三
いとしい雌は、新緑の髪をかき乱して泣いた。
「ごめんなさい。大丈夫だと思っていたけど、無理だった。わたしには出来ない。リョク、ごめんなさい」
「何を謝っている、ワカバ、」
「ごめんなさい」
「ワカバ、なぜ、」
「ごめんなさい、リョク、」
泣き濡れた瞳が、哀しみと苦しみに満ちた視線が見上げてきた。なぜ、どうしてそのような表情で我輩を見つめる。どうして――
「わたし、あなたの幸福を願ってあげられない……!」
差し出した手は、若草のかけらも捉えること無く空を彷徨った。
■ □ ■
我輩がワカバのもとに辿り着いた時分まで、話は遡る。
「……いやっ」
呼びかけたものが、遮られた。
怯えたように後ずさり、こちらを見上げる新緑の瞳。その様子に熱く滾っていたものが瞬時に冷え、喉奥に押し込められる。
今。
(今、我輩は、拒絶、された?)
「あ、ちが、違うの」
一瞬固まった場を取り繕うよう、ワカバは首を横に振る。ふわふわと力無くなびく若草の髪。
「ちょっと、びっくりしちゃって。あの、リョクがいきなり現れたから、」
「……、そうか」
瞬間冷却させられたかのような感情がやっと動き出した。強張った筋骨がやっと柔軟さを取り戻し、胸郭にやわやわと安堵が広がる。
「驚かせたようだ、済まぬ」
「う、ううん」
倍以上も歳の差がある雄をたった一言で翻弄する幼い雌は、もう一度首を振った。そうして若草の隙間からおずおずと見上げてくる。しかし気のせいだろうか、今度の視線はこちらと微妙に合わない。
「リョク、それより、あれからどうなったの? リョクがここにいるってことは――」
「うむ。ことは、なし得た」
瞳がわずかに見開かれ、淡紅色の唇が安堵の息を吐き出した。
「そ、そう。よかった」
とても可憐な様であるのだが、我輩はどことなく違和感を覚える。思ったよりも反応に喜色が薄かったからだ。
しかし、と思いなおす。その感慨は、雄の勝手な判断なのかもしれない。雌の事情に妙に詳しい騎者どのより受けた「オンナってのは建前と本音が逆な場合あるから」という助言がよぎる。もしかしたら、我輩が理解出来ない雌特有の繊細な機敏があるのかもしれない。
『リョク、わたしに出来ることって――』
思い当たるものは、昨夜の別れ際の悶着だ。この幼仔は、かの不満を未だ引きずっているのか。
「ワカバ。我輩は、」
「う、うん? あ、そうだ、まだ言ってなかったね、お帰りなさい。リョクが怪我とかしてなくて、良かった。ア、アルセイドさんも、元気、なんだよね」
目線より下にある瞳は、こちらを映さずまた茫然としている。声音もどことなく上ずり、言の葉も途切れがちだ。これは先手として、謝っておいた方がいいだろうか。
「うむ。それはそうと、ワカバ、」
「あのね、テスは大学に行ってまだ帰っていないの。大丈夫、家にいる間はちゃんと護衛してたよ。テスもとっても元気。傷ひとつだってつけてない。だからね、ちょっと待ってて。あ、あとやっぱり人型になっておいたほうがいいと思うの。テスは人間だし、ね?」
「? う、うむ」
何やらまくし立てるように言われ、我輩は勢いで頷いた。ワカバの言動はよくわからない部分があったが(どうしてここで伴侶どのが出てくる?)、問題が無い状態でその提案を無視出来るはずはない。いとしい雌が人型になって欲しいというなら、従うまでである。
そこまで考えて、もしやというものに思い当たった。
(もしやワカバの様子がおかしいのは、我輩が本性のままでいるせいか)
「了解した。やはり人界の規律には従うべきであるな」
