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我輩は騎獣である  作者: KEITA
第九章
102/127

※別視点混じり

※若干R15(誰かさんが肉食動物化)



 黒く染めた爪先の細い指が、それを摘み上げた。

「さっすがフラウ先生特製の発信機……こんなになってもまだ作動するとは恐れ入る」

 土まみれのそれを丹念に掃う。現れた合成樹脂の表面、小さな突起の下は赤い光が点灯している。手元の機器と同調に明滅するそれを確認する表情には、満足気な色。

 ボタンを長押して作動を止め、袋に仕舞いこむ。唇が、笑みの表情を浮かべたまま声を発した。

「おつとめ、ご苦労様」

 小さな機械本体とそれを「回収」してきた者、双方を労っての言葉である。それを受け、小さく頷いてから人影は立ち去った。自分の「持ち場」に早々に戻るために。

「ふふ」

 それを見送ってのち、細い身体は踵を返す。まるで手遊びのように小さな布袋を弄びつつ、身のこなしに隙は無い。猫のように足音のしない、しなやかな歩調。

 爪と同色の短い髪が、風にそよいだ。

「進行は今のところ予定通り。少々予想外の事態も発生したようだが、粗方巧くいったようだね。あとは仕掛けをごろうじろ、というところか。取り敢えず、ひと段落で安堵したよ」

 一人きりに見え、その周囲には無数の気配が在る。それに話しかけるように、しかし返応は求めていない独り言めいた口調で、言の葉を涼風に載せた。

「あの優しくもちょっと慌てん坊で照れ屋さんな彼は、早速いとしのきみに逢いに行っているとか。ふふ、似ていないように見えてどこまでも祖父譲りのご気性だ。まったく微笑ましいものだね」

 遠き日の銀髪の文官と似た言葉、瓜二つの表情で。彼の最愛と似た背格好、同じ色を閃かせ。瞳は、遠く離れた山々を見つめる。

「騎者と騎獣、どちらが先に『次世代』を手に入れるのか見ものだね。特に騎者の血筋がどうなるのかは興味深い。我が組織が、やっとその縁を確実なかたちで手に入れられる機会が巡ってきた。ちょうど良いタイミングで『恩』を売れたことだし。親友同士だった稀代の武人と稀代の文人の子孫、その結びつきはより堅固なものとなる――そうなったら我ら『網』の未来はいっそう安泰であり、無敵だと思わないかい? まあ、こんなこと言うとアルセイドは怒るだろうけど。『俺はお前らのために動いてるわけじゃねえよ』ってね」

 真夏の昼下がり、晴天の下に映える緑の木々。それを見つめる静かなアーテルは悪戯っぽくも無垢であり、強かながら暖かい。

「ちょっとした打算は置いといて。今はただ、古き友人らに無償の祝福を。あの緑の騎獣も――今頃は幸せを噛み締めているのかな。それとも、ふふ、ああいうタイプは恋愛にオクテっぽいからなあ。案外まだ手こずっていたりして。まあどちらにせよ、」

 その表面に視えざるものを映し、細められる優しげな宵闇。

「羨ましいよ、まったく」

 周囲の気配も彼女に呼応し、微笑んだような気がした。




 精霊族の恋は、うつくしいものばかりではない。そう最初に云ったのは、誰だったか。



 ワカバが立ち去ってのち数分。

 周囲に張り巡らせておいた霊力、それを閉じ込めておいた光膜が瞬時に破裂するよう、効力を失った。外側からは決して破れないそれは、内側からの介入によってのみ破られる。かの存在が結界外に「出た」証しだった。

 こちらが自失していたわずかな間に。

(縄張りの外に出られたか)

 途中、地面に裂かれた人間の衣服が周囲に散乱しているのも窺えた。我輩同様、彼女も本性に立ち戻ったらしい。その方が移動が速いので、当然ではある。

 しかしどうしてだろうか。ワカバが「逃げた」事実が目に入るたび、心の中の穏やかな部分が消されていくのは。

 嘆息し、足下を見やる。丁寧にも、霊気を使って蹄跡を消している辺りが小賢しい。

 まったくもって、小賢しい。

「笑止」

 呟き、角を一振りする。その場の空間を切り裂くよう振るわれたものが、瞬時に幻覚を取り掃う。西方に向かった小さな痕跡を発見し、その示された通りに進む。道半ば、尚も幻覚を施した痕があった。面倒になり、そのまま進む。このような見かけ倒しの罠など、罠になり得ない。あの雌の匂いを、その気配を我が感覚が間違うことなど在り得ない。縄張りの有無も結界の効力も関係が無い。それこそ、目を瞑っていてもこの蹄はかの下に辿り着くであろう。

