二
我輩は無知無力だ。そして、未熟に過ぎる。
六年前、群れに招き入れてくれたばかりの養父どのとした、ある会話を思い出す。
「世間知らずというもの。それを解っているか」
「はい」
当時の我輩は仔どもであったが、今より遥かに素直でもあった。
「わがはいは、世間知らずです。天のことも、我がいちぞくのことも、なにもしりません」
「うむ」
橙の鬣を陽光に光らせ、在りし日の養父どのは頷く。
「世間知らず、つまり無知をおのれ自身自覚していること、それだけで自覚をしてないものより数倍はましだ。学ぶ余地というものがあり、おのれを良くしてゆこうという気構えがいくらかあるということだからな」
燃えるような橙が、風に翻って中天を仰ぐ。
「ただ、それだけでは駄目だ。無知を自覚しているだけでは足りぬ箇所がある。それは解るか」
「たりぬ、かしょ?」
きょとんとした。一端の口を利いてはいたが、やはり仔どもは仔ども。わからないものはわからない。養父どのは軽く微笑んで我輩に向き直り、答えを言った。
「それは、おのれの感情を御することだ」
そのようなことをすっかり忘れてしまうとは。
◇ ◇ ◇
「ひっ、うっ……」
「……」
「ぐすっ、っく」
「……」
「ふっ、うぅ、」
先ほどから耳元で、押し殺すようなうめき声。さすがに気になって言った。
「……我が友、いい加減に泣き止まぬか」
「な、泣いてなんか、ひぃっく、いないっ」
盛大にしゃくりあげながら言われても、説得力というものが皆無だ。ついでに言うなら、晴天の瞳も大洪水になっている。もはや決壊を隠そうともしていない。
「友よ、我輩はもう至極平気だ。気持ちは嬉しいが手当ては不要」
事実である。容赦なく打ち据えられたとはいえ、かの天使が振るった鞘付きの剣には、殺意も力もまったく込められていなかった。少し名残はあるが、打ち身自体は上層部の潤沢な霊気によって癒され回復傾向にあり、もう痛みすら薄い。
なのに、我が友は先ほどから我輩の傍に張り付き、涙目で全身に膏薬やら癒しの霊力やらを塗り重ね続けているのだ。妖精が作ったという膏薬はほぼ無臭であったが、さすがにべたべたとした感触は心地よいものではない。よって辞退をしたのだが、返ってきたのは滂沱とした凄まじい形相でのまくし立てだった。
「不要ってそんなこと誰が決めたんだよっ俺はやりたいからやってるのっ落ち着くから勝手にやってるのっ落ち着かなくさせた君にはとめる権利なんか無いんだっ」
晴天が晴天でなくなっている。
「しょ、承知した」
妙な迫力に押され、立ち上がりかけた脚をまた曲げてしまう。友は真っ赤な鼻を鳴らし、薬塗りを再開する。
「そうだよ、こうして大人しくしてればいいんだよ、ひぐ、すん、ふぅっ」
どうでもいいが、なぜこんなことになっているのだろう。我輩が得体の知れない膏薬塗れにされるのも不可解だし、友がこんなに泣く必要も無いはずなのに。中層で弱さを吐露して以来、彼はこういったものを隠さないようになった気がする。歳若いとはいえ、我輩よりいくらかは年長なのだが。
ぺた、ぺたと腹あたりに冷たい感触と体毛が貼り付けられる感覚。そして合間に聞こえる呻き声としゃくりあげ。こちらのほうが落ち着かない。けれど、確かにこうなった責任は我輩自身にある。
「ほんとう、に。見てられなかったんだからねっ」
「………済まぬ」
我輩らがいるのは、高位天使が集っていた広い会合場所ではない。この建物に着いたときに最初に妖精の男に開けてもらった、あの小さな待合室にいる。というか、我が友に有無を言わさず霊力を総動員して引っ張り込まれた。彼の生家ゆえということもあるが、抵抗の余地も無かった。
身体がうまく動かなかったせいもあるが、何より心が動揺と後悔の中にあったせいだ。
数刻ほど前。
我輩は広間にて発された他愛も無い指摘に激昂し、発言者に勝負を申し出て、完膚なきまでに返り討ちにされた。
