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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第九章
103/127

挿入話・ある「私」の顛末

※虐待・拷問・自死などの不快な描写あり

※リョク視点の本編とは大きく外れた補足的裏話なので、長くて暗いの苦手な方は読み飛ばしてOKです


 幸福など、生きている限りは訪れない。


 さして短い時を生きたとはいえない半生ながら、今でも幼少時の記憶を部分的に保持している。象徴的な、五つの色彩と共に。

最古のものは「白」だ。自分の周囲を取り囲む「奴ら」の姿。壁のようにそびえ立ち、塀の如く取り囲み、見下ろしてくる幾つもの視線。そのどれもが白い上着を纏い、白い手袋をはめていた。高く大きく無慈悲な薄白、それが始まりの牢獄。

 次いでの記憶は「黒」である。ややあって放り込まれた、本物の檻の中。光のひとすじも差し込まないそこに長い間閉じ込められた。排泄桶は無く敷布すら無い硬く冷たい木床の上、布切れ一枚で寝起きする毎日。理由を尋ねる問い、解放を望む怒号、わずかな要望を伝える懇願はすべて無視され、それは哀願に変わっても同じことであった。会話らしき会話が出来ず、言葉はおろか感情をも忘れかけた。昼は投げ与えられる屑野菜を貪り、夜は錆びた鉄管の結露を舐め、みずからの垂れ流した糞尿にまみれながらやっと呼吸をしていた。感覚のいくつかを失った澱黒、それが最初に識った絶望の世界。

 そして次なるは「青」。突如世界は開かれた。檻から連れ出された先は清涼な水と清浄な寝床、そしてまともな食事のある場所。幾年も闇の中で過ごした五感はしばしその広さ眩さに慣れず、慣れたのちも少々の弊害を残した。ただ嗅覚と視覚の一部こそ不完全だったが元来丈夫であったものはその本分を顕し、体力は瞬く間に復調する。匂いのしない飯を齧りながら見上げた空の爽青こそ、生まれて初めて識り得た光明だった。

 光明が潰えたのは次に識った「赤」のせいだ。おぞましい笑みを浮かべた者に、代わる代わる犯された。嗤い声と臭い体液が浴びせられ、抵抗を示せば鉄鞭で殴られた。朱に染まった網膜は終ぞ晴れること無く、繰り返される激痛も絶えることなく、消えぬ傷となって身体の芯に刻み込まれる。尊厳という尊厳を全て噛み砕いた忌まわしきくれない、今も忘れえぬ棘付きの枷。

 最後に到達したのは「蒼」。枷を破壊し、這いながら前進し、進んだ先に出逢ったもの。肉片と血反吐に汚れた鏡に映った、一人の存在。それは尊厳を取り戻した己自身だった。虚像に過ぎなかった光明を蹴り倒し、狭い世界を踏み破り、心身を痛めつけるものを全て自力で突破したあかし。こちらを見据えるこのいろこそ、世界で唯一の真実だったのだ。

 存在は「私」となった。その瞬間生まれた「私」は悟った。この世で頼れるものは、おのれ以外に無い。信じるべきものも、願うべきものも、すべて自分自身。他者など信用するな。世界に可能性など見出すな。与えられた光明は全てまやかしだ。伸ばされた手はおのれを陥れようとする罠だ。向けられた視線は、近づく温度は、すべてが血塗られた枷だ。

 そうだ、そうだったのだ。

 歪んだ鏡の中、穢れにまみれた私は嗤った。そうだ、その通り、どうして今まで気が付かなかったのだろう。


 世界は、生きている限り地獄であるのだ。


 私より幸福な者など……居ていいはずがない。



◆ ◆ ◆


「ディチナーレ家はエルフ興盛後期において最も権勢を誇った名家であり、武人系の当主は代々『騎士』の称号を無条件で得るほどに王宮からの信頼は厚く、名だたる者らが多く輩出された。しかしその実態は古代より続く人身売買の大本であり違法物品市の中締め、そして人工純エルフの研究組織でもあったと……。まったく、限りなく黒に近い灰色の権力者ってやつね」


 手にした分厚い資料を捲りつつ、紅唇は歪んだ弧を描く。独特の芳香と煙とが、彼女の手元から室内に漂っていた。

「一応ロサにも調べ直してもらったけど、大体変わらない感じ。当初の印象そのまんま、よ」

 上物の葉巻を吸いつつ喋っているのは、特徴的な上着を纏った女である。その袂よりも真っ白な肌、対照的に漆黒の巻き毛。零れたひとすじを耳にかける仕草と脚を組みかえる動作は何気ないのに艶やかだ。繊細ながら瞼に色気を湛えた青い瞳。高く通った鼻梁は形良く、ふっくらとした唇に引かれた色濃い紅が印象的である。同色の爪先は手際よく大量の書物を選り分けていく。

「つっまんないったら。なんの捻りも無い悪役じゃない、こいつら」

 ふん、と鼻で嗤う表情がぞくりとするほど美しい。退廃と清潔、相反するものが違和感無く混じり合い凄みのある色気へと転換されている。その耳朶は細く大きめに尖り、容貌も含め全体的な雰囲気は只の人間と一線を画す。甘く掠れた声も、声量は大きくないにも関わらずよく通った。

 黒髪の隙間、耳飾りが揺れる。鎖の先に付いているものはとろりと光る蜜色の石。

「大体、『騎士の称号を代々無条件で得る』ってのが胡散臭いのよねえ。平民は気が遠くなるくらい面倒な行程を経てからでなきゃ『騎士』になれないっていうのに、信用のある貴族だからってだけで更なる特権自動取得なんて、冷静に考えてみなくても馬鹿げてるわぁ。よく暴動が起きなかったこと」

「フラウムは本当に『騎士』が好きだの」

 彼女の正面に座っている者が声をあげる。額に地味な色の布を巻いた細身の老女である。彼女の耳も容姿も、通常の人間と変わりなく凡庸なものだ。ただ、ぴんとした背筋と隙の無い物腰が普通の年配者と違う点であり、非凡な点だった。

 親しみを込めた灰色の瞳が白衣の美女を見つめる。まるで自分と同年代以上の友人を眺めるように。

「さすがは大戦後に生まれた純エルフ様」

「その言い方イヤだって言ったでしょ、ラウス」

「ふふ」

「いじわる」

 老女を見返す妖麗な美貌が、少々こどもっぽい色を帯びた。皺の刻まれた目元で笑い返し、老女は続ける。

「そういやルフスも憤慨しとったの。『偉大な騎士の称号をこのような家の者に得させるなど馬鹿げている』と。戦後も『騎士』の威光は大きいと見える」

「当たり前でしょう」

 葉巻を指に挟み、ふっと吐かれる紫煙。

「身分階級、貧富差、そういうのを一瞬で飛び越えられる無敵の手形であり、武人実力の絶対的な証明。始祖王様の時代を識らないあたし達みたいなのにとって、唯一確かな尊敬対象なのよ。だからこそ馬鹿げた手段にその称号が使われたのがイラつくの。ま、これも時代的にしょうがないとも言えるのだけど」

