよう……毎度のことだけど、君って朝起きるの早いよね」

 寝付きは良かったが寝起きは悪かった我が友が、ようやく寝床から這い出て来た。寝癖で鳥の巣のようになっている陽光の髪をがしがしと整え、眠たげに目を瞬かせる。

 我輩の視線の先を何気なく見たその晴天が、ふと見張られた。

「お、もう来てたんだ」

 かの雌は、広間の少し離れた箇所にて水を飲んでいる。大きな桶に頭部を差し入れるその動作でさえ、彼女はどこか気品めいたものがあった。友の表情にも見惚れるようなものが滲む。

「きっれいなイヴァだなあ。雰囲気からして雌で合ってる?」

「うむ」

 ステンドグラスに通された陽光と周囲の乳白色に反射する光、それを受けて紅色の豊かな鬣がきらめいている。群れにいた紅のも優美な雌だったが、今思うにあれでまだ仔どもだったのだ。あと数年もしたら、きっとこの雌のように鬣が量を蓄えますます麗しい姿になっていたことだろう。

(もうそれを見ること叶わず、か)

 ほんのりと痛切が胸を過ぎる。

「で? もう対面は済ませたの?」

「うむ。……少し粗相を致したが」

「粗相?」

 我らの通識として、初対面での挨拶や紹介においては年功序列の気がある。年長者が望めば、幼いものから先に名乗る義務があるのだ。促されるまで固まっていた我輩は、彼女の言うように礼儀を失していた。

 友はまあまあと励ましてくる。

「あんまり気にしないで。これから事情を説明するんだし、ね」

「うむ……」

 先ほどまで主天使どのと話していた彼女が、どこまで事情を把握したのかはわからない。けれど、我輩がここにいる理由――中原の群れが壊滅したことを、遅かれ早かれ彼女は知ることとなるだろう。おそらくは、彼女の親戚筋にあたる紅のと、その家族が死んだことを……

「あ!――おはようございますキュリス様っ」

「おはようございます、エル。よく眠れましたか?」

「はいっとってもよく眠れて元気一杯です!!」

「それは何よりです」

「はいっっ! あの、キュリス様は朝から眩く麗しくて素敵です……っ」

「ふふ、ありがとうエル。さて、かのイヴァと貴方の友のための朝食を運びましょう、ついてきなさい」

「はいっ」

 大天使どのの気配に気づき、恐ろしいほど素早い身のこなしで背後にすっ飛んでいった我が友。彼は翼が無くとも、大天使どのさえ居れば我らにも負けぬ瞬発力を発揮するのではないか、と普通に考える。

 あっという間に遠ざかってゆく天使らの後ろ姿を眺めながら、切なさも束の間忘れることが出来た。




 我が友と大天使どのが持ってきてくれたのは、我が一族が主食とする草と幾つかの果物であった。ひとつの輪を転がして移動する大きな入れもの、それに山と詰まれた量は、みるからに成獣二頭分以上はある。

「この量で足りるでしょうか」

「大丈夫です、キュリス様。我が友と暮らした経験のある俺からすると、充分かと。……だよね?」

「うむ、充分すぎるほどだ。感謝する」

 草食系の獣は、肉食系に比べて燃費が悪い。我らも下層で見かけた同系統の獣とまではいかないが、それなりの量を摂取しなければ、満足に動くこと叶わない。食は、まさに生きるための糧なのだ。

