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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第十章
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十章・序


 瑞々しい二つの新緑が、まばたきもせず一方向を見つめている。少しの時間の後、やっと睫毛を翻した。

 近づいてくる風と光の気配。強張っていた小さな面だが、見る間に緊張が解け明るいものが宿っていく。その表情は喜びと一口に言うより、安堵めいたものが大きい。

 晩夏の午後に相応しき風が、場にあったものを舞い上がらせた。身を覆っていた光が解かれ、かのものが姿を現す。丈夫な四肢、角度によって色を変える滑らかな体表、樹木のような二本角、そして温度の高い炎のように宙に燃え立つ、蒼色の鬣。

 長く豊かなその隙間から覗く同色の瞳が、優しげな眼差しを寄越した。

「ただいま、ワカバ」

「っ」

 身を乗り出すようにしていた場所から飛び降り、なんの反動も感じさせない軽やかな身のこなしで二本の細脚は地面を蹴った。ふぅわり、と遅れてなびく長い髪。豊かに波打つそれは、瞳と同じ若葉のいろ。

「おかえりなさい……!」

 新緑を華やかにまとった少女はその獣に駆け寄り、一度我に還ったかのように立ち止まる。真面目な表情で、じっと新緑に映るものを見つめて。

「怪我してないよね」

「ああ」

「他に、なにもされていない? ひどいこと言われたりとか、……」

「大丈夫だ」

「ホントにホント? また我慢なんかしてたら、承知しないんだから」

「本当だ。――そんなに触られては、くしゃみが出る」

 白く細い手指が、まるで確かめるかのように獣の鼻づらを触る。くすぐったげに低い笑い声をあげる彼を見つめ、彼女はもう一度安堵の笑みを浮かべた。

「よかった」

 そして飛びつくように両腕を獣の頭部にまわし、顔を寄せた。ふわん、と淡い緑が涼やかな蒼に受け止められる。すり、と擦り付けられる角に応えるよう、可憐な唇を蒼い鬣に埋めようとし、

「それはやめておいてくれ」

 当の獣に、ひょいっと飛び退くよう距離を置かれた。

「え……」

 親愛の挨拶をいきなりかわされた少女の顔が、がっかりしたものになる。蒼い獣は溜息をつくよう鼻を鳴らし、彼女に説明した。

「俺としては嬉しいが、今の状況では遠慮したい」

「いまのじょうきょう?」

「後ろで一部始終を眺めているお前のつがいに、角で突き殺されたくはない」

 そこで初めて、ワカバはくるりとこちらを振り向いた。視線を我輩と通わせ、新緑の麗しい瞳をぱちくりと瞬かせる。

「え、リョク、いつの間にそこにいたの」

「ずっといた。ワカバが三時の茶の時間を中断し、いきなり家屋の上によじ登り、そこから飛び降りて蒼のに駆け寄るまでずっと見ていた」

 ちなみに我輩の手にはまだ茶請けの皿と中身の入った茶器がある。

「ご、ごめん、せっかくリョクが作ってくれたお菓子食べてる途中だったのに、」

「我輩は特段、腹は立てていない」

 つがいに狭量な雄だと思われるのは心外だ。我輩は人型の表情筋を動かし、口角を上げて見せた。この表情をすると騎者どのには「目が笑ってないお前の笑顔それはこええんだよ」と言われるが。

「蒼のが帰還したのは喜ばしきことだ。ゆえに、ワカバが我輩の製作したぱいを口に運ぶ前に皿に戻し席を立ったとて、そこに腹を立てる道理など無い」

「ごめんっ」

「あー……すまなかった、緑の」

 手を合わせて頭を下げるワカバに続き、なぜか蒼のが謝ってきた。

「蒼のが謝る必要は無い。つがいとの憩いのひとときのさなか、ヨクゾカエッテキタ」

「棒読みで嫌味を放つとは、緑のも人界に適応してきたな……」

 声音に苦笑の色を載せつつ、蒼のはふるりとかぶりを振った。我輩はそこで初めて気付く。伏せられた蒼眼、そこに在るものが今朝方と変わっていることを。しっかり霊視をしないとわからないが、感じる霊気も若干強くなっている。