「だいたいっ、主天使様にしょうぶ、挑むなんて、ぐすっ、命知らずなんだよ君はっ」
「…………うむ」
晴天が真っ赤になっており、ぐしゅぐしゅと新たな雨を滴らせている。鼻を啜りながら薬を塗りたくる手は止めない。
「っひっく、主天使イオフィエル様は、高位においても首席っ、つまり、我があるじたるキュリス様よりずっとお力のある方でっ、じ、実質、上層で最もお強い天使様なんだよ? っ、ひぃっく、そんな相手に、生まれて数十年の霊獣が挑もうとするなんてっ、こ、こんなこと言いたくないけどさっ」
言ってくれるな、友よ。我輩も感じている。
「無謀っていうか、どうかしてるよっ」
「…………確かに」
今更ながら、よくこの程度で済んだ。
「し、死んじゃうかもって思ったんだ、君が殺されちゃうかもって」
「…………うむ」
よく命をとられなかったと我輩も思う。
「よ、よかった、死ななくて。うぅぅっ……、ひぃっく、ほんとに、良かったぁ」
「…………済まなかった」
小さく、謝った。角を摺り寄せながら。
天使の友は何も言わず、手の平いっぱいの軟膏をなすり付けてきた。
◇ ◇ ◇
「弱き脚という戯言を、取り消せ」
我輩の心頭まで達した声に、高位五隊が次席・力天使デュナメルエルは首を竦めた。
「おお怒っておるわい。イヴァの若者らしいのう」
高位天使において一番強い男――主天使イオフィエルはいきり立った我輩を前にしても、毛ほども動揺を見せなかった。いや、実際動揺もなにも無かったであろう。
「――睨んだとおり、貴殿は若く中途半端だ」
鮮やかであるのに常に醒めているような双眸、それで我輩を見据える視線には、揺らぎは微塵も無ければ先ほどまでの嘲りの色すら消えていた。ただ、静かに現実を見る光があった。しかし、激昂していた我輩は気づかない。気づかぬまま、口先に踊って惑う。
「中途半端と、言ったか」
「中途半端と言った。未熟なものに、正直この事件に関わって欲しくはない」
「未熟かどうかは主天使どのが決めることではない」
「実際に未熟だ、このような言葉程度に惑わされる」
「……ッかの失踪は我が一族の問題だ、協力には感謝するが我が一族が解決しなければならぬ。だから我輩はここにいるのだ、それを咎められる謂れなど無い」
「口ばかりだね。実際に覚悟も何もなっていない」
「口ばかりかどうか、見せて差し上げよう。表に出て我輩と勝負をしろ」
「いいだろう、貴殿は口ばかりだってことを教えてあげる」
そして建物の外に出て。
「かかっておいで、弱き脚のイヴァ」
「ほざくがいいッ」
弱き脚という言葉にまたも反応し更に激昂した我輩は。
あっという間に叩きのめされ、地面に伏した。
鞘付きの剣、翼出さぬ背中、息を乱さぬままの声で主天使は言った。彼はやはり動揺もしなければ、無用の嘲りもしない。ただ静かに、事実だけを伝えた。
「……貴殿の群れが、いかに殺戮されたのか。それを知ってる?」
そして、回想に戻るのだ。
◇ ◇ ◇
「無知を自覚していようとおのれの弱さを識っていようと、目先の感情にとらわれ前に進めないようではまったく意味が無い」
自分は無知だから仕方ない、愚者であるからこうなのだ、かのような自嘲に終わる惨めさと無意味さははかりしれない。それこそ、形ばかりわかったような物言いで終わってしまう。内なる自省自嘲である分、負け惜しみ以下、弱者の遠吠え以下だ。
「それを乗り越え克服しようと決心したところで、待ち構えるものに砕け挫けてしまうことも数知れない」
例えば無力感。神経を逆撫でするかのような雑音。それらすべてをひろっていては、目指すものに到達するまでに力尽きてしまう。
「それこそ、例え比類なき『佳き脚』を持っていたところで微塵も活かせぬ」
深い色をした双眸が、我輩を毅く見つめる。