 自身の霊気を元に作られた結界から出る時、霊獣の身で何も感じていないわけがない。特に空気の違い、守護的な安全性の差を大きく肌で感じ取っているはずだ。ワカバはこちらとの実力差を解っている。なのに、だというのにここまで必死に進路の痕跡を誤魔化そうとしている。

 そうまでして、我輩と離れたいのか。しかし理由がわからない。求愛を断るだけなら、この場から去らなくともいいはずだ。我輩個獣が嫌われているわけでないと確信しているだけに、哀しみより苛立ちが勝った。

(なぜ)

 胸中に巻き起こる義憤めいた疑問を捻じ伏せ、歩を進める。落ち着け、と己に言い聞かせた。把握が薄い時点で物事を断じる必要は無い。すべての答えはワカバ本人から聴けば良い。

 しかし、穏やかな心地は中々戻ってはこなかった。その先も度々、霊力で作られた幻覚が点在しているのが見えたからである。

「……」

 幻覚は幻覚の意を為していない。贋物を無視して進むごと、深まるあの雌の匂い。脆弱な脚で、か細い霊気で、それでも我輩から遠ざかろうとする小さな気配。しかし前にも同様の霊気を捜索した経験があるので、薄霧の如くな痕を辿る行為は至極容易であり、霞めいたものを追いかけることはさほど苦でない。

 ただ。ここまで至るに、心は段違いに抉られている。何せ本人が、「自分はこちらにいるのだけどあなたに追いかけてきて欲しくない」と伝えてきているのだから。

(これは……こたえる)

 思わず苦笑が洩れてしまう程度には、衝撃を受けた。かほどにまで、あの雌はこちらの意を断じるのか。我輩に好意を持っている素振りをしながら、それでも追いかけるなと。

「堪えるな」

 声に出すとしみじみと感じた。そう、我輩は傷ついている。

「――」

 わざと、歩を緩める。苦笑は消え、嘲笑めいた呼気が洩れた。事前に発散したはずの感情の一部が舞い戻ってきたような心地だ。凶暴な想いが一歩ごとにせり上がっている。抵抗とも呼べない抵抗が小賢しく、拒絶のつもりで拒絶が出来ないあの雌が哀れで、いとおしくて、憎たらしかった。

 憎たらしい?

 今まで感じたことの無い、感じてはいけなかったものが胸中に膨れ上がっている。

(そう、自分はあの雌が憎たらしい。どれだけこの想いが深くて激しいのか、わかっていないあれに――識らしめてやりたい)

 心が、燃えている。

(識らしめて、思い知らせて、)

 拒絶された熱が、傷つけられたまま猛っている。憎しみと紙一重の愛情に煽られ、燃え盛っている。


(ぜんぶを、おれのものに、したい)


 それは高尚と対極にある、醜い利己。何より傲慢で、凶悪で、純粋な望み。これこそ、様々な建前を取り払った我が深遠の正体だった。

――愛憎。相反しながらも切り離せない、互いに高めあっていく感情の本質を、ここで初めて識る。

 尚も道中で続く抵抗と拒絶の痕。それを認めるたび、傷つきながら燃え盛る想い。降り積もるように嵩を増し、重なっていく慾。大切に感じるがゆえに、拒まれたものはそのまま癒えぬ傷となる。向ける情が深ければ深いほど、奈落も底が知れない。

 御しがたい。御することなど、出来るはずがない。

 苦しい。

(これほどおれは、おまえをしたっているのに。どうしておまえは、おれを――)