「始祖王族絶対崇拝の世界で、単純ながら何より効果的な方法だからの」

「まあね」

 長い睫毛の視線が伏せられる。瞳とは違う色の耳飾りが黒の巻き毛に隠された。

「大方、王宮はそうでもしなきゃディチナーレ家を抑えておけなかったんでしょうね。古代からエルフ社会の闇を請け負う『名家』には、誰も逆らえないのよ。例えエルフ中枢機関のお偉いさんであってもね。あ、お偉いさんだからか」

 白衣の美女は艶めいた動きで脚を組みなおし、薄茶の葉巻から深く煙を吸った。ふうっと艶やかな口唇より紫煙が吐かれ、芳香が強くなる。

「そんな暗黒無双のディチナーレ家も血統上、逆らえないものが存在した……そう、我らが始祖王様。だからこそ王宮は『騎士』の称号を切り札にしたのよ。少なくとも、始祖王族を間に立たせておけばエルフは誰しも反逆しない。叛意を封じ、無法地帯の拡大を食い止め、そしてその稀少な研究技術を王宮のために『使わせる』ため、ディチナーレ家に代々『騎士』の称号を贈った……治安維持の一環としてね。実際、ディチナーレ家当主が『騎士』になり始めてから人工純エルフの研究は格段に進んだし、ハメを外した違法組織の幾つかが潰されてる。ただし」

「ただし、前時代的な手段がいつまで保つかの」

「そ。相互利益があったうちはまあまあ平穏だったみたいだけど、時代情勢は変わるもの。昔はその場凌ぎが通用したかもだけど、異種婚姻並び人事改革が進む社会意識下じゃあ、こーんな偏った権力統制が長続きするはずがないわ。どの世界でも、長く続いた選民意識が腐らなかった例は無いし」

 葉巻を離した真っ赤な唇が、またも歪んだ。したたるような色気に凄みが増す。

「結果、ディチナーレ家は社会信用を徐々に失い、焦るあまり『生体実験』という名のハメを外しすぎ、内側から瓦解……もとい、『実験体』にリベンジされて稀少な武器霊具を失い、実績もパアにされ騎士の称号も剥奪、貴族体制は実質崩壊。表面的にはざまあみろって感じ」

「ふむ。これが王宮の真の狙いだったのかの?」

「一部正解。でも内部は不正解。潰されたのは重要研究を任されていたとはいえ傍流の分家、前々から活動を縮小する計画は練ってたみたいだし、没落のかたちを取りつつ王都から財産けんきゅうしりょう持ち出して直系はトンズラしたみたいね。『実験体』の暴走ならび第一号の失敗は口実に過ぎなかったというわけ」

「やはり、そうか」

「ええ。悪の親玉が表舞台から消えることで王宮としては余計やりにくくなったみたい。ディチナーレ家の勢力減退には成功したけど実際、ディチナーレ本家はダメージ極小。一族の大半が戦乱を生き延びられたのが王都から離れたせいだってのも、時代的な皮肉よね」

「『騎士』の称号は蜘蛛の頭を縫いとめる効果もあったわけだの」

「そういうこと。社会の闇を請け負う組織は他にも無数にあるし、巣のトップを見失って収拾がつかなくなるのは逆にデメリット、仮にも『騎士』の称号を得た者の不祥事はまんま王宮へのバッシング材料にもなって……ディチナーレ家衰退の狙いはあっただろうだけど予測以上に引き際が鮮やかで、しかも『実験体』が元気良すぎて、王宮としても一連を纏めるのに手間取ったってのが事実でしょうね。時代遅れの馬鹿げた手法に始終頼った挙句がこのザマ。後の先さえも取れなかった策士ってのはただのマヌケよマヌケ」

 流れるような声調には、蔑みの響きがたっぷりとある。

「お偉いさんはどこの世界も揃ってそう。フン、『とうさま』抜きの王宮なんてただの頭でっかちの巣窟だってのに。見栄と体裁ばっかり気にかけるから、後で自分の首を絞めることになるのよ」

 誰かによく似た麗しい瞳が、その誰かを思って瞬く。それを見つめる老女の視線もまた、誰かを思っていた。

「我らが『父上』――もとい、王宮随一の策士に関わりをもたせなかったのも、王宮にとって落点だの」

「『とうさま』は敢えて関わらずにいたみたいだけどねー……人工エルフ製造に関わらなかった点は我ら組織にとっては不幸中の幸いだったけど、そのせいで『とうさま』が内乱の際に大怪我をしてしまった点はかなしいし、つくづく赦せないわ」

「今考えてもしょうがないことだがの」

「確かに、そうだけど。あー王宮の無能のせいでディチナーレ家の筋書き通りになったのが本当ムカつく」

「まあまあ、『父上』の御遺志も汲み取るべきだ」

「……わかってるわよ」

 葉巻を灰皿に置き、美しいエルフは美しい黒髪をかき上げた。湿った空気を払うように。

「ともかく、何も知らない本物の騎士が一部に介入してしまったくらいが正しいイレギュラーかしら」

 にやり、と老女が笑む。彼女の視線にも先ほどの空気は無かった。

「我らが『いとしご』の一家かの」

「ええ」

 くすくす、と笑い返しつつ、鮮やかな色爪の細い指が資料の一部を捲ってその文字をいとおしげに撫でる。

「まさか、あの方が最も真相に近づくなんて、王宮もディチナーレ家も思ってもみなかったでしょうね」

「称号の面目躍如といったところかの」

「結果的には、そうね。コソコソしようと思ってた奴ら一堂、呆気に取られたでしょうねえ。『うわ、何も言ってないのに勝手にやりあって勝手に解決しちまったよ』ってな感じで。あの方も王宮の不自然な態度は感じてらしたみたいだけど、敢えて追求しなかったみたいね。ほんっと、言い方は悪いけど下っ端ほど優秀なもんだから面倒が少ないわよねーエルフってのは」

「ほんに言い方が悪い。おぬしもエルフであろうに」

「自虐と言ったほうがいいかしら」

「流石は純エルフ様」

「自虐してるトコなのに追加攻撃しないでよ」

「ふふ」

 老女は腕を組み、親子どころか祖母孫ほどに歳が離れている外見の知己を見つめた。紅唇が尖り、細い指が黒髪を絡み取ってはくるくると巻きながら弄くっている。それは艶やかというより、どこか少女めいた仕草だ。彼女は本当に、容姿共々昔から変わらない。衰えない容色に羨みを感じることはあれど、妬みはもう湧かない。もう今の自分は、そういったものを通り越してしまった。

 長命種と短命種。生態と姿かたちは似ていても、彼らと自分達はどこまでも違う。過去、どのくらいの人間がこの煌びやかな存在を羨み、妬み、恐れ、畏まり、そして憧れたことだろう。まあ、実際に彼らと接することで消えるものもあり、新たに増える感情もあるのだが。