「いいか。自覚と同じほどに重要なのは、目的を達するまではおのれの感情を制御することだ。御する自信が無いのなら、始めから諦めるがいい。いかなことがあろうと、おのれはここまで辿り着く、駆け抜ける。その意志が無い限り、中途半端に取り掛かろうとするな。形ばかり利口ぶろうと、必ず挫折する」
「それは、感情をおさえろということでしょうか」
戸惑ったように聞くと、毅く巨きな雄は小さく角を振った。
「制圧ではない、制御だ。鈍重になれということでもない。勿論、悪感情や負なる匂いに鈍感であれば、多くの利点もあろう。だが、我らは生憎かのように生まれついてはいない。鋭敏な感情や神経は、我らが生きる限りはついてまわるものだ。無理に殺そうとすると、かえって心身を締め上げ自滅する。肝要なのは、それを認めたうえで、御する術を覚えることだ」
容易なことではないが、すべてはおのれのことだ。おのれが制御しないで、誰が制御する。形に出るものと違い、形無きものなど他者が及ぶものではない。他でもなく、おのれ自身でどうにかするしかないのだ。
だからこそ。
「おのれを、出来る限り信じるがいい。無知を認めることが出来るのであれば、過信することもあるまい。おのれの身の内に燃える炎、吹く風、きらめく光に忍び寄る闇。時に冷たく凍りつき、時に落ち着かなく揺らぐことがあっても。それらはすべて、おのれ自身なのだ。きっと御することも出来る」
それを信じろ。
「おのれを御することが出来た、そう感じたとき。きっと目的にも達しているだろう」
陽の光に燃ゆる橙の鬣。威風堂々とした四足の雄が、違う姿と重なる。二本足の、暗い銀色の髪と色鮮やかな碧眼をした天使の男だ。
まったく違う雰囲気を持つ広き度量の主は、まったく異なる姿で同じことを言った。
「つよくなれ」と。
◇ ◇ ◇
「――つよくなってほしい、と主天使どのは言ってくれた」
友の泣き声が収まりかけた頃合い、我輩は回想ついでに呟いた。
「様々な意味合いがあろう。身体的には勿論のこと、精神的にも我輩は未熟だ。ゆえにあのような口先の挑発に惑い、力量もはかれぬような無謀な勝負を挑んでしまったのだ」
「ほんとうだよ」
我が友がぼそりと合いの手を入れる。良かった、もう先ほどの決壊具合もおさまってきたようだ。薬を塗りたくる手はまだ止めないが。
「だが、我輩にはまだ成長できる余地があると。身の程をわきまえてはいなかった、それを自覚出来るだけ救いがあるのだ、と気づかせてくれた」
そしてお前はまだつよくなれるのだと、励ましてくれた。代償は叩きつけられた敗北感と無力感だったが、その価値は大いにあった。
『緑の鬣持つイヴァ、貴殿はまだ若い。そしてそれは、悪いことではない。若さゆえの過ちも惑いも、すべて必要なことだよ。でなくては無知無力を自覚することなんか出来ない』
色鮮やかな碧眼は、静かに語りかける。
『貴殿は誇り高い一族だ。美点など数え切れないが、同時にその志の高さゆえ躓くことも多い。そしてそれは世界を広げれば広げるほど大きな溝となって貴殿らの行く手に待ち受ける』
この世界は、きれいなものだけではない。曖昧なもの、嫌忌すべきもの、すべてが絡み合って存在しているのだ。
『貴殿は他界に行くため、情報集めにやってきたんだろう? その判断は間違ってはいないが、同時にしなければならないことはそれだけじゃない。自分の弱さをはかり、足りないものを補うべく行動する冷静な考えが欲しい。感情の無理な制圧じゃなく、感情を認めて制御するちゃんとした理性が、何よりも必要なんだ』
養父どのが、かつて教えてくれたことと同じだ。それを我輩はすっかり忘れてしまっていた。
『僕やデュナが言ったことと同じ言葉、敵対するものには必ず言われるだろう。貴殿らにとって一番の挑発行為だからね。それにいちいち激昂しているようでは、問題外だ』