頷き、身体の向きを変えて蹄を進める。かの家屋には、騎者どのが残していった着替えがまだ残っているはずだ。履物と下着は無かったかもしれないが、そんなことは我が一族の本性からすれば些かの問題にもならない。我輩は天界育ちの獣なので、被服の意識が元来薄い。有り体に言うならば、取り敢えず生殖器を隠せればいいという意識しか無いのだ。
しかし。
(ワカバは、違う)
「人界育ちというものは、やはり被服の観念が強くなるものか?」
「え? ……う、うん。テスは、人間だし。彼氏とか、いたことないし。男の人が裸とか、ちょっと困ると思う」
訊きたいことは伴侶どのの意識でなく、この雌の意識なのだが。
(しかしきっと、ワカバは天界育ちの我輩にも解り易いよう、人界育ち代表である人間を引き合いに出したのだろう)そう考えて問いを続ける。
「ふむ。人界の歳若い雌は皆、かのような意識が?」
「う、ん」
歩を進める我輩の横合い、人型の狭い歩幅でちまちまと追随しながらワカバは頷く。時折小走りになる様子さえひどく愛らしい。歩いている間も、黙っていられないといった風情で喋っている。
「特に、ウチは女所帯だから……。人間のとうさまが亡くなってもう二年になるし。だから、驚いているの。テスが、アルセイドさん……とリョクを、ウチに連れてきたこと」
懸命に開閉する小さな口唇。可憐な声が息切れぬよう、併歩しやすいよう速度を緩める。安心したようにとてとてとくっついてくる様が、本当に愛らしい。我がつがい(予定)は二本足であっても実に魅力的だ。
「テスは、昔から……けっこう警戒心、強いほうで。霊力野菜を売るってわたしが決めたあとも、『ワカバは警戒心無さ過ぎなんだからあたしがワカバを護る』って、小さい頃から言ってくれてた」
「勇ましいな」
「そう! テスは小さい頃からこんな感じ」
ワカバの声音に誇らしさが混ざる。大事な存在を語る彼女はやはり、嬉しげだ。幾分すべりが良くなった口ぶりで、話し出す。
「わたしはテスが生まれてからやっと人型になれただけで、霊力も上がったからそれだけで充分だと思ってたんだけど。自分が人間基準だとどういうすがたをしているかとか、周りがどう見るかとか、ちょっとわかっていない部分があって。それが人界に暮らすうえで、問題でもあったの」
大いに共感できる。我が一族並び獣の感覚として、二本足が拘る顔の美醜は未だ大したものと思えない。しかし、天の獣が人型を取った際は、例外なく並み以上の容姿になるらしい。人界の細密で複雑な関わりにおいて、自身の容姿や言動の程度を理解出来ず好き勝手振舞うと如何なる危険性が生まれるか、我輩も多少なりとも識っている。識らざるを得ない事実だからだ。
「人界は本来、天の獣にとって棲み処ではないからな」
「うん……」
麒麟として負の感情を嫌う本能もあり、我が一族にとって殊更理解しがたく棲みにくい環境。それが人間界隈という複雑窮屈な場所なのだ。
「テスは、そんなわたしが不満で、不安だったみたい。わたしがそういう感覚に慣れるまで色んなところに何度も付き添ってくれて、とっても助かった。でも、わたしはやっぱり人間じゃないから、まだピンときてないところがあって、そういうところをテスは心配してる。見かけより心配性なの、あの子。自分も女の子なのに、他人のことばっかりで……」
長いあいだ共に過ごしてきた大切な存在を思い、眉尻を下げながら口角を上げる愛らしい貌。喋っている内容はあまり重要とは思えないが(伴侶どのとワカバが互いを大切にしていることなど飽き飽きするほど知っている)、この可憐な声はずっと聴いていたい。
「そうしてくうち、テスは男の人の視線が苦手になっちゃって……だからね、凄く驚いた。人間の若い男の人をテスが自分から家に入れたってこと自体、凄いことなんだよ」
「左様か」
「うん! 進歩って言ってもいいかな、ふふ」