「何見てるのよ」

「いや、フラウムは相変わらず美しいと思って」

「殴るわよ」

「遠慮させてもらう。これでも90の老体だ」

「……ふん」

 そっぽを向きつつ、エルフの青い瞳にどこか寂しげな光が宿った。それに気付かない振りで柔らかく笑み、人間の灰色の瞳は瞬く。

「軽口はさておいて。情勢からして、王宮連中はヒヤヒヤもしただろうの」

「ええ。機密が洩れないか、稀少な騎獣の世話係がうっかり殺されてしまわないかってね」

 実際のところ老女より遥かに年長の美女は、口紅の付いた葉巻を灰皿に置く。するり、と指から離された巻き毛が宙になびいた。うっとりとした吐息が、わずかな煙と共に吐き出される。彼女の気性を知らぬ者なら勘違いしてしまいそうなほど、艶めいた表情だった。今更ながら組織に男がいなくて良かった、と老女は考える。もしいたのなら、この絶世の美女の一瞥だけで使いものにならなくなるだろう。

「機密云々はどうでもいいとして……偉大なあの方が紛い物にしいされるなんてあり得ないけど、後から聞いてみたら結構ギリギリだったみたいね。本当に良かった。風の精霊王に感謝だわあ。まあ、それもあの方の人徳なのだろうけど」

「まさに」

 うっとりと紡がれる声に相槌を打つ。彼女は「個人」に恋焦がれているわけではない。遠い世界の「英雄」に憧れているのだ。そしてそれは、自分も同じで。

「陳腐な纏め方しちゃえば、因果かしら」

「聖なる獣を無下に扱った罰が当たったわけだの」

「ええ。まさしく、最も相応しい応報がやってきたのよ」

 微笑み合うエルフと人間。種族も年齢も容姿も違えど、彼女らの思いは一つだった。


「「騎獣イヴァニシオンの鉄槌がね」」


 閉め切った屋内での喫煙、しかし天井に煙は溜まらず匂いも薄消えとなっている。




「……さて、そろそろ『入れ替え』の時間だの。私は持ち場に戻ろう」

「あら、手伝ってくれないの? ストレス発散出来るわよ~」

「悪趣味な冗談だの」

「『血灰の女将軍』が何言ってんの」

「古臭い称号を持ち出しおって」

「さっきの仕返しよ」

「これは一本じゃな。……ともかく、さっきも言ったろう、もう私は老体だと。気力はともかく、体力がもう保たんのよ。それに、この前新しいのが生まれたし……ボロ屑の顔よりは曾孫の顔のほうがよほど癒しになるからの。悪趣味な発散はフラウ先生に喜んでお譲りするよ」

「ふ~~ん。ま、無理には薦めないわ。赤ちゃんの前では精々無害なお婆ちゃんでいなさいな」

「そうするつもりさ」

「……善人ぶって。引退して家庭持ったら随分丸くなっちゃったわね」

「それほど赤ん坊はいいものさ。フラウも産めるうちにもう一度産んだらどうじゃ? エルフはいつ老けるかわからんからの。私のようにシワシワのヨボヨボになってからでは遅いぞ」

「うるさい、このエセお婆ちゃんが。大きなお世話よ」


 老女が自分の持ち場に戻っていったのち、白衣の美女は卓上に山と積まれた書類を片付けて葉巻の火をもみ消した。芳香の元が消えてのち、最後の煙も瞬時に掻き消える。通常の煙草であったなら有り得ない現象であったが、彼女はそれが当然といった動作で灰を処理する。さらさらと燃え滓を捨てる手に迷いは無いが、その麗しい瞳には先ほどの寂しげな光があった。そして知己には今更零せない、寂しげな独り言。

「……ホント、あっという間よね、人間の寿命ってのは」

 そんな表情も刹那のことである。ゴミを片付けてのち、白衣に包まれたしなやかな身体は高らかに踵を鳴らしながら部屋を出た。途中、ドアノブに掛けられていた細身の杖を手にとって。爪の先まで美しい手が、くるり、と跳ね上げるようにそれを回転させる。

「さてと。じゃあ早速いきますか」

 優美な形状のステッキをくるり、くるりと回しながら、優美な脚は廊下を歩く。足取りは軽やかで、なびく黒の巻き毛と白衣、鼻梁の通った横顔には鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌な色がある。やがて彼女は突き当たった壁の前で立ち止まり、片一方の手で杖を回しつつ、ぴたり、と先端を漆喰に当てた。無造作に、その一点を突く。現れた仕掛け扉を開け、白衣のエルフは壁の内側へと進む。灯りを取ってくるのを忘れたことにふと気付き、柳眉が顰められた。手灯が無くとも感覚を失わないとはいえ、暗闇が好きなわけではない。

 ぶつぶつと、知己への愚痴めいた独り言が洩れた。

「まったく、たった五十年ぽっちであそこまで軌道修正出来るなんて。逢った時はあたしに負けないくらいブッ壊れてたってのに。やっぱり人間って柔軟性があるのね」

 軽快ともとれる足音は、暗闇でいっそう響いた。背筋を伸ばし、踵が高くとも膝を曲げない足取りで、優美なエルフは優美に進む。場所が場所で無ければ観賞に値する歩き姿であった。――どんどん強くなってくる匂いと段々近づく気配を抜きにすれば。

「妬ましいったら」

 赤い唇が弧を描く。

「でも、まあ、確かに今のラウスは『血灰』じゃないわよね。なぁーんにも出来ない穏やかなお婆ちゃんぶってるのは笑えるけど、それも『いとしご』が増えた結果なら、仕方ないわ」

 手元も足下も見えにくい。しかし彼女は危うげ無く目当ての場所で立ち止まり、杖をまた一閃させた。艶光りするその軌跡は、もう一つの仕掛け扉を開錠させる。


ぎ、ぎ


 同時に灯りが点き、視界に光が差す。ただ、扉の向こうに現れたものは光明と程遠いものであった。「それ」を目の当たりにしても欠片も動揺すること無く、妖麗なエルフは嗤う。

「――『いとしご』のいないあたしは、精々今のうちに残酷な女王様を演じることにしましょうか」

 くるり、とその手元でステッキが翻った。蔓延する血の匂いと共に。



◆ ◆ ◆


 「霊具大戦」後に生まれたエルフの純粋種は、言うまでもなく稀な存在である。

 戦火を生き延びたエルフ自体が少ないうえ、一族が衰退を確定とした時点で、義務婚姻の意義は事実上無くなった。戦を引き起こした元凶はひとまず表舞台からは消えることが平和への近道であり、生き延びるに必死となった観念の前に血統への拘りなど塵芥の価値しか無い。まして興盛期においても出生率は芳しくなかった純粋種である。戦後、ばらばらに散った純粋種同士を引き合わせるのは草の根を掻き分けるよりも困難である上、次世代も確実に生まれる保証は無い。「霊具大戦」後、滅亡への歩みが加速するのも無理は無かった。