「弱き脚」、その一言で本当に弱くなってしまうようでは、未熟を体現してるようなもの。それはひどく身に染みた。確かに我が一族にとって赦せない言葉だが、それをただの悪口とするか活力と帰すかはおのれ次第なのだ。
『貴殿は自省することの出来る、賢明な性質とみた。しかし、まだ若いから咄嗟の感情を制御する術は拙い。そういったものはこれから身に付けることができる。貴殿はまだつよくなれるんだ』
ふ、と感情を見せない碧眼が緩んだような気がした。気のせいだったかもしれないが。
『だからつよくなって、緑のイヴァ。世界の深く醜い溝など、ひとけりで跳び越せるように。本来なら貴殿らは、下品な言葉や視線、暴力など及びもつかほど高みにのぼれる、尊いものをもっているのだから』
そこまで到達してこそ、真なる意味で誇り高い一族といえるのだ。
『そのことを証明してほしい。イヴァであるなら誰もがもっている尊さを、もっていないものに見せつけてやってほしい』
弱き脚でも、いつか佳き脚となれるかもしれない。
『だから、つよくなって』
そう言って、偉大な高位天使は踵を返した。なので最後に彼がどのような表情をしていたのかは見えずに終わる。
けれど、その言の葉だけで充分だった。
「我が友よ。我輩は、つよくなりたい」
香草藁の穏やかな香りが漂う中、我輩は友に言った。もう既に打ち据えられた痛みは微塵も残ってはいない。
「身体だけでなく心も。それらすべてをくるめ鍛え、つよい存在になりたい。これは我が家族の無念を晴らすためだけでなく、我輩自身のために必要なことだ」
「……」
既に泣き止んでいる晴天、しかしまだほんの少し眦に名残がある。ぺた、と我輩の背に手を置き、友は無言で見つめてくる。
「だから我輩は、探そうと思う」
おのれに欠けたるものを。知識ばかりではなく、経験を積むために。目的まで辿り着く過程も、すべて成長の糧とするために。
「探し求め、そして見つけ出す。幸い、我輩の身体は至極健やかだ。何事も無ければ、そこそこ時間はあるだろう。幾年、幾十年かかろうと、必ず」
「……それってさ」
背から手を離し、新たな薬の蓋を開けながら、友は小さい声で言った。
「もしかして騎、」
「ぬうぉおおおおッ緑のイヴァああぁぁッ」
言いかけた言の葉は、それより遥かに大きく野太い声で中断された。
「我は感動したぞ! イオフィ殿に対し微塵も引かぬあの無謀さと隣り合わせの勇敢さ! 誇り高さ!! 負けたとしてもそこから学び取る聡さ! 潔さ!! ……ッこれぞイヴァなのだな、これぞぬしらの素晴らしさなのだなッなんという気高き美しい一族よぉ!!」
小さな待合室の扉を開け放ち、涙目で乗り込んできたのは縦にも横にもいかつい権天使どのであった。
「我に出来ることがあればなんなりと言ってくれ! 力の限り手助けすると誓おう!! なればこそ、その背に乗って共に天を駆け巡ることも我なら歓迎する!! なあ緑のイヴァよ、したがって検討しては……」
「はーいそこで止まりましょう」
べしっ。
いつもの合いの手混じりに彼を止める、小さな能天使どの。
「ごめんね、緑のイヴァ、それからキュリスの使役サン。こいつさっきから待合室の前にでかい図体で張り付いて、何してるのかと思ったら出歯亀してたのね」
「で、出歯亀とはッ……出歯亀であったが」
「うんうん、自省できるだけ偉いエライ。とりあえずあんたは外に行ってな。キュリスに頼んで、新しいお茶用意してもらってきて。あ、そうそうキュリスの使役サン、あなたもキュリスが呼んでたから、一緒に行ってあげて?」
「は、はいわかりましたシャティエル様」
我が友は少し慌てながら膏薬の蓋を閉める。その様を見ながら濃紺の深き双眸が細められる。戸惑う若き天使を温かく見守るような、柔らかい空気がそこにあった。
話の流れの中で、納得していないのは権天使どのただひとりのようだ。
「シャティ、急にそのような勝手な物言いが通るとでも!? 我はまだ話が……」