「ええと……彼女も一緒に食べる、よね」

 少し気おされたように恐々と前方を見る友、まあ気持ちはわかる。

「私が、聞いてきましょう」

 気を利かせて紅色の鬣に近づこうとする大天使どのを、我輩は制した。

「いや、我輩がゆこう」



「あら、さっきの」

 ついと優美な首を巡らせ、かの雌はこちらを見つめた。上層部の暖かで潤沢な霊気に囲まれ、その威容は艶々としている。

 緊張しがちな脚を奮い立たせ、我輩は言った。

「大天使どのと我が友――使役どのが、食物を用意してくださった。よかったら共に食べないか」

「緑のひよっこは本当にひよっこなのね。若いというか、もの知らずというか」

「は?」

 いきなり、なんだろう。食事に誘っただけなのだが。

「つがいを持たない独り立ち済みの雄が、成獣以上の雌に食事を共にするよう誘うってどういうことか、わかっていて?」

「……」

 どういうことだろうか。

「わかってないの。橙の雄は何を……ってあの朴念仁はこんなこと教えないわね」

 彼のつがいとか、群れの他の誰にも教わらなかったの、と溜息をつく紅色の貴婦。

「何か、我輩はまた粗相をしてしまったのだろうか」

 そわそわと落ち着かない心地で聞く。我輩はまた、この気高く美しい成獣に礼儀を失してしまったのだろうか。

 薄い色の双眸が、ふと可笑しげにこちらを見つめた。ここについてから手厳しい視線しか送られなかったのに、その時初めてそれ以外のものを感じた。

「あのね。それは求愛を意味するのよ」

 最初にやってしまったのがつがい持ちの私で、しかも周囲に彼がいなくて良かったわね。そう言って、紅色の貴婦は蹄を響かせ、我が背後に向かって歩き出した。

 きゅう、あい?

 一瞬遅れて言葉を理解した直後、角が噴火するかのような思いになったのは、言うまでも無い。




 思い起こしてみれば、心当たりがあった。

 かつての群れで、とある事情により雌全員がいっとき雄から離れ、食事を別にしたことがあった。やむを得ない事情があったので仕方なかろうと我輩は感じていた。

 しかし、我輩以外の群れの雄は全員が見事に意気消沈していたような。あの時は、つがいと過ごせないのがそんなにかなしいのかとただそれだけの感想だったのだが。実際はそれだけではない、彼女らへの愛情表現が一種、それを否定されての消沈だったのか。

 今の我輩もそのときの彼らほどではないが、落ち込まざるを得ない。というか、おのれの無知がつくづく恥ずかしい。

「あの、緑のイヴァ。そのように落ち込まないで下さい。男性がそういったことに詳しくなくても、恥ずべきことではないのですから」

「うんうん。まあ、あれだね。君はまだ若いから知らないことが多いだけって話。……それにしても無意識で求愛って、どれだけ」

 励ましてくる天使らの言葉が痛い。居た堪れない。そして我が友、笑いをこらえているのが地味に苛立つ。彼の沸点はやはり、大天使どのに絡んだとき限定のようだ。

「ものを知らないのは仕方ないわ。まだ独り立ち直後ってところでしょう?」

 ふて腐れてがしがしと繊維種の茎を噛んでいたら、横合いから毅くも麗しい声がかかる。

「つがいに巡り逢えてないどころか、見るからにそういった機敏に疎いあたりも、あの朴念仁の息子らしいし」

 すました表情でもくもくと草を頬張る紅色の貴婦。あんなことを聞いた直後では彼女と二頭だけで食事をする気になれず、天使ふたりもその場に留まってもらっている。

「中原の群れ長と、お知り合いなのですか?」

 我輩が聞きたかったことを、またも代弁してくれる大天使どの。頬張った草を飲み込んでから、彼女は答えてくれた。

「ええ。橙の雄も私も、渓谷生まれだから。年は離れてはいるけど、幼い頃は一緒に過ごしたの」

 彼女と我が養父どのは、同郷だという。養父どのが独り立ちする前の様なども見知っているそうだ。

「昔から強い脚と広い度量の持ち主で、且つ朴念仁が形をとったような雄だったわ。群れの雌から幾頭も秋波を送られているのに、見事なまでに気づかないの。そんなところが憎めなくってね」

 我が養父どのは並ぶものの無い強き雄であるが、ある部分では並みの成獣以下だったらしい。どのような偉夫でも欠点はあるものだ。

 意外な反面納得の心地で聞いていたら、向かいで我が友が生ぬるい視線をおくってきた。「なんというか、やっぱり親仔なんだね」とのこと。どういう意味だ。

「先の人界での戦乱で妖精の騎獣として駆り出されたとき、戦場でつがいと遭遇してそのまま一緒になったって聞いたときは、群れの皆が驚いていたわ。あの朴念仁のかたまりが、本当につがいを見出せたのかって」

 ふ、とその薄い色の双眸がまた和んだような気がした。声音も柔らかい。ただ懐かしげに緩む視線。

「それから紆余曲折はあったけど、新たな群れの長になれたって聞いて。むしろ納得したわ。朴念仁は朴念仁だけど、立派な雄には違いなかったから。北の群れからも独り立ちした何頭か、その群れの一員になったのよ。我が弟もそうだった。幼馴染と一緒になって、仔も作って幸せに暮らしてるって風の便りで聞いて」