 だが、その衰退振りを逆手に取るやり方があったとしたら。

 歳若いエルフの純粋種、それが希少価値を更に高めるものだとしたら。

 ……その稀な「出生」を道具や手段に使う者が出始めたとしたら。


(この世は、地獄となる)

 カルヴァリオ=ノエ=ディチナーレは誰よりも、そのことを識っている。自身が当事者だからである。

 戦後に生まれた、数少ないエルフの純粋種。古代より由緒ある家名と血筋、かつて有った栄光に名声、富と権力を恋しがった単純な者らに「生まされ」誕生した武人エルフ。それがカルヴァリオだった。

 ただそれだけであるなら、不幸はなかった。血統保持のために生まれた純粋種は古代より数多く、親の愛無しにまっとうに育ったエルフなど腐るほどいる。長命種は短命種と異なる巡りで成長期を過ごし、膨大な年数をかけてゆっくりと自意識が発達する。まして身体が堅強な武人系、ある程度環境が確かであるなら一人でも健全に生きていけるだろう。環境が、確かであるのなら。

 カルヴァリオの不幸は、やはり時代であった。

ちょうど大戦が終わってのち、生き残った戦争元凶たるエルフがなんとしても生き延びようとしたその時代。彼らが取り入ろうとしたのはやはり、人界において最も繁殖力の強い人型種族――人間であった。かの種族は寿命こそ短いがとにかく繁殖が確実で、器は脆くも図太く適応力が高く、身体能力こそ低めだが総合的な手先の器用さは妖精に次ぐ。そして何より、大変欲望が強かった。人型種として最も近い類似性とわかりやすい欲望の強さに当時の文人エルフらは目をつけ、彼らの求めるものをチラつかせつつ体よく信用を得るため、ある悪習を復活させたのだ。

 悪習とは、人身売買である。エルフの赤子や子供を人間に「売り」報酬を得る行為。戦前おこなわれていたという身寄りの無い女エルフの闇取引、それが形を変え復活しただけの話だ。戦後生まれた純エルフは、それだけで希少価値が計り知れない。それを逆手にとり、彼らは自分達より力弱く幼い同胞を売った。「我々を受け入れるなら我々の叡智を差し上げる」という交換条件の証し、そして「決して害にならないことを誓う」証明として人間側に差し出された形ばかりの人質であり、生贄。それが当時生まれた純粋種の悲惨な運命であり、決して表沙汰にならない歴史の暗部だったのである。

 前述したが、生き延びるに必死となった観念の前に血統への拘りなど塵芥の価値しか無い。そして人間の欲望は強く、幅広く、時におぞましいものも含まれる。

 異種族に「売られた」カルヴァリオが経験したもの、それは地獄であった。カルヴァリオを「買った」人間らは彼を実験動物、もしくは奴隷としてしか見なかったのである。自分達より優れた長命種への妬みの他、いくさを巻き起こした元凶への憎しみや残虐な戦闘民族への恐怖、それらによる復讐の意も在ったのだろう。無機質な好奇と冷徹な興味の目で見られ、実際そのままの扱いをされた。おぞましい人間は嗜虐の興味と欲望に節操が無く、見目麗しいエルフの子供は生きながら嬲られ陵辱の限りを尽くされた。頑強な妖精の心身は死ぬことこそなかったが魂は粉砕されたも当然で、なまじ知能が高く矜持も殺しきれなかっただけに、被虐環境は到底耐え切れるものではなかった。

 ある時カルヴァリオは力を振り絞り、人間らのもとより逃走。物理的な地獄より抜け出すことに成功する。

 ただ。

 カルヴァリオにとって真の地獄とは、そこからが始まりだったのだ。


◆ ◆ ◆


ぱしゃんっ


 冷たい感覚と共に目が覚めた。顔に冷水をかけられるという古典的な手法で起こされたのだ。

「お目覚め?」

 目の前でにたり、と笑う唇。身体はとうに動かない。

「えっらそうに上から命令してた割には、ご本人の耐久性は低いこと」

 冷え切った体温は全身がずぶ濡れであること、衣服が切り裂かれその役割を為していないこと、そしてだいぶ血を失っていることなどによる。

「まあ独裁者なんてそんなものよね」

 温度が戻らないのは、関節から先を動かせないという理由も含まれる。筋骨を繋ぐ腱を四つ、絶たれているためだ。なのでいくら脳が動くことを命令しようと、末端が動くことはない。そして痛みが絶たれることも無い。

「保健室講座はまだまだこれからよー? 気絶しないでちょうだい」

 ついでに言うなら、目を瞑ることや耳を塞ぐことすら出来ない。視覚と聴覚神経組織はぎりぎりの部分で生かされてる。……筋力は潰されてるというのに。

「純エルフの実験体なんて手に入ることこの先も無いだろうからねえ。隅々まで使い倒してあ・げ・る」

 数分前まで喉を動かす筋力は有ったはずだが、今はそれが無い。支える骨も覚束ない。だというのに頭部が項垂れないのは、「代わりに」幾筋もの無機質な管が随所に差し入れられているせいである。四肢にも同様のものが巻き付き、まるで操り人形のように身体を吊っている。毛すじほど身を捩ろうものなら、延髄より「直接」激痛が走ることはわかっている。何度も味わったからだ。

 我ながら生きているのが不思議な状態で、揶揄めいた、神経に障る声を聴く。おぞましい、五つの色彩纏うそのすがたを見つめる。漆黒の髪、白い肌と歯、赤い唇、青色の瞳。

 鮮やかだ。滓のように消えかけた意識でも感じ取れるほど――感じ入ってしまうほどその色彩は鮮やかで、克明で、暴力的にまで華々しかった。

 そう感じることしか。

「もう動かせないだろうけどー……そろそろ指とか、要らないわよねえ?」

 現状を現状のまま把握することしか、今の自分は出来なかった。潰えたくとも、潰えることを赦さないものが身を縛っている。そしてそれらをどうにかする方法は、とうに無い。

 これは拷問ですらないのだ。

「あたしが非情だなんて、その足りない脳で考えちゃダメよ? だってこれは因果応報なんだから。これでもまだ不十分なくらいよ」

 これは、生きながらの処刑だ。皮をこそげるように痛みを与え、血の巡りを寸断しながらも断絶はせず、首骨まで鎌の刃を食い込ませ――それでも一思いに刎ねはせず、ひたすら矜持を殺していくのみの。