「とっとと行きなさいバラク。でないとあんたの更に恥ずかしい過去、このイヴァにバラしてやるよ」
「ひ、卑劣なり! 待ってろ、すぐに戻るゆえっ」
来た時とは若干違う涙目になりつつ、いかつい天使は扉の向こうへと消えた。彼の掘り起こされたくない過去は多々あるらしい。我が友も名残惜しげにしながら、そのあとに続く。
小さな部屋には、我輩と小柄な天使だけが残された。嵐のあとの静けさとはこういうものであったか。
「うーん静かになったね。なんだかごめんね、いきなりやかましくして。バラクの奴、昔っから本当にイヴァが好きなの。なんであんなに好きなのか、詳しくはわからないんだけど」
「うむ、正直戸惑いがあるが、別段悪い気もしてはいない。個々の嗜好というものであるし、何より権天使どのは我輩に厚意を示してくれている。手数であるが、感謝していたと、そう伝えてはくれまいか」
ふふっと口の端で能天使は微笑んだ。
「賢明だ。バラクに直接伝えたら、その勢いで背に乗せろ騎者にしろとか無茶苦茶言い出しそうだもんね」
「うむ」
我輩らはそこで軽く声をあげ笑った。
「ふう。で、もう平気みたいだね」
何が、とは問い返さない。眉にもかからないほど短い白銀の髪が、窓からの斜陽に照らされ濃紺の瞳と鮮やかな対比を生む。大天使どのとはまったく違う風情だが、彼女もまた、至極美しい天使だ。
その威容に、角を下げる。
「……迷惑をかけた。天使どのらから見たら、我輩はさぞや滑稽な獣であったことだろう」
せっかくの会合も邪魔をすることになって済まなかった。そう言うと、小柄な女天使は朗らかに笑った。
「はは、本当に潔い。バラクが惚れる気性ってのもわかる気がするわ。迷惑なんざ欠片も思ってないから気にしないで。むしろ、わたしもあの時イオフィを心の中でぶん殴ってたから」
滅多なことを言う。彼は、彼女より上席ではなかったのか。
それが視線に顕れてしまったのか、濃紺の双眸が笑いではないものを含んだ。
「ここだけの話、あいつとわたしらとそれからキュリス、天使で言うと大体同期なんだ。昔っからの腐れ縁、人間風に言うなら幼馴染ってやつ」
生まれた時は低位天使だった彼女らと違って、大天使と主天使は生まれついての高位天使なのだという。大天使どのは我が友の気性同様お人よしで生真面目、ゆえに仲良く出来てはいる。しかし、主天使どのは生まれ持った霊力同様に気性も計り知れないところがあり、とっつきにくいのだと。
「あいつが頭いいことは認めるけどさ、合理的すぎてたまについてけないんだ。今でこそ出世して位も実力も文句無いほどだけど、昔は本当に孤立してたんだよ。あいつの考えてることわかるのって、キュリスぐらいじゃないかな」
有能なものは有能なりの苦労があるということか。
「まー今回はあなたが賢明で穏やかな気性だったってのが救いだった。だいたい、試すためとはいえ、あんな言葉を家族を失ったばかりの若者にぶつけるってのが気に入らない。デュナ爺もデュナ爺だよ、あんな悪ノリするような真似してさ。あなたが怒るのは当然だ」
濃紺の瞳は穏やかながら底に静かな炎がある。彼女は、達観しているように見えてその実とても熱いものを持っているのだろう。
「気遣い、痛み入る。けれど、我輩はこれで良かったと思っている。主天使どのらがけしかけてくれたお陰で、おのれの真なる未熟さを自覚できたゆえ」
「ッか~本当にあなたってイヴァは、なんというか……まあいいや」
白銀の短髪を軽くかきあげ、小柄な天使はこちらを見上げた。濃い色をした深き双眸が、柔らかに光る。
「過程はアレだけど、得たものは大きかったみたいだね。それがわたしらにとっても救いだよ」
「うむ」
「ありがとうね、緑のイヴァ。そして、頑張れ。バラクの言ったことは一部を除き、わたし達みんなの思いだ」
『力の限り手助けすると誓おう』
「――天使の援助が得られるならば、これほど心強いことは無い」