柔らかな笑みを零す小さな雌。話している内容はやはりどうでもいいが、声は聴き心地が良く横顔は眼福そのものである。もし彼女が本性のすがたであったら、そして我輩にもう少し理性が足りなかったら危ないところだっただろう。そのか細くも愛らしい角をしゃぶる勢いで舐め尽くし発情期云々関係なく問答無用で後ろから圧し掛かっていた。そう普通に考える。
(やはり事前に気持ちを発散させておいて良かった)
そうしみじみと感じつつ歩を進める。経験が皆無ということもあり、自分でも制御しきれなくなるこの恋情の激しさが恐ろしい。
しかし、すべてはこの雌が可憐過ぎるからいけないのだ、と罪無き責任転嫁をする。我輩とて人界で過ごした四十余年、多少の審美眼は育っている。贔屓を抜きにしてもこの造形は大いに整っており、表情筋の動きはやわらかくも華やかで、人界の基準からすると大変に麗しいはずだ。
そこまで考えて、胸の奥底が波立つような感覚に襲われた。
(ワカバは他の雄にどの程度迫られたのか。一体どのくらいの雄が、この可憐な雌を見つめ、欲し、生殖行為を迫って、)
ざわり、と体毛を逆撫でられるかのような不快感。逆撫でられたものは風で戻ること無く、内側の熱でちりちりと焼け焦げていく。
「……ワカバ、」
おのれのものと思えぬ声が出たのは、一体幾年振りであろうか。併歩していた細い肩がびくりとなり表情が固まるのに構わず、我輩は言い含めるように囁いた。
「これからは、かのような雄など我が脚で蹴散らしてやる。我輩がいる限り、伴侶どのが(ワカバのことで)杞憂を発することは無い。良いな」
雄の嫉妬混じりの決意表明を受け、当の雌は曖昧な表情で頷く。
「……うん。ごめんなさい……」
「なぜ謝る?」
「もしかして無神経なこと、言っちゃったかなって……」
「特段そのようには思っていない。こちらの勝手な感情だ、気にするな」
「そ、そう……」
その声音と面に、またあのぎこちなさが戻ってきてしまっていたこと。もう少し気を配っていたら、わかっただろう。しかし当時の我輩は、気付かなかった。燃え上がった嫉妬と目の前の恋情に夢中で、会話の中のすれ違いが視えていなかった。
今考えるに、その事実が悔やまれてならない。
木造家屋に辿り着いてのち、我輩は人型となって屋内に居た。やはり人界の空気下では、このすがたの方が格段に楽だ。騎者どのが残していった衣を纏い(履物は無かったが下着は辛うじてあった)、身なりを整えてから台所兼居間に向かう。
硝子製の器を取り出したワカバは、それを卓上に置いていた。騎者どのも風呂上りに飲んでいた、紅紫色の果実酒。
「ワカバ」
「あ、リョク、良かったらこれ飲ん――」
背後から声をかけると、若草はくるりと振り返り、言葉の途中でなぜか固まった。
「如何した」
「な、なんでも、ない」
「左様か」
首を傾げつつ、近寄って椅子を引く。
「座るぞ」
「う、ん」
小さな椅子に座ると、脚の関節部――人型における膝頭――が臀部より高い位置に来る。この家はすべての家具が低い位置に作られている。部屋を移動する際、頭を屈めなければ額を縁にぶつけそうになるほどだ。家主の背丈にあつらえたかのよう小さく、しかし細部まで小奇麗に手入れをされた棲み処。それゆえ建てたものの愛情と棲んでいる者の温もりが、じかに伝わってくるかのような。
(空間の狭さはともかく、この家屋は騎者どのの自宅と同様、至極落ち着く)
はらり、と肩から滑り落ちる緑髪。それを背中に流し、我輩は卓上の器を引き寄せる。手の平に載るほどに小さな硝子に、とくとくと液体が注がれるのを眺める。いや、正しくはそれをおこなっている小さな手を。
ふと考えた。
(彼女は天の獣ながら人界で生まれ、育ち、伴侶どのを護り護られつつ今まで過ごしてきたのだ。我輩の幼生時とあまりに違う、この環境で)