 それを為している当人は、刑罰と云う。ならば、そういうことなのだろう。そう本能的に納得してしまうほど、眼前の女は美しかった。腹立たしいほどに。残酷なほどに。

 視界に映る、尖った耳。その身に纏う、独特の空気。

「今まであんたがやってきたこと、その欠片でも受け取りなさいな。最高の惨めな思いと共にね」

 美しく残酷な処刑人は、どこまでも艶美に微笑んだ。その手の血に塗れた刃が、振り下ろされる――

 その瞬間。


ぎぃ


 光が、差した。ひとすじの。

 それは、


「―――待ってくれ」


 それはいつか見た、鏡にも似た――



 どの程度時間が経っただろう。

 次に薄目を開けたとき、映る世界は変わっていた。舞台は入れ替わったのだ。


 暗い部屋の中、椅子に座っていた。いや、座らされていた。

「……」

 しゅう、と蛇のような息が喉から洩れる。今はそれだけの感覚が戻ってきているらしい。口は塞がれておらず手足も自由で、傍にはほんのりと明るい照明ランプもあった。

「お目覚め?」

 馴染みの声がまた、かけられる。視線を上げると白い顔がこちらを見下ろしていた。細められた青い瞳、赤い唇。気を失う直前ぼろぼろのこちらを前に笑っていた美貌は、無表情に近かった。舞台の変遷とともに、嗜虐めいた愉悦も消えている。

 そこで初めて己の現状を把握する。頭部からあの忌々しい管も外されており、身体中の傷にも――失った末端は戻ってはいないようだが――包帯が巻かれている。筋骨も回復したのかいっぱしの感覚が戻ってきており、少々血は足りないが立ち上がって歩けることすら出来るだろう。

 だが、新しく動こうという気力は既に無かった。

 先ほどまで生きながらに嬲られていただけであったのに、今のこれはなんだろう。

「ッ……」

 もう一度、かすれ切った息が出た。声無き声で、眼前の姿に語る。

甚振いたぶるのには飽きたか。ならばさっさと殺せ)

「ジョーダン。なんであんたの望む通りにしなきゃならないのよ」

 目の前で忌々しげに黒髪がかき上げられる。高めの椅子に座り、女は面白く無さそうに溜息をついた。かつかつと高い踵の靴が打ち鳴らされる。処刑人の刃はその手になく、服装も先ほどと違う。

 気だるげな青い瞳がこちらを向いた。どのような表情をしても様になる、絶世の美貌。しかし数時間前の艶めいた毒気は消え、今は苛立たし気に柳眉を顰めている。

「あんた、何勘違いしてんの。罪人の分際で、死ぬのも生きるのも今更自分の自由に出来ると思わないでよ。そんなに死にたいなら勝手に死ねば。舌でも噛んでさくっと逝きなさいな、その方が面倒少ないし。舌噛んだ程度で死ねないなら、首でも吊れば。いくら純エルフでも、呼吸器系全部塞がれればご臨終出来るでしょ。ああヤダヤダ、なんであたしがこんなこと、」

「もういい」

 つらつらとやる気の無い毒を吐く女の声を断じたのは、背後よりかかった男の声だった。見覚えのある背格好。さらり、と零れ落ちるは不思議な形状を持つ長い髪。

 そして、同色の瞳。


 それは鮮やかで華々しい「青」ではない。

 人型種の色としてありふれた「碧」でもない。


「もういい――あとは、俺に任せて欲しい」


 ほの明るい照明に照らされたのは、どこまでも澄み渡った「蒼」だった。



◆ ◆ ◆


 物理的な地獄から抜け出したカルヴァリオを待っていたのは、精神的な地獄であった。


 満身創痍で帰還した幼子に皆は一往に驚き、酷い目に遭わされた彼を哀れんだ。カルヴァリオはその様に感激した。やはり、自分は同胞らの下に帰って来て正解だった。これが地獄の終焉だと、気絶寸前の身体を同胞らのかいなで介抱された時は心からそう信じた。

 しかし。

 怪我の手当てをし、滋養させ、そして身体が回復したところで彼らは本音を叩きつけてきたのである。自分を「売った」者達はやはり、この勝手な帰還を許さなかった。命からがら逃げ出し同胞に助けを求めた幼子は、その同胞により拒絶されたのだ。

『なぜここにいる』『お前を買った人間はどうした』『早く元の場所に戻れ』

 同胞らは、そういった意味のことを云った。苦労をかけるねとか、私達はお前に感謝しているのだよとか、形ばかり真綿に包みはしたが、要はそういった内容だった。逃走したカルヴァリオを庇おうとか匿おうとか、人間と縁を切ろうなどといったことは終ぞ彼らの口から出なかった。カルヴァリオが悲惨な現状をいくら訴えても、まるで耳を視えないもので塞いでいるかのように同じことを繰り返すのみだった。

 彼らの耳は、カルヴァリオと同じく尖っているのに。

(『戻れ』と。あの地獄に『戻れ』と云われた)

 カルヴァリオはその瞬間、悟る。人間に売られた瞬間より、自分はエルフとして居られる場所が無くなったのだ。お前は「純粋種」という希少価値を持つだけの、ただの道具なのだと。同じ純粋種でありながら。

 彼らは、仲間であったはずなのに。

(私はもう、同じ『エルフ』ではないのだ)

 こちらを見つめる視線に温度は見当たらない。部屋を去る時わずかに見受けられた感情は、自分達の計画に従わない愚かな小僧に対する無機質な苛立ち。幼子の縋る眼差しを、伸ばした手を、呆気なく拒絶したその一瞥。

――自分はただ、今在る地獄から抜け出したかった。独りではないと、帰る場所を見出したかった。見つめた者に見つめ返され、差し伸べられた手の平を握り返したいと。それだけの、たったそれだけのちっぽけな望みだったのに。

(地獄は、終わっていなかった。否、たった今から新たな地獄が始まったのだ)

 それに気付いたとき、カルヴァリオは己の中に在った最後の良心を捨てた。

 彼らの意向に従順になった振りをして機をうかがい、復興拠点に安置されていた伝説級の武器霊具を奪い、そこに居たエルフの過半数の首を自らの手で刎ねたのである。


 かつて同胞だと信じていた者たちの血にまみれ、そんな己を鏡に映し、カルヴァリオはひたすら嗤った。

(絶望とは、抱いていた望みが小さいと信じていたほどに大きくなるのだ。ならば自分は何も望まない。他人に何も期待はしない。誰も信用しない。そうすれば惑わされることも絶望することも無い)

 自分はこの先、そうやって生きていく。この地獄の中で、終わることのない永遠の暗闇の中で。他人はおろか、自身の幸福すら望まないまま。

(一族の復興? やってやろうではないか。ただし、私のやり方で)


 その日から、カルヴァリオ=ノエ=ディチナーレは暴君となった。



◆ ◆ ◆


 あお。青とも碧とも違う、澄んだ寒色。寒々しくも涼やかで、他のなにものにも染まらない透明さすら感じさせる静謐のいろ。自分自身見慣れた、見慣れすぎてそれが稀少だとは感じなくなっていた色彩。それを他の誰より濃く多く纏った存在は、静かな口調で語り始めた。


