追放された令嬢は声量を活かしてオペラ女優になりました
王家の晩餐会。
煌めくシャンデリアにビロードのカーテン。色とりどりのドレスに身を包んだ貴婦人と、エスコートする紳士達。
壇上には金と深紅の衣装に身を包んだ王太子と、彼に肩を抱かれて寄り添う令嬢の姿があった。
「アデライド、お前がシャーリーをいびっていたことは誰もが知っている!私は真実の愛を守るために婚約破棄する。お前は国から追放だ!!」
その段下には、人だかりの輪の中心で俯いている一人の伯爵令嬢の姿があった。
結い上げた金髪と緑色の瞳の美女。柔らかな女性らしい身体に、王太子に合わせた深紅のドレスを身に纏っている。
「男爵令嬢がひどく虐め抜かれていたらしいな…何て下品な」
「ちゃんと令嬢に謝れ!」
「殿下はお優しいですね。国内追放で済ませるなんて…」
貴族達の下卑た野次を打ち破ったのは、アデライド自身だった。
「私は誓って何もしておりません」
朗々とした声がホールに響き渡る。
清楚だが弱々しくはない、かと言って感情任せでもない。
その声に、沈黙が落ちる。
王太子の目には、彼女が胸の少し下を押さえて身じろぎをしたように見えた。
しかしそれはコルセットの位置をずらして肺に空気を溜めていた動きだった。
深く呼吸をすると、アデライドは声帯を開いて声を上に広げる。その声は会場の高い天井によく響いた。
「殿下が公式の場で挨拶以外は話すなとおっしゃったのに、どのように彼女と関わるのですか?私が彼女に話しかけるのをどなたもご覧になったことはないでしょう。それなのに虐める瞬間を見たとは、不思議ですね」
王太子が怒鳴る。
「そんなのはでたらめだ!大体…」
「ご自分のお言葉には責任をお持ち下さい!」
更なる声量で黙らせる。
ホールは異様な空気に包まれていた。
王太子の隣の令嬢も音圧に怯んでいる。
アデライドは内心ほくそ笑んでいた。武術も芸術も逃げ回って遊んでいた王太子には肺活量と声の張りで負ける気がしない。
立ち上がったアデライドは優雅に手を広げて喉を震わせる。
「伯爵家は関係ありません。咎を受けるのは私一人にして下さい。よろしいですね?」
「…過ちを認めるんだな」
「私、歌えない人生に意味はあるのだろうかと考えておりましたの。そういう意味では、過ちを認めます」
歌うような節に語尾にかかる揺らぎ。
アデライドは喉がしまる感覚が嫌で、ちゃんと言葉を届けようと望むと腹式呼吸をしてしまう。
感情を伝えようと願うと声帯を広げてしまう。
更に周囲の人間にとって不幸だったのは、彼女の音域の広さとよく通る美声だった。喜びも悲しみも天然の拡声器で広げられてしまう。
家族や王太子から「公的な場で歌うな、話しかけるな」と言われていた所以である。
「私は私の潔白を分かっています。そしてあなた方も本当は分かっている。それは次第に心を蝕んでいくでしょう」
それは歌劇の魔女が、姫を呪う時のような声音だった。
語尾に僅かな寂しさと恨みが滲み、深く胸に刺さる。
それは半分は彼女の声質と技術によるものだったが。
彼女は優美にカーテンコールの礼をして、沈黙に包まれた会場を後にした。
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隣国へ渡った彼女の劇場デビューの記事は、しばらくして祖国まで届いた。
瞬く間に彼女の歌は観客を席巻し、隣国ではアデライドの身分のことなど口にする者はいなかった。
その美貌、声量、表現力。そして劇場の新作の話で持ちきりだった。
「アデライドは今や国で一番のプリマドンナと言われている」
タブロイド紙の表紙を読み上げて、アデライドはせせら笑う。
「悲劇が得意?当たり前でしょう、半年前は実際にあの国で最も不幸な女だったのですから」
向かいに座った男は長い脚を組み替えてタブロイドに視線を落とす。
切れ長の双眸を怪訝そうに彼女に向けた。
「本当に落ち込んだのか?君が?」
「落ち込みましたわよ。そんな罪をでっち上げて、何とかなると思っていた殿下や愛人さんや取り巻きにね」
降ろした巻き毛を指で弄ぶ。
「けれど拾って頂いた教会で讃美歌が話題になって、クローヴィスがスカウトに来た時はさすがに驚きました」
「一目惚れだった」