感謝の念を込めて言うと、能天使が笑みを深くする。
「任せといて。……で、ところで今更だけどさ」
「うむ?」
濃紺の視線が、訝しげな光を帯び我輩の身体に注がれる。
「あなたの身体、すごいことになってるけどこれでいいの?」
「……」
「……」
角を除き全身に分厚く塗りたくられた薬が、固まりかけてごわごわと体毛を引き攣らせていた。鏡や水面を覗かずとも、凄まじいことになっているのが察せられる。はっきり言って、今の姿は同族には見せられない。鬣を刈られたようになった姿など、特に雌には。
「……この膏薬は、どこかで洗い落とせないものだろうか」
「さあ」
苦笑いをしながら小柄な女天使は部屋の扉を開けた。すぐ外で茶葉を片手にそわそわと待っている彼女の相棒を招き入れるために。
◇ ◆ ◇
「身体の具合はもうよろしいのですか」
夏の光まとう天使が部屋を訪れた際、我輩はなんとか全身の軟膏をすり落とそうと必死だった。
「平気だ。大天使どのにも迷惑をかけたな」
「いいえ、滅相もありません。ところで手伝いましょうか」
ふるふると頭を振りこちらに歩み寄る彼女に、慌てる。今の我輩にはなんとなく近寄ってもらいたくない。特に、二本足とはいえ大天使どのは雌だし。
「いや、遠慮する。おのれで出来るゆえ」
「そうですか」
能天使どのに聞いて部屋の片隅に雑用がための拭き布を発見、それを柱に巻きつけ、ごしごしと体表をこすりつけている最中なのだ。ちなみに権天使どのは率先して手伝おうと申し出てくれたが、丁重に辞退した。本来、我が一族ならび天の獣は他種族に触れられることを厭うのだ。我が友といるとつい忘れそうになるが。
「何やってるの、せっかく俺が塗ってあげたのに」
その友はというと、大天使どのの背後からひょいと顔を覗かせ眉を顰めた。
「しかし我が友、これでは我輩は外を出歩けない」
「数時間ぐらいじっとしてればいいじゃない、打ち身が完全に引いてから落とせばいいんだよ」
「そうは言っても……」
ごにょごにょと口ごもりながら、大天使どのと能天使どのを交互に見てしまう。ふと、顰められていた友の眉が真っ直ぐになり、替わりに晴天の瞳が半眼になった。
「―――まさかとは思うけど。君、キュリス様とシャティ様を気にしてる? いきなり女性の視線を意識してるわけ? なに突然色気づいてるの??」
正直、今までに無いくらい我が友が怖い。
「あ、……私は気にしませんよ、緑のイヴァ」
「うん、わたしもね。今の薬液塗れだって不可抗力だし」
女天使らの言葉に、ますます縮こまる。これでは我輩が軟派もののようではないか。
(いかん、我輩はかのような浮ついた気持ちで身だしなみを整えようとしているわけでない、ただ単にこの姿のまま同族に逢うのはまずいと、特に雌には不快な思いをさせてしまうと感じただけであり……)
脳内でだらだらと言い訳を組み立てていた我輩だったが、沈黙がまずかったらしく、場を持たせるために発された大天使どのの世辞が、これまた空気を悪化させた。
「そうです、貴方はどのような姿でも素敵ですし」
ぴき、と場が凍る。
「「ふ―――――ん……」」
友の声はわかる。しかし、それに重なるよう、響く新たな男の声は一体。
「もうすっかり具合はいいようだね緑のイヴァ。ならとっとと出て行ったらどうかな??」
友の背後から更に現れた姿に、柄にも無く卒倒したくなった。我輩を打ち据えたときより数百倍は殺気を込め睨んでくる、かの主天使どのだったからだ。
広間にいたときより圧倒的に感じる冷気が、不可解だ。
(我が友の冷気はわかるとしても、なぜ、主天使どのまでそうなる必要があるのだ)
「心配して損した。もうすっかり元気じゃないか。べたべたの薬液も凄く似合ってるよ」
「ですよね、もういっそこの格好のまま過ごせばいいんですよ」