「――識っていた。出逢ったときから、わかっていた。貴殿の表情には、他者を慈しむという感情が欠けていた。そしてそれはかなしいことに、絶対的だった。永年とも呼べる貴殿の半生にて形づくられた、貴殿の生き様そのものだった。誰と接しようが誰が何を言おうが、きっと貴殿は生き方を曲げないであろうことを、俺は出逢って間も無く悟った。……それだけの時間を、もう覆すことなど出来ない業の元に過ごしてきてしまったことも」


「……」


「だからといって、俺は貴殿から目を逸らすことなど出来なかった。魂が求める唯一であったから。そして家族を喪った哀れな獣にとって、最後の拠り所でもあったから」


「……」


「群れの仇と魂の相棒、相反する存在が一つであったことにはだいぶ苦しんだ。しかし今は、それを受け入れている。広き世、深き界、その中で繋がった宿業の道、これも俺の天命なのだと」


「……」


「……正直に話そう。最初は、天命に対し恨みにも似た感情が有った。どうして俺は愛する者を喪わせた者に付き従っているのかと。騎者に対する本能的な忠誠、それと同等以上の負の感情が我が身を覆い尽くし、矛盾する己への憎しみが内側を焼き尽くさんばかりだった。いっそ天の獣としての証しを自ら蹴り棄ててやろうか。魔獣に身を堕とし、貴殿らがそうしているよう殺戮の先鋒として生きればこの心身は楽になるのだろうかと。そう思ったことは一度や二度ではない」


「……」


「貴殿の知っているとおり、俺は組織にいる間は役立たずだった。天の獣として始祖より賜ったものを穢すことに抵抗を覚えるのは当然の感覚とはいえ、騎者を見つけた騎獣としてはあってはならないことだ。我が一族は本来、それだけの毅さを持つ。古代に幾頭もが戦に駆り出されたように、背に乗る者のためならば如何な環境下でも耐え抜ける。しかし俺はそれが出来なかった。心がそう在る前に身体がもたなかった。貴殿らに暴力を振るわれ続けたために、それを癒すのに手一杯となっていた。貴殿は、俺が癒しの霊力を使えることを知らなかっただろう?人界は補給可能霊気が少ないゆえ、自身に施すのが精々で他者に回す余裕など無きに等しかったせいだ」


「……」


「……すまない、これも言い訳だな。我ら一族の生態を深く識らない貴殿らに説明しなかったのは俺自身の咎であり、自得の業だ。『この異種族に話しても無駄だ』という自己勝手な思い込みから壁を作り、常なら育められるものを育めなかった。その事実さえ認めたくなかった。心託すべきものに託せられない事実が、ひたすらに惨めだった。惨めな現状を誤魔化すよう、上辺だけの忠誠を重ね続けた。異種間を詰められず手段を怠った無能さは、紛れもなく俺の罪だ」


「……」


「殺戮の先鋒として生きられず役に立つ能力も発揮せず綺麗ごとを連ねる軟弱な生き物など、人界では通用しない。力主義的な観念を持つ貴殿らが厭うのも当然だ。しかしどうあっても未熟な俺は、今までの生き様を曲げることができない。帰る場所もうしなった身ゆえ、貴殿らと離れることも出来ない。人界の歴史を識らぬ身ゆえ、妖精らの切なる祈願をも否定出来ない。だからせめて、道を転換させたかった。ちっぽけな獣なりに、あれ以上災禍を大きくしたくなかった。――結局は力不足ゆえ、巧くいかなかったが」


「……」


「連ねてみると告解のようにも聴こえるな。まあ、さして変わりはないが」


「……」


「目を瞑っていてもいい。耳は塞がないでくれ」


「……」


「俺は――俺は、貴殿に感謝している」


「……ッ、」


「嘘ではない。哀れみでもない。本心だ」


「ッ、き、さま」


「ようやく、言葉を返してくれたな。我が騎者よ」


 目蓋を開いた。視界に映る蒼色は、どこまでも澄んでいる。その澄み渡った双眸が、穏やかに笑んでいる。その表情に、自分と同じ色をした瞳に――負の感情は、一切見当たらなかった。

 その事実が、理解し難い。


「感謝している」

「き、きさま、は、ッ」


 お前は。お前が、そんなことを言うのか。私に、私たちに何をされてきたのか、誰よりもわかっているお前が。

 誰よりも、何よりも苦しんだお前が。


「……辛い思いはした。しかしそれでも貴殿らと離れる選択はしなかった。組織の中に心許せる友も出来たゆえ、その思いは一層深まった。俺が人界にやってきたように、貴殿らにも、選んだ道がある。その信念は、志は、何者にも否定されるべきではない。俺はそう信じている。何より、俺が今まで生きてこられたのはやはり、貴殿という無二の存在と出逢えたお陰だ。ゆえに、どうしても俺は貴殿を厭えない。厭うことを、望みもしない」


 理解し難い。

 なぜそんな表情をしている。どうしてそんな言葉を発する。お前が。理不尽な暴虐に晒され続けてきた、被虐の本人であるお前は。




「我が騎者よ。――――もう一度、俺と向きあってくれるか」




 嗜虐の当人を。我々を、赦すというのか。





「ざまあ無いわね」

 蒼の頭髪の背後にて、女はフンと鼻を鳴らした。

「自分が足蹴にしてきた者に庇われる気分はどう? アンタ、自分が虐めてきた存在に哀れまれてるのよ。独裁者の暴君武人にとっちゃ最ッ高の終着点よねえ」

 皮肉をたっぷりと含んだ麗声は、言葉無く呆然とする男を容赦なく射抜く。にい、と青い瞳が笑みの形に歪んだ。

「最高ついでにもう一度繰り返してあげる。保健室講座の途中でも教えてあげたこと。自白剤で告白してくれたあんたの過去、ありふれてるけど被害妄想満点で愉しかったわ。その程度のこと純粋種あたしだって経験してるってのに、自分一人だけ不幸みたいな顔してて笑えたし。せっかくだからこの優しい騎獣の彼にも、あんたの惨めったらしい『正体』、教えてあげなくちゃ」

 やめろ、と言う声も気力も既に失われていた。


「『生まれてから一度も他人の幸せを願ったことなんて無い』あなた。なら、どうして『作り物』の連中に一人ひとり名前を付けたのかしら?」


 耳を塞ぐことが出来ない。


「中途半端なのよねえ。なんだかんだ暴君のフリしながら『作り物』連中の行動を必要以上に制限せず、刷り込み以外言動を締め付けもしてない。連中が起こした不祥事の尻拭いをするばかりか、連中に手をあげることすらしなかった。あんたが同族に手を下したのは最初の時だけ。どんなに激昂したときも、あんたはあんたなりの理性で動いていた。『名』を与えた刷り込みに加え自分に従う者は殴らないし殺さない、シンプルで解り易い飴と鞭。おつむ空っぽな新世代こどもなら、簡単にいうこと聞くわ」