 苦しい、苦しい。欲しい、欲しい、欲しい。高潔な庇護意識など欠片も見当たらない、どろどろとした雄の慾が叫ぶ。かの獣の咆哮が、喉元にこみ上げる。獰猛な熱が全身を包んでいる。獲物に飛び掛り体表を食い破り溢れ出たものを啜り噛み砕きすべてを飲み込みたいと欲する、肉への餓慕。限界まで増した、生への恋情。

(おまえを、たべたい)

 これが――これが、繁殖期の発情か。そしてこれが、またも新たに判明した我が正体だったか。

 く、とまた嗤いが洩れる。やはり、あの雌は哀れだった。これほどまで凶暴な、節操の無い雄に慕われて。いちど拒絶などしてしまったばかりに、未来は更に哀れなことになってしまう。三年に一度の周期など関係無く、それこそ彼女が壊れるまで、この雄はその矮躯を離しはしないだろう。

 それこそ、繁殖の本懐を遂げるまでは。

 角の根元が発火しているように熱い。かの魅力的なすがたを思い起こし、芳しい気配を辿るたび、食欲に似たものが口咥と身体の一部に溜まっていく。今まで使ったことの無いその器官が、痛いほどに鬱血している。

 自然区域の秩序を変えてしまう感情の余波、身の内の霊気は辛うじて抑えた。しかし、肉体的な欲情は際限無く上昇していく。

 獰猛な獣の心地で想った。恋を、純粋な本能のまま考えた。

(ああ、おまえを、)

 孕ませたい。



 当然ではあるが、もののわずかでかの雌は捕まった。偶然にも、先刻感情を発露させたあの小さな泉の向こう岸に居た。か細い身体で、その矮小な霊気で、ぶるぶると震えながら驚いたようにこちらを見据えていた。もう少し時間が稼げるとでも思っていたのだろうか。

 まあいい。

「こ、こな、いで」

 震える声での嘆願――この場に及んでまだ拒絶するつもりらしい――を無視し、歩を進める。ちゃぷ、と湖水に波紋が渡った。人型時と違い、高い霊力に包まれた本性は水に沈みはしない。霊気で覆われた蹄が、水面上を歩くよう前に進む。

 若草色の雌は、動けない。こちらが発する威容に圧されている他、結界が周囲に展開しているからだ。それは霞の縄張りとは違う、堅固な光の檻。網の如く細密で、鎖の如く執拗に内側のものを捕らえる無慈悲な牢獄。一歩逃げるごと、それは狭まってか細い脚に絡みつく。こちらの意思を象徴するかのように。

 そう、最初から無力な逃避であったのだ。元々、かの家屋から半里ほど縄張りを布いた他、その周囲にもところどころ警戒の簡易結界を為しえていた。天界霊獣の縄張りは至極広い。強き脚の一族ともなれば物理的把握範囲は更に大きい。首都に「撒いた」霊気といい、総合すると東寄りの「国土」半分近くが我が霊力影響下にあるのだ。

 如何に賢しい幻覚をこさえたとて、それすら獄の糧とする強大無比な結界の中に居ては無駄な足掻き。それこそ、幼仔の駆け比べにもなるまい。かの雌はそのことにやっと気付いたようだ。

(おれから、にげられるとおもうな)

 目標を見据える。目が合ったものは逃げることすら出来ず、失神するか萎縮するかどちらかである。この空間の絶対的強者、縄張りの支配者を前に生き物の危機意識を煽られない者など居るはずがない。周囲の野生動物は皆それを感じ取り、鳴き声ひとつ物音ひとつ立てず恐れおののいている。それは眼前の雌も同じことのようだ。

 波紋が水端まで湧き起こる。厳かに、絶対的に、そして無慈悲にまで静かに、歩を進める。ひとけりで向こう岸に到達は出来るが、敢えてそれはしない。じっくりと、嬲るように距離を詰める。

「や、やめ、」

 白樺の小枝のような角が、萎縮したように震えている。その端々で糸くずのような電光が走っている。幼仔の分際で、一丁前に危機を感じているらしい。若草の鬣も艶が無い。新緑の瞳からは、滝のように泪が零れ落ちていた。その双眸に映るは、恐怖か。こちらへの、絶望か。