(騎者が傍にいないというのに)

「ねえリョク、機嫌直して。今から仕切りなおしでいい?」

 胸中に浮かんだ疑問は、横合いから発せられた可憐な声にかき消された。小首を傾げながら見上げてくる我がつがいはまこと、人型であっても愛らしい。自然と作り笑いが消え、熱の篭った本物の笑みになるのが自分でわかる。

「わたし、リョクの蜜スグリパイ皆で一緒に食べたい。アオも一緒でいいでしょう?」

「……うむ」

 ワカバは蒼のを「アオ」と呼ぶことにしたようだ。我輩リョクとさほど差の無い呼称のような気がして複雑だが、これも人界育ちゆえの親愛の示し方なのだ。ワカバ本人がそう呼びたいなら仕方ない(と己に言い聞かせている)。

 色々と複雑な感情を押し隠した我輩に頬を染めて笑い返し、愛するつがいは身を返した。

「じゃあ、準備してくるから! アオも着替えといてね!」



 春の若草が去った空間はどこか、物寂しい。傍に昔なじみの涼やかな姿があるというのに、麒麟のこころはどこまでも番う相手を考える。

「――いい仔だな」

 ワカバが屋内に入っていったあと、蒼のはぽつりと呟いた。まるで我輩の胸中を察したかのように、彼女の話題を振ってくれる。

「人界で生まれ、そこで育ったと聞いた。母御から乳を得ず天の糧を得ることすらなく育ったというのに、彼女自身は本当に健やかなことだ」

「うむ。ワカバの育て親は人間だ。糧も人界にあるもののみだったらしい」

「体格が小さく、少々霊力が足りていないのはそのせいか」

「……うむ」

 ワカバと出逢った時に抱いた客観的な感想は、やはり間違っていなかった。つがいとは別の同族の、そして同じく騎者を得た騎獣の感覚でも、あの身体はひ弱に過ぎると感じたらしい。

「霊気薄い人界、しかも成長期に摂るべき栄養が不十分であった結果か……しかし四肢と精神が健全に育ったことは、霊気が劣悪な割りに情操環境が良かったことを示している」

「うむ。ワカバの育て親はまこと出来た御仁だったようだ。人間ゆえ命数短く、あいまみえることがなかったのは残念だが。かのひとの孫がワカバの騎者であったことが僥倖であり、救いでもあった」

「そうだな。巡り合わせ自体、稀に見る運の強さだ」

「運か……」

「その結論では不服そうだな」

「我らが始祖のお導きというより、ワカバの母御の尽力が大きいかと。我輩はそう考えたい」

 今改めて考えてもそれに尽きる。あの橙色の雌が絶体絶命の状況下でも我が仔の未来を諦めなかったからこそ、奇跡の出逢いは果たされたのだ。

「ワカバが人界で生きるすべを得られたのは、やはり母御のお陰だ。彼女の決死の行動、引いては彼女の『脚』があったこそ妙なる縁を掴み取り、僥倖に辿り着いたのだ」

 そう、まるで針の穴よりも小さい界と界との通り道を見逃さず確保し、しっかりと自身の蹄跡をつけたかのように。

 あの状況下で、彼女はそこまでのことを為しえた。

(母親とは、あれほど毅いものなのか)