 目を瞑ることも。


「でも、連中があんたに従う理由はそれだけじゃない。知ってるわよ、あの武器霊具を抜き放った時も、あんたが高揚のまま斬り殺したのは、バス亭に近づいていた可哀想な人間の老人。傍にいたリュスっていうおバカな新世代エルフは、あんたに脅されるかたちで逃げ出したのよね。あんた、気付いてたんでしょう?『ティリオ』と名乗ったあのエルフが、相当強い霊力使いだってことを。だから、リュスを逃がした。あの場にいたら足手まといだし、護れないかもしれなかったからね。そう、あんたは本当は解ってた。あの時あの場で同族の手によって制裁されることを、ちゃんとエルフの本能で理解してた。だから、すべてが無くなる前に大切な存在を危険な場所から逃がしたのよ。そうでしょう?」


 逃げることすら。


「新世代エルフたちは、決して恐怖だけであんたに従ってたわけじゃない。あんたを恐れながら、固有名を付けて育ててくれたひととして敬ってた。自分達にとって無二の存在だと、そう信じてた。――あんたを『親』だと、心から慕ってたのよ」


 何も。


「そしてその事実こそ、あんたの本当の望みだった」


 何も、出来ない。


「そう――あんたは衰退した妖精一族の復興なんて大それたこと、望んでなかった。だからすべてが中途半端だったし、気分のまま短絡的に物事を遂行した。紛い物に囲まれながら、ね。あんたが欲したのは、国どころか町にも村にも満たない、辛うじて群れと呼べる程度の狭いコミュニティだけ。



……心の奥底で必死に否定していたあんた自身の正体はね、『自分だけの家族が欲しいって望む独りぼっちでかわいそうな男の子』なのよ」



 心臓に針で縫い付けられたような真実に、どうすることもできなかった。



 別の空の下。


「もう私についてくるな」

 ラリクスは赤毛をくしゃりとかき上げつつ、隣を歩く若い男に言った。背を丸めるようにしてのそのそと歩いていた男はびくりっと肩を揺らし、怯えた動物のような目でラリクスを見返した。

「お、おれを、置いてくのかッ」

「置いてくも何も、今の私は逃走中の身だ。自分と研究対象を護るのが精一杯で、お前にいつまでも構ってられん。耳を隠した二人連れは目立つ。まして、お前の格好はどう見ても旅装ではない。人間区域内に踏み込む前に、さっさと離れたい」

「そッそんなこと、言うな」

「事実だ」

 よいせっと重い荷物を背負い直し、ラリクスは歩を進める。それに着いていくよう、一緒になっておどおどと脚を動かす若者。外見も中身もだいぶ年下の、図体はでかいが中身は子供そのものな視線がこちらに向けられ、大きな手がすがりつくようにラリクスの痩せた腕を掴んだ。武人系らしい力の強さで。

「……離せ」

「い、いやだ」

「いい加減にしろ」

 クソガキ、と続けたくなって寸でのところで我慢する。ラリクス自身はこの若者より(腹立たしいことに)体格がよろしくなく武に長じているわけでない文人系なので、下手に刺激すると怪我を負わされる可能性があったからだ。

 しかし。

「た、たすけてくれよ。おれ、あるじに『失せろ』って言われちまった。『殺されたくなければ、二度と目の前に現れるな』って。お、おれ、逃げてきたんだ。あるじ、おっかなかった。シーラも、ディアンも、いつの間にかみんないねえんだ。みんなどっか行っちまった。なんとなくわかるんだ、たぶんみんな死んじまったんだ、おれ、ひとりなんだよ」

 その恐れや気遣いが、急にバカバカしく感じてきた。

「こ、こんなこと、はじめてなんだよ。もう、おれ、戻れねえよ、戻るところ、もう無いんだ」

「ああそう」

「流すなよッ、シーラもいねえし、あ、あるじに捨てられたら、おれ、おれ、どうしたらいいか、……な、なあ、どうすればいいと思う?」

「馬鹿か」

 口内で舌打ちし、ラリクスは双眸を眇めた。こっちはただでさえ大荷物の事情持ちで忙しいというのに、どうしてここで更に厄介なお荷物を抱えないといけないのか。

「そんなもの自分で考えろ」

「ッ、おまえ、それでも同じエルフかよッ。おれとお前は、な、なかま、そう仲間だろッ」

「仲間ねえ」

 ケッと鼻で嗤いついでにお綺麗な顔に唾を浴びせたくなった。組織に加入してから十二分に判っていたことだが、新世代エルフは思考能力や自立心が希薄で、言動に安定感が無い。横暴な「親」と一緒になってさんざん文人系こちらを蔑んでおきながら、今になってこんな陳腐なことを抜かすとは。

「『腰抜けの軟弱文人』に対して、ずいぶんと手前勝手な言葉だな」

「そ、それは、主が言ったことで……、」

 今になってもまだそんなことを言うクソガキに、本気で唾を吐きかけたくなった。野蛮人そのものだった「親」と違い即座の暴力をおこなわない辺り、性根は腐ってはいないのだろうが。

 そこまで考え、ラリクスはふと気付いた。あのカルヴァリオ=ノエ=ディチナーレという男は思い起こしてもつくづく極悪で、ラリクスとは心底相容れない稚拙横暴な野蛮人そのものだった。しかし、本当にそれだけだったのだろうか? ただ暴虐なだけの男なら、こうもクソガキどもに慕われるわけがない。蒼色のイヴァを結局殺さなかったように、肝心なところであいつはあちらこちらに情けや目こぼしをかけていたように思える。袂を分かった今となっては、憶測でしかないことだが。

 なんにせよ。

「その頭は、」

 脱力と苛立ちの狭間で、ラリクスはそれでも声をあげてしまう。

「その頭は飾りか。仮にも数十年生きてきて、どうして何も考えられない」

「ッ」

 お節介な自分に尚も苛立ちが募る。なんで自分は、こんなところでこんなクソガキに説教してやらねばならんのだ。

「言動の責任をここに居ない者になすりつけるな。保護者の下に戻る気が無いのなら、それなりの覚悟を決めろ。帰るべき場所が無いのなら、お前が自身で帰る場所を作れ。自分の人生は、自分で決めろ。生きるってのはそういうことだ」

 腕を一振りすると、思ったより簡単に手を振り払うことが出来た。その勢いでラリクスはずんずんと先を歩く。もうさすがにこれ以上構ってられない。

 でも。

「――ッまって、まってくれよーぅ」

 固まっていたクソガキが、我に還ったかのようにラリクスを追いかけてきたことに。

「おれ、あんたについてきたいんだ、頼む、たのむよ……ッ」

 泣き声で懇願され、捨てられた仔犬の目で見つめられることに。


「なんでもするよ、おれ、おれ、確かに考えることニガテだけど、これからがんばって考えるから、だから、だからできるようになるまで、教えてくれよ、おれ、なんでもするから……!」


 生きるに必死な「ひと」を見捨てられない程度に、ラリクスはお人よしなエルフであった。

「――お前の名は」

「な? ……りゅ、リュス。リュビリス=ディチナーレ」

「『あかつき新葉しんば』」

「え」

「お前の名の意味だ。エルフ古語で、『リュビリス』は『早朝』『新しい朝』。『ディチナーレ』は『植物』『草の葉』を意味する。組み合わせると朝にいづる若い草木の芽、つまり『暁の新葉』と訳することが出来る」