五本の指。体毛の無い、あったとしても極端に短い露出した生膚。先に付いた爪は尖ってもおらず特段硬いものでもない。支える骨も細く、握力も弱い手の平。ここ数十年で見慣れたはずの人間の手指が、これほど頼りなく見えるのはなぜであろう。
(――そういえば本性も、幼生とはいえ同じ年頃の雌と比べても格段に体格が小さくなかったか)
漂ってきた妙な不安を押し隠し、酌された果実酒を一口含む。酒精と絡む爽やかな甘味が疲れた心身に心地よい。
「……美味いな。ワカバが作ったのか」
「う、うん」
こちらを見つめ、ぼうっとしていたワカバがこくこくと頷く。細い首の後ろでまとめられた新緑の髪がふわふわと揺れた。
「少し進めば蜜スグリが沢山採れる場所があるから、夏場はいつもジャムとかリキュールとかにしてるの」
「ふむ。……あーワカバ、」
「な、なに?」
「出立の前、馳走になった手製の『じゃむ』も至極美味であった。その、ワカバは手先が器用であるな」
「あ、ありが、とう」
「――」
自分で言ってなんだが、あまりに安直で幼稚、そして尊大な言の葉に頭を抱えたくなった。本心はもっと気持ちを込め語彙を尽くし、足元から持ち上げるかたちで賛美したい。そしてその勢いで圧し掛か……ではない、想いの丈をぶつけたい。だが、この小さな雌が頬を染めるだけで我輩の頬にも熱が溜まる。頭の中で必死に言の葉をかき集めるもどれもが違う気がして、そんな己に更に混乱して口が強張ってしまう。伴侶どのを前にした騎者どのの口八丁が妙な方向に向かっていた様が今更理解出来る。
(おのれの正体がまた、こんな形で判明するとは)
褒言に慣れていると自負する者ほど、本気の際に言葉が出なくなってしまうのだ。それ即ち、今までは本気でなかったということである。我輩は思った以上に薄情な雄であったらしい。
「――、蜜スグリは加工物も美味いこと、我輩は初めて識った。今まで生食が究極と感じていたが、それは狭い了見だったと」
「そ、そう。良かった。不思議だよね、蜜スグリってただ甘いだけかと思ってたら、加工したら風味がぐっと増して。暑い日は熱を通したほうが、日持ちもよくなるの。色だって変わるし、調理って奥が深いよね」
「う、む。真である」
ワカバの調理の腕を褒めようとした会話が、また妙な方向に逸れていく。
「リョクはお酒造りとか、したことないの?」
「そうであるな。酒造は経験したことが無いが、加工甘味にも風味付けで度々登場する原材料ゆえ、いつかは挑戦したい」
「慣れるまで大変だけど、原料の癖と醸造のコツを掴めばなんとか出来るよ。頑張って。良かったら教えるし」
「うむ。やるとなれば鋭意努力したいと思う。協力、感謝する」
「……」
「……」
中身の無い酒造談義のあと、妙な沈黙が降りた。本当に今更ながら、この場に二体のみということを意識してしまったのである。騎者どのがこの場に居たら「なに今更ドキドキしてんのお前!? 超イマサラだよね!?」と絶叫しそうだ。
(このままではいかん)
「「ところで、」」
「……」
「……」
「「あの、」」
「……」
「……」
同時に声を出してしまい、二人揃って俯く。何をやっているのだろう、本当に。
しかしこの場はやはり、年の功たる者が突破口に先導しなければ。ワカバが喋らないのを見て、恐る恐る――この辺りも騎者どのに爆笑されそうだ――話しかける。
「……ワカバ、」
新緑の視線がゆるゆると上がる。いとしき双眸に向かい、我輩は強張る口唇を開いた。
「ワカバは、こうやってずっと人界で暮らしてきたのだな」
若草色の少女は、瞳をぱちくりとさせ――ゆっくり頷いた。空気が変わったのを感じ、我輩も内心で息をつく。やっと、物事を前に進められる。