 いっそ、それでもいいだろう。

「わ、わたし、言った、でしょう。ね、願ってあげられないの。ごめんなさい、わた、わたしは、あなたのしあわせ、を」

「どうでもいい」

「っ」

 涙声での言い募りを、一言で断じる。

「お前がこちらを拒絶しようが、それはどうでもいい。お前は、」

 おれの、つがいになるんだ。




 向こう岸まで、あと数歩と迫った。その時だった。


 目の前の、哀れな雌が。ぶるぶる震える、小さな像が。ゆらり、と薄霧に紛れ、霞む。

 その場に集う、光と風。

 四足の獣の姿が掻き消え――代わりに、二本足の娘のすがたが現れた。

「―――……!?」

 角が頭部におさめられる。ふわりと長い、若草色の「髪」。体毛の極端に短い、やわく白い生膚。その中で唯一変わらない、清らかな輝きの双眸。泣き腫らし、赤く染まった目元。

「っ」

 息を飲んだ。心が、別の角度より抉られる。獣のすがたでは感じなかったものが、不意に胸中に降り立つ。

 ちかり、とその端で何かが光った。木々の隙間より差し込んだ陽が、透明な水面に反射したのだ。昼間のそれは何も色は無い。ただ眩しいだけのきらめきのはずなのに、腫れたものを映すそれはなぜか。

 なぜか、赤々と優しい日暮れの色にも似て。

(――)

 一瞬、息が詰まる。人型と化したすがたに見つめられ、泣き濡れたものに心を抉られた他、誰かに咎められたような気がしたのだ。今はここにいない誰かに。けれど、自分にとって影響力がある巨きな誰かに。

 脳裏で、姉のように優しく厳しい声が幻聴する。


―――何をやっているの、緑の。雌には、優しくしないと駄目よ。


 動作が止まったその刹那。

 娘は無防備な裸の腕を伸ばし、かすれた声で言った。


「たすけて、リョク」


 リョク。

(それ、は)

 それは。

(おれの、)

 否。

(我輩の)


『お前の名は、リョクだ』


 人界での、名だ。



 結界が、解かれる。周囲に張り詰めていた緊張が解放され、小動物がそれぞれに逃げ去った。自然区域らしい気配が、一気にその場に戻る。

 新たな光と風が、巻き起こった。ざぶんっ!という水音。人型と化した我が身が、水底に勢い良く沈んだ音だ。肩口を通りこし首まで瞬時に冷水に浸かる。しかしそれに構わず、人型の腕で掻いて前に進んだ。

 そして、「我輩」は。

「りょ、く」

「……すまない。怯えさせて済まない、ワカバ」

「リョク、りょくリョクりょくッ――うわぁああああん」

 二本の腕で抱きついてくる身体を、二本の腕で、抱きしめた。


○ ○ ○


 改めて確認するまでもないが、当時の我輩は阿呆そのものだった。

 生まれて初めての恋。そして間も無く覚えた愛憎。立て続けて襲った欲情。すべてにかき回されるがまま、感情を御することを久方ぶりに失敗していた。「巧くやれる」と思ったものが、巧く出来なかった。結果、大切なものを危うく失うところであった。

 わざわざ寄り道までしておこなった発散の意義をみずから破棄し、獣の本性がままに躍りかかろうとした愚挙。最悪の事態を起こさずにまたも踏みとどまれたのは、我輩の力では無い。ワカバの渾身の呼びかけと――魂の相棒より貰った、「名」という守護のお陰だろう。

 ここは、天の界ではない。人の界なのだ。ワカバが生まれ、育ち、辿ってきたものはここに詰まっている。彼女の生きた道筋、すなわち「人の姿」を無下にするな。彼女の心を護るのは、感覚が鈍く霊気弱く駆けることも不得手な「人の姿」そのものなのだ。騎者どのが付けてくれた「名」は、そのことを教えてくれた。


