蝉時雨が鳴いている。
蝉時雨が鳴いている。
肌をじりじりと焼く、照りつける太陽の光よりも焦がれる。
君のその柔らかな手に、僕の手を重ねる手段が思いつかないまま。
いつもの坂道。並ぶ影二つ。
その笑顔を壊したくなくて。今のままの関係で在りたくて。
それでも特別になりたくて。
この感情の名など知らぬまま。
意を決して差し出された僕の手は。
囃し立てるかのように、響き渡る蝉の合唱に負けて、虚空を掴む。
そして今年も変わらない。
変われなかった夏が――終わる。
「あっちゃん。あたしは明日で帰っちゃうけど…また来年も来てもいいかなぁ?」
「…なんで僕にそんな事聞くんだよ」
小学生最後の夏休みも終わりに近づき、帰郷先のこの田舎で帰宅の準備を進める顔馴染みの手伝いをしていた最中。親から任された仕事がひと段落ついたので、縁側で扇風機を回して涼んでいる僕に声がかかったのだ。
恥ずかしいから止めろと言っているはずの、子供っぽい呼び名で僕を呼ぶ奈菜が、そのビー玉のように大きな瞳のまま首を傾げながら、表情を伺うような声で。
「だって〜…。あっちゃん、いつもあたしと居る時不機嫌そう…」
「別に。そんな事無い」
この不機嫌さの理由なんて分からない。
さっき降った通り雨のせいで上昇した、肌に纏わりつくような湿気のせいかも知れない。
或いは物知りなおばあちゃんが教えてくれた、この暑さを増幅させるように鳴き続ける蝉達の、蝉時雨というもののせいかも知れない。
だが本当の原因はなんとなくだが、僕は理解していた。
奈菜がまた、こんな田舎では考えられないような程に便利な都会という街に帰るんだと思うと、無性に腹が立つのだ。
それはもしかしたら、丁度奈菜が帰ってきた時に迎える僕の誕生日に、この村では僕が望んでも到底手に入らないような玩具を、プレゼントとして毎回手渡される事への言い知れぬ敗北感からくるものかも知れない。
なにより。
いつだって、都会で過ごしたその綺麗で柔らかそうな奈菜の手は、田舎で過ごした僕のような泥だらけの手を拒んでいるように見えて、とても嫌だった。
「じゃあどうして?」
「教えない」
「教えないって事は、やっぱり怒ってるんだ…」
「………ぁ」
思わず口をついて出てしまった僕の想いの欠片に、奈菜が気づいてしまった。
『しまった』と慌てて口を噤んだが…時すでに遅し。
奈菜はその頬を盛大に膨らませて、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「なぁ」
「……」
「返事ぐらいしろよ」
「………あっちゃんとは口も聞きたくないもん」
「………」
「………」
「奈菜」
「………何?」
口も聞きたくもないと宣言しておきながら、一呼吸置いて名前を呼べば、簡単に言葉を返す奈菜がおかしくて、僕は思わず笑ってしまう。
「むぅ〜…あっちゃんなんて大っ嫌い!」
それが余程気に入らなかったらしく、頭にかぶっていたお気に入りの麦藁帽子を僕の顔面に叩きつけ、奈菜が家の前の坂道を下っていく。
何処に行くのかと、縁側から障害物などなく見えるその後ろ姿を静観していると…。
「………」
ピタリと。坂の途中まで降りた辺りで、奈菜がその足を止める。
そしてそのまま様子を伺うのように、ゆっくりとこちらに視線を送ってきた。
訳が分からず、困惑顔の僕。幸い、あの距離なら互いの表情までは見えていない。とりあえず
大きく手を振ってみる。
すると今度は―
「あっちゃんの馬鹿ぁ〜〜〜〜〜」
なんと大声を上げてその場で泣き出したではないか。
さすがにその声に大人達も気づいたらしく、『篤!!また奈菜ちゃん泣かせたんか』と怒鳴る母親の姿が見える。
僕はその声に弾き出されるような形で、慌てて逃げるように奈菜の後を追って坂道を下った。
「………奈菜?」