 彼女が言うのは、紅のの父親のことだろう。

「時間が出来たら、逢いに行ってもいいかしらって思っていたのだけど」

美しい紅色の雌は、それからその表情になんともいえない哀惜を滲ませた。じわり、寂しさが沁みるような声音で呟く。


「もう……逢えないのね」


 我輩らは察した。彼女はもう、事情を知っているのだと。




 紅のの両親は、二頭とも北の渓谷出身である。かの群れは遠く離れた我が群れにも評判が届くほどに、至極大規模なものだ。今現在においても五十を越す総数が、天の恵み豊かな谷の至る箇所に棲んでいるらしい。

 大規模であるがゆえ、利点もあればそれなりの落とし穴も存在する。

「私が気づいた頃には、もう四頭も失踪していたっけ。そのうち一頭は良く知ってた間柄の仔だったから、ようやくこれは尋常じゃない出来事だと思ったの」

 しかし、もう時は既に遅かったと彼女は憂いを瞳に乗せる。

「私のつがいはね、とても正義感の強い雄だから。これはなんとかすべきと単独で調査に乗り出して、それから……」

 彼女のつがいは、五頭目の失踪者となってしまった。

「北の群れ長は直々に上層部までいらしたのですが、気の毒になるほど悔やまれていました。自分がもう少し早く把握出来ていたら、これほどまでに失踪が続かなかったのだと」

 大天使どのが衣の端で果物を磨きながら、補足してくれる。ぴかぴかと輝く紅玉を受け取った紅色の雌はひと噛みでそれを砕いて飲み込み、続けた。

「事件の把握が遅れたのは長のせいじゃないの。我が群れは大きいからね、行動だって他の群れより自由で、雌の出産と仔育て援助以外はほぼ個々に任せてる。だから、不可抗力。むしろ、個々の行動は自己責任に拠る箇所が大きいから、我がつがいの行動はある意味浅慮だったとも言える」

 だからといって。

「だからといって、我がつがいが失踪しなくてはならない理由なんて、どこにもないのよ」

「……」

 彼女の薄い色の双眸は、静かであったがかなしみと怒りと内なるもどかしさに燃えていた。なんとも返せず、我輩は押し黙るしかない。彼女は、唯一無二の最愛が行方不明となってしまっているのだ。

 そればかりか。

「捜索に加わって、もうすぐ三年になるわ。けれど、彼の行方はつかめない。そればかりか、」

 ぐっとその瞳に陰りが濃くなった。麗しい紅色の鬣が、色自体は変わらないのに急にくすみを帯びたようになる。首を垂れ、我輩らに表情を隠すようにして彼女は嘆く。

「中原の群れが壊滅したなんて。どうしてこう、悪い報せばかり続くのかしら……っ」

 こもった声、それに多分に含まれる感情。それはつい先日、我輩が味わったものと同種だ。

 静かながら、深く激しい哀哭。親しいものを喪った嘆きだった。




 我輩のものと違う箇所があるなら、それは極一瞬の感情の切れ目であり、彼女は瞬時におのれを取り戻したことだ。

 ついっと上がったその頭部に、先ほどの哀切も慟哭も欠片も見当たらない。ただ優美で堂々と、それでいて対面時にはなかったものがあった。視線は静かで、暖かい。

「――事情は大体だけれど、主天使に聞いたわ。大変だったわね、緑の」

 懐かしい呼ばれ方に、ふと目頭が潤むような心地がした。彼女の鬣の色もあって、まるで幼馴染にそう呼ばれたような錯覚に陥る。薄い色の双眸は、黒の双眸とは違う。優美と強靭を併せ持つ体躯も、かつての群れの雌の誰とも似ていない。なのにこの感慨はなにゆえだろうか。

「若いのに、つらかったでしょう」

「我輩は、何も出来なかった。殺されなかったのも運が良かっただけで、養父母どのの命の終焉にさえ、遭うこと叶わなかった」

「それでも、若衆にしてはよくやったと思う。何より、群れ全員を弔えたこと。そのことについては労いと共に、私自身も感謝したいわ」

 私の弟とその家族を、いたわってくれてありがとう。その言葉と共に、巨きく美しい成獣は、丁寧にその優美な角を下げた。

 不覚にも、目頭の熱が決壊しそうになる。彼女の声音はあっさりとはしていたが、底辺にあるものはどこまでも暖かかったから。気遣い云々よりも、事実をそのままに認めて心から感謝されている。そのことが伝わったから。