だからどうして、いきなり同調するように攻撃、いや口撃をしてくるのだろう。彼らは広間で見かけた時はそんなに関わりがあるようにも、まして気が合うようにも見えなかったのに。
「鬣がぺったりした姿なんて、きっと歓迎されるはずだよ、特に雌に。良かったね」
「どんな姿でも素敵なんて言われちゃー男前冥利に尽きますものね」
「まったくだ」
「まったくですよ」
半眼のうえに、突き刺さるような言葉と棒読み口調は実に怖いものなのだ。それを知った。
「イオフィ、それにエルも、落ち着いて下さい。いきなりなぜ怒っているのですか」
大天使どのが言いたいことを代弁してくれる。彼女もかなり戸惑っているようだ。しかし重ねられたふたつの視線に圧倒されたかのように沈黙する。階級も姿も異なるのにふたりの男天使は同じ表情をしていた。にっこりと口の端を上げながら、視線は笑っていない。
「僕が怒ってる? 気のせいじゃない、キュリス」
「俺は怒ってなどいませんよ、キュリス様」
いや、怒っているだろう。
ふたりを除くその場全員の思いが、ひとつになった瞬間でもあった。
「若いってええのう」
最後に待合室にやって来た老天使が、ひとりだけわかったような顔で呟いていた。広間にいたときと違い、心から愉しんでいるかのようににやにやとしながら。
「別に僕は怒ってないから、ここ数百年僕にも言ってないようなお世辞を他の男に言ったからって怒ってないから」
「俺だって怒ってませんよ、キュリス様が素敵だと感じられたのですから素敵なのでしょう。我が友は確かにかっこいいイヴァですからね」
「二人とも……」
半眼になっている我が友と主天使どの、彼らに挟まれた大天使どのがげんなりとしている。
「あはは……キュリスがんばれ」
「キュリスエルも大変だな。使役はともかく、昔からイオフィエルにあのように執着されていい迷惑だろう」
「それバラクに言われたくないわー」
「ふははは、確かにのう」
それを見つめる能天使どのは苦笑い気味、権天使どのは腕を組んで嘆息、力天使どのはにやにやとして、三人の天使は皆一様に悟ったような表情を浮かべていた。
不思議なことに空気は和やかでもないのに、なぜか落ち着く光景でもあった。きっとこれが、広間では見えなかったもうひとつの彼らの姿なのだろう。
そしてそれは、彼らだけのものだ。他のものと比べたり、重ねたりする必要は、皆目見当たらない。
ふと。
身のうちにあったものに、風が通ったような気がした。
凝り固まっていた郷愁と悔恨。団欒の光景を見るたび、募っていったもの。それが今、自然な形で認められたような気がした。
(そうだ。これが制圧ではなく、制御)
感情をおさえることではなく、御すること。
感じているすべてを受け入れることは無理でも、うまく認める術。鈍重にはならない。なれないだろうことを、認める理性。
(これが、第一歩なのだ)
そのことを感じ取れた。それだけで、ここに来た価値があった。
心からそう思えたとき、背の疼きが変わったような気がした。
じくりじくりという痛みから、うずうずという高揚へ。
※イヴァの鬣=容貌なので、彼らの身だしなみや外見的な特徴やらで真っ先にあげられる。同族同士での脚以外の褒め言葉として出てくる率が高い。
※例:「普通の成獣以上の豊かな鬣⇒平均以上のルックス」「あの雌、鬣の毛並みいいな⇒あのコ超かわいい」「彼は鬣に凄く艶があるよね⇒あいつすげえイケメン」などなど
※鬣ぺったりor刈られたような外見⇒パンツ一丁ぐらい恥ずかしい
※ちなみに水は大抵弾く。粘度のあるものがぺったりいってしまうらしい。
※低位天使、つまり「使役」は、霊力を簡単に出せない高位以上天使の手足となるべく数多く存在する。彼らの関係は「主従」であり「上司部下」であり「親子」である。個体差はあるが、大概が主に似た性質になるらしい。変わらないのは、使役が主に抱く生涯の敬愛と思慕である。