タブロイドを机に放って、クローヴィスは手前に置いた台本を手に取る。
国一番のプリマドンナがアデライドなら、国一番の劇作家が彼だった。
長い黒髪を一つに束ね、仕立ての良いベストとシャツにループタイを締めている。
整った顔立ちだが、目元の深い隈と鋭い眼光が、近寄りがたい印象を与えている。
「今、時代は男性に守られるだけの女性よりも自分で運命を選び取る女性が支持されている。君はそこへ来た超新星だと思った」
「熱烈ですわねぇ」
「実際、初演で君の歌を聞いたご婦人方の嗚咽はすごかっただろう。勇気を貰えるんだ、君の声は」
アデライドは葡萄酒のグラスを傾けた。
「勇気、ですか」
ソファの肘掛けにもたれて、クローヴィスが広げている台本の表題を眺めている。
「私、歌劇を観るのも演じるのも大好きですが、自分を変えたいと思うような作品には出会ったことがありませんの」
「まだ、出会ったことが無い」
クローヴィスは静かに訂正する。
「強い人間ならば何にも憧れない?そんなことはない。君が持っていないもの、かつ欲しいものに気付けていないだけだ」
「そんなものが、必ずしもあるものなんですか?」
懐疑的なアデライドに、彼は皮肉っぽく笑う。
「憧れを持っていないなどと言う奴は欺瞞だ。欲しがらないための言い訳だな。あるいは感受性が鈍い」
「私、感受性には自信があります」
「だから、まだ出会っていない」
「へぇ…」
気のない相槌をしてグラスを置くと、アデライドはソファに横たわった。
さらりと長い髪が肩に落ちる。
「こら、寝るなら自分の部屋へ行け」
クローヴィスは台本に万年筆で何かを書き込みながらちらりとアデライドに目を遣る。
アデライドは微睡みに身を委ねて目を閉じていた。
「クローヴィス、恋をしたら歌は変わりますか?」
「…ん?」
手を止めて、目線をアデライドに向ける。
「私、感受性が豊かなので恋も愛も歌えてしまうのよね。本当の恋を知ったら、何が、変わるのだろうかと思って…」
アデライドはゆっくりと瞼の下で夢に落ちようとしている。
「憧れるものがあるとすれば、自分を変えるような何かに憧れる体験かしら…私を破滅に巻き込んだような盲目的な恋は…まっぴらだけど…」
うわ言のように話し続けるのをクローヴィスは眺めていた。
「恋は知ってみたい?」
「歌手としてね…」
寝息を立てはじめたアデライドに、彼は足音を立てないように近付く。
垂れて床につきそうな金髪を一房、そっと持ち上げた。
「…本当に知りたいのか?」
その呟きに答える者はいなかった。
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「王宮歌劇場でのこけら落としィ?」
とある日のクローヴィスの書斎。
祖国から届いた書状を読み上げさせたアデライドは目を剥いた。大きな目を更に見開いたせいで長い睫毛が天井を向いている。
「珍妙な顔をするな」
クローヴィスは冷静だった。
「我々が演じた後、正式な謝罪と信頼関係の回復を行いたいと。君の国の王族は独特な感性をお持ちのようだ」
冷静ではあるが、何も感じないわけではない。
「歌うなと言ったり、歌えと言ってきたり。金糸雀でももう少し丁寧に飼われているのではないかしら」
アデライドは鼻で笑って革張りのソファに背を預けた。
緩く体重をかけると紫のドレスがソファの上に広がる。
「陛下がこんな馬鹿げたことを許可するなんて。シャーリー嬢と殿下は上手く行ってないのかしら」
「正式に婚約はしていないらしい」
「ほほ、真実の愛が泣くわね」
すぐに興味を失くしたアデライドは、顎から耳にかけてマッサージを始めた。真実の愛などより扁桃腺の状態が気に掛かる。
「わざわざこんな舞台を用意するなど、よもや君を取り返そうとしているのではないか」
クローヴィスは手紙に目を通しながら、空いた手でトントンと机を叩いている。
日程、待遇、報酬。どれも不足は無いが気に食わない。
彼女はクローヴィスの危惧を鼻で笑う。
「平民の女優を?人気取りにしたってもう少し賢い方法があるでしょう」
「だが支持率を上げるには、君のカリスマ性があれば手っ取り早いだろう。最高の劇場を用意して手に入るならば」