 遠く、深緑の記憶が脳裏を掠める。視界の隅に躍る髪、その色を受け継がせ最期の瞬間までこちらを護ってくれた巨きく豊かな存在。

 横に在る蒼色の雄も懐かしむような光を蒼眼に載せたあと、ゆっくりと続ける。

「……そうだな。『強運は天命にあらず、足掻くものに訪れる』『個の蹄跡は他に倣わず』といったところか……」

「懐かしいな」

 一族の懐かしい諺を口にした幼馴染に笑い返し、我輩は手にしていた茶器から茶を啜る。ワカバが用意してくれた茶葉は香り高い。

「やはり、我らの最大の誇りであり最高の力は『脚』だ。ワカバの母御も、ワカバ本獣も、身を張り一族の力を証明してくれた。そういうことなのだろう」

「ああ」

 この地方特有の冷風が、我輩らの鼻先をくすぐった。二本足と四本足、人と獣。異なる姿かたちをもつ我らがその実、何より近く親しい同族であるなど、一見では判別つかぬであろう。

「『脚』、か……」

「……」

 蒼のの呟きから以降、しばらく沈黙が訪れる。異なる姿の同じ源流持つ二体は、各々の視線の位置から空を見上げた。どうしてだか考えていることは同じだと、そう確信できた。それは言の葉では如何とも表現し難い、明雑織り交じった心地であった。

 近いもので例えるのなら憧憬と哀悼、そして羨望と嫉妬。

(死に様は痛ましくとも、示したものはなんと華々しいことか)

 かの橙の雌がもし生きたまま天に戻れたとしたら、一つの群れどころか一族総出で迎えられ讃えられるだろう。そして潰えることない名誉を得、末孫の代を越えて尊敬される存在となったであろう。比類無き、例の称号と共に。

 確信が生まれるごと、触発されたかのように心身が高揚する。強き脚の一族として生まれた時から心身の内に在る炎が、静かに燃え立つ。それは果てない道なれど、他の何より確かな生涯の導だ。目指すべき、最高の褒め言葉。


(『き脚』となりたい)


 それは、「イヴァ」の雄すべてが抱く野望である。




 そろそろ家屋内で湯が沸騰し始める頃合い。あまり支度が遅いと、つがいの機嫌も下降してしまう。ただ、その前に確認しておきたいことがあった。

 我輩はすっかり冷めた茶を飲み干してのち、蒼のに訊く。なんでもないことのように。


「――して、蒼の。騎者とは、決着がついたか」


 蒼い鬣が風でないものにふるりと揺れた。こちらを見ず、彼は答える。

「ああ。時間はかかったが、なんとか」

「そうか」

 残りの茶を呷り、我輩は空になった器を身体の横に下げた。もう一方の片手で茶請けの載せてある皿を持ち上げる。採ってきたばかりの蜜スグリの小山から一つ摘み、残りを差し出す。人型で製作した加工甘味よりこれを先に分け与えたかったので、こうして持って来たのだ。

 同族の雄から雄への糧の分譲は友誼の証であり、感謝の他、労いの意も持つ。蒼のは頭部を寄せ、それを一口で含み、もぐもぐと噛んで飲み込んだ。

「甘いな」

「うむ」

 一つの試練を乗り越えたあとの糧は、甘いものだと。そんなことを続けつつ、我輩は空の器を二つ下げて遠くの山々を見つめた。隣に視線を移すことはしなかった。

 今はただ、最後の草熱れ宿す緑の深さに見入る。もうすぐ、人界でひとつの季節が終わるのだと。その感慨に浸る。

「こんなに甘い糧を、俺は食べたことがない」

 なので獣の蒼眼から澄んだ泪がほろほろと流れていても、気には留めない。

「……甘い。甘すぎて、胸がつまるよ」

「そうか」

 ほろほろと。零れ落ちたものは涼やかな風に吹き飛ばされ、遠く離れた土にしみこんでいった。


△ △ △


 一つの大儀が終わり、一つの苦難が終着を迎えて。まだやるべきことは残っているが、我輩らの長い旅もようやく折り返しとなった。

 人界で得られるだけのものを得たあとの行動は決まっている。最初から、我らが在るべき場所はここではないのだから。


(天に、還ろう)


 つがいを伴って。大切な仲間かぞくと共に。




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