『ニブくなんのは悪いことじゃない――代わりに得るのは、「生きる範囲の可能性」ってやつだ』


 かつて騎者どのが云っていたことはやはり、事実だった。そして、ここでもまた、魂の音色は我輩を導いてくれたのだ。

 そして。

 今の自分を形づくる、大切な記憶が。優しい日暮れ色した、幼馴染の記憶が。

 毅くも優しい己を、取り戻させてくれた。


○ ○ ○


「誤解……?」

「うむ」

 静かな水辺、我輩らは寄り添って語り合っていた。

「『伴侶』という呼び名は、『我が騎者の伴侶』という意味だった。しかれどまだ彼女は騎者どのと結ばれていないため、度々言い直していた。それだけの、話だ」

「そ、そうだった、の……」

 ぽかん、と。見開かれた瞳と、開かれた唇。そこから細く、長い息が零される。ずるり、と気が抜けたようにこちらに凭れかかる新緑の頭部。ぼそり、と小さく声が洩れた。

「…だ」

「? なんと言った」

「もうやだ。って言った、の!」

 こちらの胸に埋まった頬が、紅潮している。白い肌の耳まで真っ赤に染まり、伝わる体温は熱かった。

「もうやだ。なんでわたしってこう、バカなんだろう。ずっと勘違いしてて、ひとりで悩んで、勝手に先走って。挙句、リョクにいっぱい迷惑かけて。バカみたい。ほんと、」

「ワカバ。その件は我輩が悪かったのだ。言葉足らずだったゆえ、ワカバは誤解しただけだ」

「ッそれでも! でも、わたしって、」

「もう何も言うな」

 膝の上に載せた細い身体を包み込むよう、腕と脚を回す。裸の皮膚が隙間なく触れ合い、こちらの緑髪が向こうの緑髪と絡み合う。合わさった部分から、体温と鼓動とが伝わる。人型とはかのような利点があるのだ。すなわち、「抱きしめ合える」といった利点が。

 それに気付けた音と己を取り戻すに至った暖かい記憶に、改めて深い感謝が湧き上がる。我輩一頭ではきっと、今の状況は作り出せなかった。

 ありがとう、騎者どの。

 ありがとう、紅の。

 現在いまも過去も、未来を繋ぐに必要な糧なのだ。


 押し付けた箇所の吐息。熱く震えるそれを、この小さく巨きな存在が零す生の息吹を、全身で感じる。もう彼女は泣いてはいない。それを確認し、そっと身体を離した。

 人型に慣れている感覚として全裸の羞恥が大きいのか、乳房を隠すように髪を手前に持って来ている。今更だとは思うが、その様子が妙に愛らしくてまたも笑んでしまった。

「み、みないでよー小さいのわかってるから」

「ちいさい? 一体何が小さいというのだ?」

「わかってるくせに……!」

「わからぬな、我輩は天界育ちゆえ」

「もー……!」

 脆弱さも、細やか過ぎる気分の変調も。不器用な、考えすぎともとれる他者への思い遣りも。すべて、彼女が人界で生きる上で、培ってきたものなのだ。すべてが在るがままの、彼女の生命の「証し」。

 それを再認しつつ、我輩はそっと手を伸ばす。真っ赤になってそっぽを向いている娘の、小さな横顔に。

「ワカバ」

「――なあに」

 くるり、とこちらを見上げる新緑。そのやや下、頬の中間に手の平を触れさせ、髪を梳くようにこちらを向かせる。

 獣の感覚ではかのような言葉は平素、使わない。つがいはつがいであり、唯一無二だということを行動で証明さえ出来ればおおよそのことは省略して構わないものだから。

(しかし、我がつがいは)

 ワカバは。我輩が唯一と定めた人界育ちの彼女は、言の葉こそが最も有効なのだと「識った」。強大な霊力結界も、野生動物の恐怖本能も、彼女を繋ぎとめるものになり得ない。このか弱い雌の心を護り、身体を温め、情を強くするものは「人の型」。この頼りない五本指の先端であり、弱くややこしく繊細で面倒な人界の理そのものなのだ。

 ゆえに。

(これからも、伝え続けよう。行動だけではなく、言葉でも)