「我輩はワカバに、伝えなければならないことがある。そして、知りたいこともある。……まずは聴いて、くれるか」
彼女はもうひとつ、頷いた。
・
・
・
それから数刻。
我輩らは、様々なことを話した。互いの生い立ち。生まれてより最古の記憶。いとおしいものらとの出逢い。別れ。新たな出逢いと、そして今日に至るまでの軌跡。他愛もない思い出から、思い出すに辛い過去まで。
ワカバは泣いた。我輩と母御の死に別れの経緯、そして群れの連中との思い出や別れを静かに聞き、静かに泪を流した。ほろほろと新緑より流れ落ちる澄んだそれは、卓上に置かれた白い手を幾筋も伝う。それだけで、胸の奥の何かが浄化されていくようだった。かつて深緑に吸い込まれていったかなしみの結晶が、何より清らかなものに生まれ変わっていく。勝手ながら、そう思えた。
我輩は笑った。ワカバが人間の育て親と過ごした日々、伴侶どの――己の騎者との、運命的な出逢い。彼女の今の気性をかたちづくるような、暖かな絆と触れ合いの数々。赤ん坊の伴侶どのがワカバの髪を掴んで離さなかった出来事や、成長した彼女が最初に覚えた言葉が「わかびゃ」であったこと。とても賢くて、小うるさくて、気が強くも優しい彼女と過ごした今までの日々。すべてが、自然に口元を緩ませて聞き入ってしまう楽しさに満ちていた。
ワカバは、もう一度泣いた。我輩がかの忌まわしき植物園で視た、残酷な記憶。それを思念で映像として伝えられるなり、顔を歪め口を押さえて号泣した。橙色の麗しい雌が瀕死となりながら大切なものを護り通したこと、その証しがここにあること。すべてを理解した彼女は、震えながら「お母様」と小さく零した。そして、我輩に「ありがとう」とも言ってくれた。
我輩も、もう一度笑った。ワカバの手が居間の棚の片隅に置いてあったそれを手にしたときに。懐かしさと寂しさを秘めた視線が黒枠の中を見下ろした瞬間。我輩も、自然と彼女と同じ表情となっていた。
哀愁と郷愁、深い感謝が織り交ざった心地で語りかける。今は亡き、人間の恩人に。
――あの日異種の仔どもを養育することを躊躇わず決意し、大事を終生やり遂げた強く優しき人間よ、心より感謝する。今日からは、我が脚で貴殿の大切な娘を護ろう――
胸がいっぱいになっていたせいだろうか。我輩はやはり、気付かなかった。こちらに背を向け小さなそれを元の位置に戻した若草色の少女、彼女が浮かべた表情に。
穏やかな笑みの中、静かでかなしい決意。それを正面から見たものは、遺影の中の老人だけであった。
・
・
・
いつの間にか太陽の位置は中天より低くなっていた。
果実酒の瓶はすっかり空となっている。酒精に酔うことはほぼ無い我らの体質であるが、一度に大量に取り込んだ後は流石に水分を必要とする。喋り通しだったこともあり、乾いた喉を潤すため連れ立って外に出た。金属管を通した水道水より近くの泉の方が新鮮で美味しい、とワカバが言ったからである。この辺りの湧き水は自然区域内なので、大地の霊気がわずかに溶け込んでいるのだ。
澄んだ泉より水を汲み、木製桶や硝子瓶に詰める。大きな桶は水道より離れた場所にある畑用。小さな瓶は家屋に持ち帰る調理用水である。手伝いつつ、そのうちの一つを呷る。確かに水道水より冷えており、至極美味い。
そして。
(人界は我が本性からするとやはり不便だ)改めてそう感じる。獣が姿に立ち戻り、沢に直接首を突っ込めば給水も楽だ。しかし、人型ではそういったことがやりにくい。ワカバも同じことだろうに、彼女は頑なに本性に戻ろうとはしない。否、頑なとは違う。これが人界で育った彼女の「普通」であり、通常感覚なのであろう。そして異を唱える道理は、どこにも無い。我輩は人界で育った彼女をいとしく感じ、人間の中に大切な存在を見出した彼女を、心底から好ましく思ったのだから。