「――」

「お前の固有名は、そういった意味を持つ。自分が何もわかっていないと自覚があるなら、言葉や文字、まずはそれを識れ。そして世界がどういうものなのか学べ。その中で自分の本当の成り立ちを理解しろ。どう生きるかは学びつつ決めるがいい」

「――」

「意味がわからなくとも、これからわかっていけ。いいな、リュス」

「――お、おう……!」

「返事は『はい』だ」

「は、はいっ!」

 そういったやり取りの後、ラリクスは空を仰いだ。同行を赦したのは幾つかの打算あってのことだが、根本にあるものを自分で理解していたのでどうにも溜息をつきたくなったのだ。

 呆れつつどこか柔らかな気持ちが胸の中を満たす。ラリクス自身、自分のお人よし具合をわかっていた。そして、自身の真なる望みと正体もちゃんと理解していた。


――結局、自分もクソガキなのだ。『家族が欲しい』ただそれだけを望む、ちっぽけな子供。


 仮にも数百年生きてきてこれか、と苦笑しつつ。ラリクスは新たな荷物と共にまた、歩き出した。



 そして、元の空の下。


 とある屋敷内にて、とある純エルフが息を引き取った。牢屋当然の部屋にて緩い監視と共に縄に繋がれていた彼は、見張りの隙をついて自分の衣服で首を吊ったのだ。かつて独裁の暴君とされ非道の限りを尽くした武人エルフにしては、呆気なくも惨めな最期であった。

 降ろした死体を眼下に、青い瞳は瞬く。

「結局、死なれちゃったわね。まあ、わざと警戒緩めてたせいもあるけど」

 彼女の向かいにある蒼い瞳も、ゆっくりと瞬いた。無言のままの彼に、彼女は話しかける。呟くように。

「あなたには悪いけどあたしはこれでよかったと思うわ。これ以上生きててもこいつはどうしようも無かったし。自殺なんてバカバカしいけど、こいつの信条を考えたらまあ仕方ないんじゃない」

「……」

「重ねるけど、あたしは一応こいつと同じエルフの純粋種としてこれで良かったと思ってるから。大体の同族エルフは同じ意見だと思うわ」

「……そうか」

 真顔に近い表情からは、感情はあまり読み取れない。しかし数刻前には無かった何かが、彼の蒼眼に宿っていた。「死」の匂いは彼の一族にとって毒であるはずなのに、間近にしても平然と出来るほどの毅い何かが。

「ところであなたは平気?」

「ああ。我が身に『戻った』これも、今となっては俺に馴染んでいる。元々、一体となるべきものであったし」

「そう。それは良かったわ」

 青と蒼の瞳はしばし、見つめあった。ややあって視線をそらしたのは、鮮やかな寒色のほうである。

「――、後始末はこちらの方でやっておく。そういうわけだから、あなたはもうこんなトコに用は無しでしょ。さっさと帰りなさいな」

 黒の巻き毛を細い指で弄くりながら、彼女はふっと息を吐く。琥珀の輝き宿す飾りが、尖った耳の下でとろりと光った。

「もうここに来ちゃ駄目よ。あのキレイな若葉色のコ、護衛からの報告だけどあなたがここに通うたび心配してるのよ。また怪我負わされるんじゃないかって。つがいじゃないにせよ、大切な存在なんでしょう? 女の子泣かすなんて、イイ男じゃなかったら極刑ものよ。これからのこともあるし、今のあなたなら間違いなく友達の力にもなれる。聖なる天の獣が、こんな場所に長く居ちゃ駄目」

 蒼の瞳持つ男は、同色の髪の隙間から彼女を見上げた。

「……蜜色の輝石抱く妖精の貴婦よ、感謝する」

「感謝されることなんてしてないわ。実際あたしは、あなたの元騎者を拷問して最期の瞬間まで散々痛めつけた悪女よ? あなた達一族と違って、同族制裁に微塵もためらわない極悪非道な戦闘一族なんだから」

「それでも、感謝する。貴殿はそうして、悪役を買って出てくれた。我が騎者が俺の言葉に耳を傾けざるを得ない『状況』を作ってくれた。ゆえに、俺の言葉は彼に届いた。あの場において、やっと俺は騎獣として騎者と心を通わせることが出来たのだ。もうそれで充分だ」

「――」

「感謝する。騎者を喪った矮小な獣の身であるが、心より願う。貴殿と貴殿の愛する『網』なる仲間かぞくに、天の恵みあらんことを。末長く、その身に幸が降りそそぐことを」

「――もう、イイ男のキザな台詞はそこらへんにして、とっとと行っちゃいなさい」

 くるり、と優美な後ろ姿を見せ、エルフの美女は少女のような声で続けた。

「あたしがあなたに惚れないうちにね」





 大気が唸りをあげ、蒼い髪を靡かせる。まるでこれこそ自身の色だと、誇るように。


 涼やかなそれを纏い、青年はすがたを変化させた。二本足から、四本足に。髪は鬣と化し、しゅるりと伸びた樹木のように立派な角に絡まった。蹄が勢いをつけるよう地面を蹴り、それに呼応して光が瞬く。

 蒼い瞳が見据えるのは、別の空の下の大切な家族なかま

 温度の高い炎のように、燃え立つ熱を示すように。豊かに長い鬣を風に遊ばせ、騎獣は「自身」に向かって微笑んだ。


「さあ、今度こそ幸せになりにこう。我が騎者ともよ」




リュビリス=ディチナーレ(リュス)・・・外見年代はハタチ程度、中身は小六程度。新世代エルフ第七号で、キレやすいガキだが性根は子供らしく素直で悪行も少なめ、更正の余地あり。ラリクスについてってからはいつの間にか彼を師匠と慕うようになる。知識を蓄え過去の「お遊び」が罪の意識と変わってからは人生が辛くなりそうだが、それはまた別の話


カルヴァリオ=ノエ=ディチナーレ・・・没年代は壮年程度。イヴァを攫ってた武人エルフの司令塔で、新世代エルフ生産の指示者。名門貴族・ディチナーレ家最後の直系で発言力が強く行使権を多く持つ。ただ幼少時に残酷な仕打ちを受けたせいで人間と文人系の同族を信用出来なくなり、武器霊具にて地位を奪取したのち作中のように過ごしてきた。銀髪に蒼い瞳、差別主義の女嫌い。成長期の虐待環境のせいで若干色盲(リョクを見た時に蒼のと混同してたのはそのせい)。彼の末路は賛否あるでしょうが、これも一つの結末ということで



ラウスとフラウムは以前の活動報告でもちらっと紹介した『網』の主要幹部さん達です。全員説明すると文字数嵩むので割愛。


蒼のが騎者を喪ってどうして平気なのかは、設定資料参照です(次ページ)

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