 こみ上げるものをぐっとこらえ、角を下げ返す。視界の片隅で、我が友と大天使どのが何気なく後退した。

「けれど、問題なのはこれからよね」

 角を上げたあと、暖かだった双眸が険しさを帯びる。成熟した雌は、冷静に物事を振り返り、そしていっときの感情にいつまでもとらわれない。

「さっきも言ったけど、三年も経っているのにまだ失踪の全容はつかめていないの。認めたくはないけど、てこずっているのよ、私たち」

「天の下層一帯においては目処がたったと聞いたが」

「下層はね、狭いから。あれっぽっち、幼生でも駆けられるでしょう」

「うむ、相違ない」

 視界の片隅で、またも我が友と大天使どのが動き、なにやら小声で話している。(か、下層がせまいって……)(さすがはイヴァですね)

「思うに、中層や上層はいかほど広いのだろうか」

「上層は目処がいまだにつかないわ。けれど中層は最近わかってきたの。下層のざっと百と十倍ってところかしら」

「そうか。では駆ける目処はつくな」

「そうね」

 我が友の顔が青くなっている。大天使どのも心なしか苦笑いをしているようだ。(やばいですよイヴァの脚。中層制圧まであと少しだって言ってます)(さすがはイヴァ……で合っているのでしょうか)

「失踪したものはすべて中層にいたものと聞いたが」

「確かにそうだけど、つがいでさえ気を辿れないほど沙汰無しだから。どこにいるかという可能性は多すぎるほどよ」

「……その、」

「死んでいるという可能性は、私たちの頭には無いの」

 きっぱりと断言された。

「でなくては、捜索などしていない。器が完全にこの世のどこにもいないのなら、もう私たちは諦めている。諦めたくはないの」

 凛とした双眸が燃えている。言葉どおり、決して諦めてはいない表情だった。

「そうか。ではあとは中層の残り、そして上層のみが天における捜索のしどころだということな」

「ええ。幸い、天使の協力も得ることが出来たから上層には入り込める。刺激さえしなければ上位の獣も襲ってはこないし、襲われたとしても私たちの脚ならば大抵は回避できるわ」

(じょ、上層の肉食種に襲われても無事だったってこと? ……イヴァって……)(落ち着きなさいエル。群れでも屈指の実力者であられるのですから、当然ですよ)

 数々の危険を潜り抜け広く界を駆け回り、堂々とここに立つ紅色の貴婦は、どこから見ても立派で強い成獣だ。

(しかし)