ただ、久しく逢っていなかった同族と過ごす空間は至極心地良く、それが唯一無二の存在となれば更に気分は安くなる。ああ、ここがもし天であったなら。
……しかしここは人界、個獣的な我儘が通せる場所ではない。人型にならざるを得ない環境、そして相手の背景環境。すべてを慮る意味でも、云いたいことの一部は我慢せねば。
清水を詰めた瓶と桶を箱詰めし、一輪の台車の上に載せて歩き出す。ワカバは恐縮していたが、この程度は重量と思えないし負荷でもない。むしろ将来のつがいのために一仕事できることが、誇らしい。
ただ。
(まだ、確約をもらっていない)
出立の前に(遠まわしであるが)こちらの気持ちは伝えた。ワカバの様子からして、それを嫌忌しているわけではなさそうだしこちらを拒絶する気配も無い。どちらかというと好意を持たれている、はずだ。先ほどまでの有意義な思い出話の伝え合いからして、割合近い意識を持っている、……と断じて良いだろう。
いくぶん下がった真夏の気温と、この土地特有の冷風が肌を擽る。履物は、家屋にある中で一番大きい突っ掛けを借りた。それでも踵が余り少々歩きにくいが、さほど大きな問題ではない。ごろごろと手押し台を動かしつつ、斜め後ろを着いてくる存在に意識を向ける。我輩はまだ、この雌から確約たる意思を受け取っていない。こちらの言の葉がはっきりしていないので、当然であるが。
ワカバは水を汲み始めた時分より、言葉少なになった。それに釣られ、我輩も沈黙している。ただ数刻前と違い、今は沈黙が不自然ではない。もどかしい気持ちは多々あるが。
「――」
それはやはりまだ、これからの未来をはっきり伝え合っていないせいだろう。行動で伝えている、それで充分だと主張する一族の者もいるやもしれない。だが、人界の理は違う。我輩の心地としても今は不十分だと感じる。未だ胸の内に無い確約が空しく、あの可憐な声での了承が何より欲しかった。
(やはり、言うか)
やがて家屋前に辿り着き、脚付き台を地面へと降ろす。散々先延ばしてしまったが、言うなら今しかないと思い、口を開いた。その時だった。
「ねえ、リョク」
「ッうむ?!」
ここでもまた、先を越された。驚いて返応が裏返ってしまった我輩に構わず、彼女は続ける。静かな声で。
「わたしね……勘違い、してた」
「かんちがい?」
いきなり、何を言い出すのか。ぽかんとした心地で背後を振り返る。そして、思ってもみなかった情景に胸をつかまれる。
ワカバは――春の若草は、萎れるような風情で立っていた。
清らかな、それでいて何よりかなしいものを湛えた瞳が瞬く。
「とうさまが……わたしを育ててくれたひとが亡くなったとき、わたしは『テスを護らなきゃ』って思った。でも、テスはそれ以上に気張ってた。わたしはそんなテスに甘えて……だから……気付くのが、遅すぎたの」
「おそすぎた、とは」
彼女はいきなり、何を言っているのか。我輩はただ、阿呆のように訊き返すしかない。何やらこの雌の表情に、今まで無かったものがくっきりと浮かんでいたからである。それは問いただすにはあまりに静かで、激しくて。
見つめようと思った横顔は、我輩の傍を通り過ぎる。さく、さくと草を踏み越えてしばし歩いたのち、若草の髪は立ち止まった。木立から吹きぬけた風が、柔らかなそれをなびかせる。
がち、という何かがぶつかる音。ぱしゃん、と水音もした。ワカバが通り過ぎざま台の脇に置いた瓶が、風で呆気なく倒されたのだ。ちょうど瓶口が台の外を向いたこともあり、底に残っていたわずかな水が外に零される。足元の影めいた黒土に液体がばら撒かれ、吸い込まれていく。
それは透明な、色の無い衝撃。