「本当に、がっかりですね。そんなことで心を動かす人間だと思われているなら」
つい声が大きくなってしまい、強制的に指で顎を閉じる。
「あまり強く触るな、逆に痛めるぞ」
「分かってます」
クローヴィスは積まれた楽譜の上に雑に手紙を置くと、アデライドに視線を向けた。
「それで、どうする?」
「売られた喧嘩は買います」
美しいフェイスラインを指でなぞるアデライドを、彼は遠くを見るように見つめる。
舞台に立つアデライドを思い浮かべている目だ。
「君が主役の戯曲を書き下ろす。要望があれば聞こう」
「何でもいいですよ…あ、私が憧れるような戯曲がいいです」
「ほう」
クローヴィスは片眉を上げた。
「君が自分でも分かっていないものを、私が差し出せると思っているのか?」
「他人しか差し出せないのでしょう、憧れというものは」
アデライドはソファから立ち上がると、クローヴィスの机に腰掛けた。
自信に満ち溢れて輝く碧の瞳が彼を見下ろしている。
「なら、あなたが用意して。完璧に歌い上げるから」
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作られた戯曲は、よくある恋物語だった。
一人の令嬢が騎士と出会って、恋に落ちる。
しかし彼は戦場で命を落としてしまう。最後には彼を弔い、自分の足で歩いていく。
ラストシーンは家族や友人に囲まれ、相手役はいない。
悲劇だが、自立の物語でもある。
「これが、私の憧れ?」
とんだ肩透かしだ。初めて脚本を読んだ彼女の顔にはそう書いてあった。
「愛の歌、喪失の歌、自分であることを歌う歌。どれも君が気持ち良く歌えるものを用意した」
彼は脚本を広げて、長い黒髪の下でアデライドを揶揄うように目を細めていた。
「私に出来るのはこれぐらいだよ」
そう笑っていたクローヴィスは、今は舞台袖にいて姿は見えない。
スポットライトに照らされたアデライドは、指を組んで背筋を伸ばす。
金の刺繍が施された鮮やかなエメラルドグリーンのドレスは、彼女の呼吸に合わせてドレープが波打った。
段下のオーケストラの指揮者が指揮棒を振り上げる。
アデライドは前奏に合わせて深く息を吸いこんだ。
黄金の柱とベルベットの緞帳の中心で響き渡る歌声。
王宮歌劇場を埋め尽くした観客が、一人残らずアデライドを見ている。
彼らが以前のように軽蔑した目を向けることも、口元を歪めて何かを囁くこともない。目を潤ませて夢中で彼女の声に耳を傾けている。
弦楽器と管楽器の重なってゆく音に合わせて大きく身体を開き、感情を解放する。
気持ちよく歌える。身体も温かい。
この国に戻ってくるつもりは無かったが、劇場の板の上に立つ感覚が自分を支えていた。
アデライドはシャンデリアを見上げて声を天井に反響させる。
恋とは相手を慈しむことであり、自分を許すことでもある。
そして今、この舞台の中心で許されているのは自分だ。
アデライドはふと気がついた。
憧れとは御伽噺の中ではなく、自分らしく生きる場所をくれる存在にこそあるのだと。
歌いながら、胸の奥に熱い何かが広がっていくのを感じていた。
王太子の横のシャーリーが扇子で口元を覆ってアデライドを見下ろしている。
その目に仄暗く宿った光が、敵意なのか羨望なのか、アデライドには判別がつかなかった。あるいは両方かもしれない。
喪失の歌では、黒い服を着た民衆たちがアデライドを置き去りにしていく。
黒いヴェールで顔を半分覆われたアデライドは棺に百合を手向けると、その場で悲嘆に暮れて歌い始める。
重心を落として俯き、顎の筋肉を微細に震わせる。
熱が冷めるような感覚と共に、追放された夜の記憶を余韻に混ぜ込んだ。
悲しい。悔しい。
何より辛いのは、ただそれを見ていることしか出来なかった自分だった。
静かな怒りが、捨て去りたいのにまだ喉の奥に留まっている。
悲痛に震えるバイオリンとチェロの弦に乗せて、あの日の自分を迎えに行く。
眉間に深く皺が刻まれ、喉の奥が狭まり絞り出すように声を送り出す。
(…皮肉なものよね)
しかし今は、未知の感情を与えてくれたお陰でこの歌をより深く歌えている。
ハンカチで目元を押さえる観客やすすり泣きを振り払うように舞台袖へ捌ける。