「えへ〜………」
駆け寄ってきた僕を見て安心したのか、奈菜は涙目ながらに笑ってみせる。
そのビー玉のように大きくて綺麗な瞳が、涙に反射した太陽の光でキラキラ輝いていた。
なぜか気恥ずかしさを感じた僕は、どうも先程から奈菜の思い通りに事が進んでしまったような気がして、顰め面のまま目を逸らす。
「ふぇ…」
「ちょ、ちょっと待てくれよ!?どうしてそこで泣くんだよ!?」
「だってあっちゃん、あたしの事見たくなくなるぐらいに怒ってるぅ…」
僕の少し大きくなってしまった声に少し目を潤ませながらもそこまでなんとか言い切ると、奈菜は溢れ出てくる涙を拭いながら、今度はしゃくりあげるようにすすり泣く。
「怒ってない!怒ってないってば!!」
もうお手上げだと言わんばかりに頭を掻くと、僕は俯いた奈菜の涙を拭っている左手首を、涙を拭えなくするために利き手である右手で思いっきり掴み、左上へと引っ張りあげる。
そして―
「いい加減にしろよっ!」
思わず目を瞑りながら俯き、力の限り怒鳴りつけていた。
意味不明なモヤモヤ感に苛まれ、こっちはずっと不快感を募らせている僕。
だが、その原因であるはずの奈菜はこうして好き勝手に感情を爆発させて、その結果、こうしてお守りをさせられている事への理不尽さへの不満さえも、その声に乗せて僕は怒鳴った。
「―……ぁ」
言い終えて、僕は再び『しまった』と思った。
こんな風に怒鳴ってしまえば、奈菜はますます泣き出してしまう。
慌てて弁解しようと、奈菜へと視線を戻そうとした瞬間―
「綺麗…」
嬉しそうに呟く奈菜の声が聞こえた。
呆然としつつも、顔を上げて奈菜の視線の先を見てみる。
そこには、僕が奈菜の手首を掴んでそのまま突き上げた手の先にある綺麗な虹。
そこにある不思議な光景に、思わず僕も目を奪われてしまう。
「あっちゃん、とっても綺麗だよねっ!」
泣いたカラスがまた笑う。
まだ少し残る目の端にある雫を拭おうともせずに、満面の笑みで僕に笑いかけてきた。
「知らないよ!」
その笑みを見て、僕の胸はとてもざわつく。
そしてそれを表すかのように、いつか聞いた蝉達の合唱が鳴り響く。
ただあの時と違うのは僕の手の在り方。
高々と掲げられた僕の手には、いつの間にか綺麗で柔らかそうな奈菜の手が重なっている。
「えへ〜」
重なった手に送られている僕の視線に気がついたのか。
奈菜は虹を見ていた時と同じぐらいに、眩しい笑顔で奈菜が再び笑う。
「なぁ?奈菜」
「うん?」
「……また来年も来いよ」
「―――うんっ!」
その笑顔をわざわざ崩すのはなんだか忍びなくて。
僕はその手を離す事無く、重なった手のひらの先にある虹をいつまでも見ていた。
蝉時雨が鳴いている。
僕の心臓の音よりも遥かに小さい。
控えめな、にわか雨のように。
【END】
≪後書き≫
このような駄文を最後まで読んで下さり、まことにありがとうございました。
もし宜しければ、この作品へのご意見・ご感想をお願い致します。
如月自体、短編というものは執筆するにあたってとても苦手な部類にありまして、今回も思い立ってから少々時間が経ってしまってお恥ずかしい限りであります。
しかし、試行錯誤ではございましたが、多少は良い作品に仕上げられたのではないかと、如月的には勝手に思い込んでおります。
子供の頃、下らない事に優劣をつけて勝手に怒ったりした記憶はありますでしょうか?
それが好意を寄せる相手であったのなら…あなたはどうしていたでしょうか?
この作品を読んで、そんな昔の自分を少しでも思い出して、苦笑いのひとつでも浮かべて下さった方が一人でもいらっしゃったのなら。
この作品は本懐を遂げた事となるでしょう。
それではこれを読んで下さった皆様が、少しでも心が休まる時を過ごせる事を願いまして。
如月コウでした(礼)