地面にとくとくと注がれる水。それよりも遥かに清らかでかなしい潤いを双眸に満たし、ゆっくりと、ワカバは口を開いた。
「本当は……テスだって、恋をしたかった、ってこと」
それは、彼女の決意の音だった。
■ □ ■
ごめんなさい。ただそう云って、ワカバは我輩に背を向けた。
なぜだ。その問いは、無視された。
言の葉が、苦しみの泪と共に虚しく宙を流れていく。
虚しい問いは、風に流される。
鼻先で掴むことを許されなかった幸福は、我輩の理解を置き去りに姿を消した。
「………………………………」
どの程度、時間が経っただろうか。ふらり、と脚を踏み出し、そこで始めて我輩は己が本性に立ち戻っていることを識る。無意識に、人型を解いてしまっていたらしい。その割りに感覚が薄い。
自分でも何が起きたのか未把握のまま、歩を進める。足元に、脱ぎ捨てられた突っ掛けと弾けた衣服のかけらが散乱している。それを踏み越え、進む。この感覚は、永く生きてきて実質初めてかもしれない。大怪我をしたわけでもないのに、身体が勝手に本性に戻るなど。
「……騎者どのに、叱られるな」
ぽつりと零れた独り言。衣をまた破いてしまったということには、一応自覚がある。けれど、それ以外のことがぼんやりとしている。
背後に置き去りにされた硝子瓶が風に揺らされ、箱の中でがたがたと音を立てている。その脇、倒れた一本の瓶が、最後の水滴を地面に落とした。
ぽつり、と軽い音は他のものに紛れるほど小さい。夏の暑気もあり、黒土に吸い込まれたものはもう殆ど形跡を残していなかった。まるで水はただの水だ、と断じるように。
意識は冴え冴えとしているのに、すべてが薄らとしている。一体何が起きたのか。どうして今、我輩は、
『わたし、あなたの幸福を願ってあげられない』
そうか、と唐突に理解する。我輩は、断られたのだ。あの小さな雌に。小さな、幸福のかたまりに。共に歩くことを。その身を護らせて欲しいと、請うことすら。
断られたのだ。
「………………………………ッ」
その自覚が生まれた途端、我輩は駆け出していた。これ以上、この場に留まっていられなかった。
脳裏に蘇る、過去の暖かい記憶。群れの連中らの顔。そのうちのひとつが、語りかける。
――だらしないな、緑の。雄なら、無様に雌の尻を追い掛け回せ。追いつけるまでな。
その傍らにあるひとつがまた、語りかけてくる。
――がんばって、緑の。雌はね、毅くて優しい雄が好きなのよ。
ああ、と二頭に微笑み返す。半生で識り得た中で一番純粋で、一番いとおしく思えた「恋」の見本に。
――そうだな。我輩がちゃんとこなせるか、見ていてくれ。
「我輩は、」
あの日見た夕暮れに、燃え立つ蒼に、優しげな紅に。再三の決意を込めて、宣言する。
「我輩は、ワカバをつがいにする」
断られたから、なんだというのだ。この脚に追いつけぬものなど、この界に存在しない。
・
・
・
深緑の軌跡が過ぎ去ったあと、もう一度音が聴こえた。ぽつり、という水滴が土に落ちるそれが。乾いたものに訪れた、わずかな潤いの気配。
それは、恵みの音にも似ていた。
いっぽうその頃の騎者どの
「あー腹減った……」
「もう午後ですか……早いですねえ」
「ところでなんであんた俺の行き先にまで着いてくるんだよ」
「自分も用があるので」
「用ってなに」
「アルセイドの奥方がそこにいらっしゃるのでしょう? せっかくなので、ご挨拶しようかと」
「お、おくが、バッ……ちげーーーーよ! あと何しれっと肉親ぶってんだ俺は認めねえってさっきも(略)」
「(後半さらっと無視)違うのですか? あなたの騎獣が『伴侶どの』と言っていたので、てっきりそうかと」
「~~~~っ違うからな! 断じて違う! ……まだ」
「なるほど(にやにや)」
「笑うなクソイケメン殴るぞ」