 彼女に夢中な雄はそう在ろうと、心に決めたのだ。

 息を吸う。短いが、想いを込めて囁いた。


「愛している」


 白い肌がまたも、耳まで真っ赤に染まる。動揺と感悦に染まったその表情からして、今度は間違えなかったようだ。

 淡い花びらにも似た唇が開く。可憐な娘は、咲きほころぶように伝え返してくれた。


「わたしも。わたしも、リョクを、愛してる……!」


 真夏に咲いた春の花。


「――出逢った時より想っていた。我輩のつがいとなってくれるか。否、なって欲しいのだが」

「うん、うん、喜んで!」

「感謝する」

「かんしゃ、なんて。わたしだって、最初からそうなればいいと思ってた。リョクとつがいになりたいって、ずっと、ずっと想ってたもの」

「ッ、ワカバ」


 そこに顔を寄せ、若草の瑞々しさと清らかさをなおも全身で感じながら思う。


「リョク、好き。大好き……!」


 人界の理というのも、悪くはないものだな。



 深緑と新緑。

 茂るその色は、海のように深く雲のように淡い。涼風はそのあわいに向かって吹き込み、優しくも激しい生命の音を鳴らす。

「……、」

 襟足の長いアッシュブロンドがそれらに吹かれたのち、はらはらと元の位置に戻る。尖った耳はぴくぴくと動いた。端正な唇は浮かべていた笑みを消し、旅装に包まれた脚はその場に止まる。背後から吹きつけたものを確かめるように。

「?」

 すぐ斜め後ろを着いてきていた足音が留まったことに気付き、黒髪が歩を止めて振り返る。そして「どうした」と一声かけてから、しまったというように顔を歪めた。こちらの動向を気にしない素振りをしていたのに、つい反応してしまったという表情だ。

 それでも彼は彼らしく、撫すくれながらもきちんとこちらの返応を待っている。笑みを消したこちらの表情に気付き、釣られるように真剣な空気を漂わせている。意地っ張りながら他人の変化に敏感で、実に心優しい子だ。この辺り父方には似なかったようで、内心安堵する。

 山間の緑よりも近く、色濃く、鮮やかに澄んだ瞳。胸が痛くも心休まるそれに向かって笑み返し、ティリオは云った。

「どうやら、先を越されたようですよ」

「は?」

 母親ゆずりのうつくしい双眸がぱちくりと瞬く。

「あなたの騎獣は、確約を手に入れたようです――幸せの、確約を」

「へ?」

 まだ把握がつかない、といった表情で首を傾げる黒髪の人間。やれやれと嘆息し、金髪のエルフはわざと呆れた風に言った。

「わかりませんか? 先ほど一瞬ですが、風向きが変わりました」

「え」

 それは確かに一瞬の変化であったが。西方から吹き降ろしていたはずの風が、瞬間的に逆流したのだ。それは、つい数日前も起きた現象だった。

「東方で何か変わったことが起きたようです。風に巨きな影響を及ぼすものがひとどころに集い、視えない力を巻き起こした。……すぐに風向きが戻った辺り、害悪な変化ではないようです。大気に影響を及ぼすほどの力の持ち主、考えられる近場の好変化、このところの背景要素からはすぐ思い当たるでしょう?」

「……リョク、か……? あいつ、まさか、」

「ええ。きっと、彼にとって善いことがあったのでしょうね」

 それこそ求婚に成功した、くらいの。そう付け加えると、目の前の緑眼がみるみる驚愕と歓喜と興奮に満ちていく。

「そ、か。……は、はは、あいつワカバちゃんと巧くいったんだな、うはは、確かに先越されたわーうっわ殴りてーはははっ」

 言葉はそうでも表情と笑い声に悔しさは見当たらない。先を越されたというより純粋に騎獣ともの幸福を嬉しがっている。本人は諦観ぶっていながら、根本は実にお人良しだ。この辺りも、父方にまったく似ていない。

そんな彼を前に、ティリオはもう一度やれやれと嘆息する。

「只人とはいえ、これほど自然区域の変調に鈍いとは。それでもイヴァニシオン家の当主ですか」

「……はぁああ!? んなことあんたに言われたかねーよ!!」

 笑み崩れていた顔が、瞬時に憤る。笑ったり怒ったりと実に忙しい人間だ。

「挑発に乗りやすいところも、未熟というしか」

「~~ッ」

 心配して損した、と吐き捨て、黒の短髪は翻る。肩をいからせ見る間に小さくなっていく姿に苦笑し、ティリオはゆっくりと歩を進める。吹き降ろす西方の風は、なぜだが常よりも温かい。

(心配、ですか)