 誇らしげな表情の裏に宿る、複雑ななにか。それを感じ取ったからこそ、我輩は言わざるを得ない。

「……我輩の、勘違いでなければ」

「なあに」

「我が一族の捜索が脚、それは単純な目的ゆえなのだろうか」

 長い睫毛がひらめく。

「どういうことかしら」

 これほどまでに広い天、いかな強き脚と力を持つとて、無闇に駆け回るほど時間と手間の浪費に過ぎるものは無いと感じた。なのになぜ、彼らは天使の提案に乗ったのか。

「天の巡察と仲間の捜索。それを兼ねた行動はわからないまでもない。けれど、ただ単に天の巡察なら下層と中層の一帯だけで済むはずだ」

 であろう?と我が友に問いかけると、彼ははっとしたように頷き控えめに言い添える。

「――確かに、俺がかつて任されていたのは、今のイヴァたちが駆けている範囲とは比べ物にならないほど狭い範囲だった」

「それで充分事足りていましたからね。天は基本的に、平穏が常なんです。些細な事件はそれなりに多発してはいますが、天全体を揺るがすほど大事件はそうは起こりません」

 彼に仕事を命じた上司である大天使どのも言う。

「天の巡察とは、些細な事件が連鎖して大事件を引き起こさないようにする、それが本分なのです」

 説明に感謝するよう角を軽く下げてから、我輩は続けた。

「仲間の捜索が加わるとはいえ、かほどに天の隅から隅まで駆け回り、残らず検分しようとするのは、それ以外の目的もあるのだろうと考えざるを得ない」

「……」

「上層も捜索の余地があるなら、中層を捜索し終えてから、この建物に棲む妖精のように高位の天使どのに加護を授けてもらえば、それこそ半永久的に上層に留まれる」

「……」

「なのに、それをしない。まるで便利な霊力の補助用具が如くお飾りに天使を同行させ、天を無闇に駆け巡っている。これはいかに」

「口が過ぎるんじゃなくて? 緑の」

「……済まぬ」

 色の薄い双眸に睨まれ、しゅんと項垂れる。確かに調子に乗りすぎた。

「けれど、」

 紅の鬣が色とりどりの光を反射し、眩く輝いた。陽光はすでに、だいぶ高い位置にきている。光に囲まれた双眸が細められた。

「暗愚ではないようね」

 その雰囲気に不敵なものを感じ、我が友が後ずさるのが見えた。動揺しなかったのは我輩と大天使どのだ。

「天使の協力には感謝しているわ。これは事実よ。そして同行してくれているものにも、それなりに親しみを覚えているの。本当よ?」

 文末の言葉は、低位天使であるがゆえ利用されることに怯えた若者に向けたものなのだろう。声音と視線に嘘は無い。

「ただ、緑のの言う通りこのやり方では私たちにとって効率が悪い。下層や中層の一部だけ天使を同行させ、それ以外は手っ取り早く上層に棲むものの加護をもらえば、もっと自由に動けるし、時間の短縮にもなるでしょうね」

 それをしないのは。

「それをしない理由は、簡単よ。私たちにとって、天の捜索がすべてではないから」

 天での真なる目的、それは。


「人界での捜索。そのために不可欠なものを、天で探しているの」


 捜索ではなく探索。

 それを彼女は吐露した。凛とした双眸に誇りを交えて。

 何を探しているのかは、彼女のその様を見れば、すぐにわかる。何より、我輩もそのつもりであったから。


「――我ら一族は、天にすまう獣」

「他の界にいくとなると、それなりの準備が必要」


 呼応するように、二頭の声が重なる。考えも思いも一緒だった。ああ、と感慨が過ぎる。これこそ同族たる意識の共有なのだ。


「準備とは、人界において溶け込むことの出来る能力」

「人型に変化できる霊力」

「霊力を霊力として行使できる術」

「しかし我らは霊力が弱い」

「ゆえに、補うものが必要である」

「霊力だけではない、知識も、更なる毅さも」

「それをすべて叶えるのが」

「それをすべて持っているのが」



 それが、騎者。



 薄い色の双眸に映る我輩のものは、彼女同様に不敵なものを乗せていた。

 視界の片隅で我が友が息を呑む。大天使どのが目を細めたのも見た。

「――わかっているようね」

「無論。それが我が一族たりえるものであろう」

「上等よ。さすが橙が息子」

 この貴婦にしては珍しく、はっきり微笑みとわかる表情がその麗貌に浮かぶ。

「我が一族に欠けたるものがあるとするなら、それは魂の片割れである騎者に他ならない。彼らがいないからこそ、我らは身のうちの霊力を行使することが出来ないに等しいの」

「それは薄々感じていた。脚力の制御だけではなく、内なる霊気があまりに乏しいのはこれいかに、と。それでも天において霊獣として存在し得ているのは、それなりの容量を持っているからに相違ない」

「そう、我らはまだつよくなれるの。例え身体が育ちつくした成獣であっても、命数が上限に達している老齢であっても、騎者を見つければ更なる飛躍が待っている」

「それを得て、行動域を更に広げれば」

 ごくり、と誰かの喉が鳴った。

「「我らは、目的をようやく果たせる」」

 呼応する言葉は、誇りと遺志と決意に満ちている。何よりいとしきものを見つけるために。そのあと、肝心のいとしきものとの別離が待っていようと。

「必ず、見つけ出すの」

 それゆえの、決意。


 悲壮でいて、何よりも勇壮なものに燃えている同族の姿は、至極美しかった。



※高位天使か、上層以上に棲む精霊族の加護があれば、中層以下に棲むものでも上層に入り込める。その方法は、天使を同行させ霊圧を一時的に肩代わりさせることと違い、半永久的に続く効果である。

※高位以上の加護を受けたものはその先において、他の加護を受けることが出来なくなる。イヴァにおいては騎者と遭遇したとしても、霊力が上がることがなくなる。これは人型に変化できなくなると同じ意。

※ゆえに、騎者を見つけたいイヴァは、高位の加護を受けたがらない。

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