ヴェールの下から貴賓席を見ると、呆然としている王族達の顔が視界に入った。
「よくやった」
裏に控えていたクローヴィスが、そっと肩に触れた。
アデライドは黒いドレス姿で、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「スッキリしましたわ」
「そうか」
その落ち着き払った表情を見てアデライドは眉を寄せる。
「…あなた、まさか私の為に?」
クローヴィスはふっと口の端に笑みを浮かべた。
「よくある脚本だろう」
民衆たちが集まり、フィナーレの歌を歌い始める。
その間に裏に控えていた劇団員がアデライドの衣装を着替えさせる。
長さが足首まである麻のワンピースに、背中を編み上げたベルベットのコルセット。こちらの国の伝統的な平民の衣装だ。
「行ってこい」
「ええ」
アデライドはクローヴィスの声に背中を押されて、光の中へ入っていった。
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カーテンコールが終わり、アデライドはクローヴィスと共に貴賓室へと招かれていた。
「素晴らしい舞台だった」
「ありがとうございます」
王太子とシャーリーに深く礼をして、引き攣った顔を誤魔化した。
「アデライド、君は素晴らしい女優だ。そのような才能を隠していたのが残念でならないよ」
「はぁ?」
思わず声が漏れる。王太子は軽薄な笑みでアデライドに近付く。
「君が望むなら、私から個人的に支援することもやぶさかではない。今の君はとても魅力的だ」
王太子の目線がアデライドの顔へ向いている。そこから胸元、くびれ、脚と視線が落ちる。
クローヴィスは無言で王太子を見ていた。
「君達の劇団に、この劇場で演じる許可を与えようと思う。これからも国民に希望を与えて欲しい」
「王太子から婚約破棄されても、芸事が出来ればおこぼれを貰えますよって?」
アデライドは自分で発した言葉に可笑しくなって声を上げて笑った。
「ほほほ。大した希望ですわね!」
つい腹に力が入り、高笑いが分厚い革張りの扉を貫通して部屋の外まで響く。
「許可も支援も必要ありません。私、お別れを言いに来ましたの」
「何だと?」
「今日が私達の千秋楽です。再演は御座いませんので、あしからず」
アデライドはドレスの裾をつまんで優雅に礼をすると、涼しい顔をしたクローヴィスの腕を取って、踵を返す。
そして呆然としている王太子と苦々しい顔を扇子で隠したシャーリーを置き去りにして、二人は歌劇場を後にしたのだった。
裏口に控えさせていた馬車に乗り込みながら、クローヴィスはアデライドを見てにやりと笑う。
「素晴らしい。次の戯曲に使いたくなるような台詞だった」
「使ってもよろしくてよ」
アデライドはドレスの裾を翻して、クローヴィスの向かいではなく隣に座った。
馬車の扉が閉められる。
「クローヴィス、ごめんなさいね。もうこの国では演じられなくなりましたわ」
「特に困らない。変わらず自国で演じるだけだ」
馬車の歯車の音がガタゴトと響く。
アデライドは無言で腕を組むクローヴィスを見やり、悪戯っぽく笑う。
「どうしたんです。もしかして、王太子に嫉妬でもしましたか?」
「していない。ただ…」
クローヴィスは即座に首を振って否定したが、その眼光が鋭くなる。
「あれが君の身体を見ていた時は殺してやろうかと思った」
「あら」
彼女は笑みを浮かべて、クローヴィスの頬に触れる。
「あなたにもそういう感情、ありますのね」
「心を寄せている女をあんな風に見られて平気な男などいない」
アデライドは咄嗟に何も言えずに、目を開いてクローヴィスを見つめる。
クローヴィスは彼の頬に触れたアデライドの手にそっと自分の手を重ねた。
「言っただろう。一目惚れだったと」
「…ええ」
狭い馬車の中、膝が触れ合いそうな距離で二人は向かい合う。
「君の答えを聞いても?」
アデライドは答えずに、そっと唇を重ねた。
すぐに離れて柔らかく微笑む。
「今日の歌が答えよ」
「…なるほど」
クローヴィスは満足そうに頷くと、いつもの調子で呟いた。
「さっさと帰って次の公演に備えよう」
アデライドの大きな瞳が期待に輝いた。
「そうしましょう。また新しい歌が歌えそうなの」




