二章・序
荒野に、一頭と一人は立っていた。
びょうびょうと激しく吹きぬける風が、耳元から僅かな温もりもさらっていく。
「―――あんたメチャクチャなのよ」
そんな中で声を張り上げるのは、背に黒い翼を持つ小柄な天使だ。中層にて初めて逢ったときと異なるのは、その髪の長さ。晴れ渡った秋の空を思い起こさせる双眸も、記憶に残る幼い風ではなく、やや大人びて釣り上がっている。
「いーい? あんたには確かに東の滝つぼまでお使いを頼んだ。で、その滝つぼってのは大概の天使なら五日、ふつーのイヴァの脚でも三日はかかんの。そこらへん考慮して、食料たらふく持たせたでしょうが。あんたの好きな蜜スグリとか霊梓の果汁とか色々奮発したの、わかってる?」
黒い翼が強風にあおられ、表面の羽が逆立つ。それを鬱陶しげに直しながら、風の音に負けずと今や少女ではない天使の女は大声をあげた。
「なのに、一日。たった一日って!!」
甲高い声が、我輩の前足あたりで跳ね返る。なにせ、体高差があるのだ。
「しかも途中迷って引き返して道のりを聞きなおして、用件済ませてアレコレも済ませて帰ってきた時間も含めて一日!?! ふざけんなっ」
「…………済まぬ?」
彼女の性格と口調から察するに、理不尽ではあるが大人しく謝罪すべきなのだろう。しかし黒き天使の理不尽な怒りは止まない。
「なんで謝んのよしかも疑問形で!」
きいいっと歯軋りしながらこちらを見上げる、秋の晴天。新たな強風に、彼女の銀髪があおられ波打った。この夜空の星の色をした髪はだいぶ伸び、腰に届くほどになっている。顔立ちも、少女のものではなくなった。しかし、彼女の身長自体は年月と髪の長さにあまり比例しなかった。今やだいぶ離れた目線を精一杯合わすが如く身をそらせ、反り返る勢いで天使の女はこちらをにらみつける。
今や完全に成獣となった、我輩を。
「あんたの変態的脚力のおかげで、」
すうっと息が吸い込まれた。
「おかげで滝つぼに棲む妖精のお婆ちゃん大喜びよ!! 足が痛くて動けないのをあと三日我慢するつもりが半日足らずで済んで超らっきー、届いた薬も塗ってもらった挙句、逞しいイヴァの背に跨って散歩も楽しめたうえに手の届かない果物採集してくれて、トドメは特製ジャム作りのお手伝いまでしてくれただって? なんでその不器用そうな鼻づらで器用な慈善事業こなしてんのどっかのまっちろ天使にまっちろ加減も移されたか!あ? しかもろくに補給もしなかったせいで食料はなんも消費されてない――あり得ん。出発する前のあたしの気遣いを返せッそいでもってちったぁズルも覚えろこのお人……ケモノよし!!!」
「……」
どうしろと。
「とにかく!」
まくし立てたあと、黒き天使はぎんっとこちらをねめつけた。その手にかの老婆より頂いたジャム入り瓶と彼女からの手紙を握りしめながら。
「あんたはいい加減、おのれの脚がどんだけイカれてるかってのを自覚しな」
彼女なりに褒めてはいるのだろうが、判りにくい上に使用する言葉とその形相は正直よろしくない。けれど彼女が苛々としているのがわかったので、水を差さぬよう頷いた。
ふんと小さな鼻を鳴らし、銀髪の天使は手紙に目線を走らせ、至極つまらなそうな口調で言う。
「あと、お婆ちゃんがまた遊びにきてくれってサ。たいそう世話になったから、ハンサムな緑のイヴァにくれぐれもよろしくデスッテヨカッタワネー」
「うむ、承知した。……ところではんさむとはなんだ?」
凪ぎかけていた天使の怒りがまた噴火した。
「――ッの野郎、もう知らなくていいからどっか行け! 今日はこれで終了!!」
文字通り蹴りだされ、我輩は荒野をあとにする。まあ彼女とのやり取りは常にこのようなものだ。
渾身の力で蹴られた臀部……よりだいぶ下、痛みはおろか衝撃すらまったく無いのでなんとも思わない。なにせ彼女は非力に過ぎるし蹴り上げる足が尻まで届かない、逆に、むこうに衝撃が跳ね返らぬよう立ち回るのがこのところ大変だ。
ほんの少し擬視感を覚えた。何年か前に白き天使が同じような目に遭っていたような。いや、彼は自ら痛みを覚えるように食らっていたか。器用なうえに物好きだな、我が友は。
我輩の身体が完全に成獣となってから軽く七十年は経つが、体高がかなり離れた今、黒き天使の眼光が格段に厳しくなった。成獣となったものに甘やかしは確かに不要だが、それにしても彼女個人からの風当たりが強すぎる。いや、今吹かれているものではなく。
華奢な体躯を精一杯反らし、至極、忌々しげに睨み付けてきた秋空の瞳を思い出す。口調はともかく、小動物が身の丈に合わない相手に威嚇しているような風情だった。
(彼女は単に、自分よりでかいものが気に入らないだけなのかもしれない)
当たらずとも遠からずのような気がした。まあ、実際に口に出したら今度は翼で飛び上がり、鼻づらに一発入れられるかもしれないので黙っておこう。
びゅおうと吹き荒れる強風に、耳を竦ませる。だいぶ豊かになった深緑の鬣が、風になぶられて宙に揺れ動く様が視界に映った。成獣となってますます目立つようになった箇所のひとつだ。あれから群れ以外の同族にも何頭か出逢ったが、皆一様に我が鬣を褒めてくれる。特に雌からの賞賛が多いのは嬉しい。
ところではんさむとはどういった意味なのだろう。それなりに生きてきたが、未だ我輩には知らない言葉が多い。文脈からして悪い形容ではなかったようだが。
(あとで誰かに聞こう)
かぽかぽと荒野を境目に向かって歩きながらそう考える。ここ最近で、だいぶ知り合いも増えた。先ほどの女や我が友だけではなく他の天使とも数多く知り合うようになり、また同族だけではない獣とも幾頭かと渡り合った。
それは決して友好的なものだけではない、時に命のやり取りもし合うほど、緊張感に満ちた関係もある。しかれど、すべてをくるめ我輩の経験が糧となっている。
しかし、まだ足りぬ。
世界は、かのように広いのだ。まだ、我が決意たる目標に近づいているどころか、目当ての場所にすら到達していない。
(人界へは、まだ行けぬ)
我が友の家から発ってから、すでに長き歳月が流れていた。
どの程度なのかは数えるのもやめたほどだ。少なくとも、十年の節目を十回以上、繰り返したはずである。
今、我輩は天の上層と中層を行ったり来たりする生活をしている。冒頭のように、黒き天使や他の天使及び精霊族に頼まれごとをされ、それをちょくちょくとこなしながら。
なぜそういうことになったのか、どうしてまだ人界に行くことが出来ていないのか、理由を説明するには、ことの始まりまで時を遡る必要がある。
我輩が無力を痛感した、あの時まで。