 そんな他愛無い一言がこれほど心に響くのも、実に久しぶりだった。



 かつての旅人は、ついと空を見上げる。風の行き先は定まらずとも、吹き付ける向きが一定なら辿り着く場所は有ると信じたかった。今の自分が、そうであるように。

 離れた場所の、離れた友を思う。異種族の身勝手さに振り回され、踏み躙られながら、それでも清廉さを失わなかった心豊かな獣。だが非道な騎者によってつけられた傷は深く、如何な高い霊力を与えようとそれを癒すことは難しい。哀しみも苦しみも、他者が易々と共有できるものでないからだ。

 だが、せめて。

(風の心地が、貴方に訪れるよう)

 少しでも、あの鬣が休まる場所が増えるよう願う。

(どうか貴方も。かたちある幸せをつかめますように)

 抽象的ながら、どこまでも真摯に。人界最高の風使いは、そう願った。



「テスは、ね。あの歳で初恋もまだで、男の人が苦手で、それはわたしのせいで」

「……」

「なのに、どうしてわたしは、そんなテスのことを大事にしてあげてないんだろうって。リョクと話してて、途中で気付いたの」

「……」

「大事にしたいのに、何より大切な家族なのに。どうしてわたしは、そんなテスのことを裏切って、リョクのことばっかり考えてるんだろうって」

「……」

「そうして考え直したらね……リョクに……良く思われたいって思うだけじゃなくて、テスに対しても……変な、自分勝手な、望みがあるってことに気付いたの」

「……如何様な?」

「わたし……テスを、うしないたくない。テスがつがいを見つけるまで自分は傍にいる、テスが大事なひとを見つけたら離れる、って。いい子ぶって宣言しておきながら、本当はテスと離れたくないの。アルセイドさんに……テスを、とられたく、なかったの」

「……」

「バカだよね、ほんとう。リョクにいい顔しようとしながら、テスにも……いい顔しようと思ってた。『離れていかないで』って言えなくて、初恋も応援できないくせに、影でこそこそ別れさせようって思ってた。リョクのためだけじゃなく、自分のために」

「……」

「そんな、醜い自分が、本当に嫌になって……リョクの顔を見るのも、つらくなって……逃げた、の」

「……」

「わたし、本当に、バカだった。本当に……」


 我輩は、黙ってワカバをもう一度抱きしめた。繊細で、不器用で、心優しい彼女。決して完璧でない身勝手さや傲慢さも持ち、けれども気付いたものに精一杯真摯であろうとする姿が微笑ましい。どこか自分とも似通った部分のある彼女が、心底いとおしかった。

 これが、我がつがい。これから、共に歩む者。美点も、欠点も、苦楽すべてを分かち合う相手。我が生涯の――終生の、伴侶。


 そして。



「―――雌を泣かせるなよ、緑の」



 吹き降ろした風に乗って現れた、一体の獣。背後からかかったその声に、涼やかなものを溢れさせるその存在に、我輩は振り返らず応える。

「泣かせるつもりは無かった」

 ざわり。背後よりの大気の流れが、真夏の暑気を切り裂くような涼風が、我輩らの緑髪をなびかせ、絡ませ、隙間を梳くよう宙にたゆたせる。風のような声は、尚も続けた。

「まったく、緑のはいつまでも経っても朴念仁だな。そんなところは長に似なくて良かったのに」

「これが我が性分ゆえ、仕方なかろう。それに、つがいへの恋情が少々不器用なのは、お互い様であろう?」

「言ってくれる」

 ふふ、と背後から笑みが零れた。それに誘われるよう、我輩も笑顔となる。

「感謝する」

「何をだ?」

「――我がつがいを護ってくれたことを。心より、感謝する」

 腕に大事なものを抱えたまま、振り返る。湖水の表面に浮かんだものは、予想通りの色をしていた。どこまでも涼やかな、風の鬣。

 そのすがたを認めた春の若草が、驚愕と歓喜、そして懐かしみに潤んだ。我輩も、実に久方ぶりに出逢ったもうひとりの大切な仲間かぞくに、万端の思いを込め微笑みかける。繋がった未来に、伝う限りの感謝を載せて。



「おかえり、蒼の」



 目が合った幼馴染は、涼やかに笑み返してくれた。

「ただいま」




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