第36話:デバッグ・属性付与(エンチャント)と、物理レイヤーによる強制干渉
「逃げろと言ったはずだ、セリス!」
俺の声は、空間が軋むような不快なノイズに掻き消されそうになる。
黒い立方体から溢れ出した「Null」は、実体を持たない影のように広がり、触れた棚や魔導具を次々と「存在しないデータ」へと書き換えていく。
「騎士が、守るべき者を置いて背を向けるなどあり得ん! レイジ殿、私にはアレが何なのかは分からぬ……だが、あれは『悪』だ!」
セリスが剣を抜き、その切っ先を侵食する闇へと向けた。だが、彼女の剣は虚空を虚しく切り裂くだけだ。物理法則そのものが欠落している領域に、質量を持つ剣を振るっても意味はない。
「……頑固だな。分かった、ならプランを変更する。その剣を貸せ。いや、剣の『定義』を書き換えさせろ!」
俺は残り少ないHP(0.5)を振り絞り、震える指でコンソールを叩く。
目の前の空間を侵食する「Null」は、プログラムでいうところの未定義参照(Null Pointer Exception)だ。ならば、対抗策は一つ。その参照先に「意味」を強制的に叩き込むしかない。
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### 【管理者コマンド実行:Object_Attribute_Injection】
* **対象:** セリスの聖騎士剣(Holy Knight Sword)
* **プロパティ変更:**
* `Physics_Layer` = **OFF**
* `Logic_Intervention_Mode` = **ON**
* `Attribute` = **"Debug_Patcher"**
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「いいか、セリス! 今からその剣に『デバッグ属性』を付与する。今のそれはただの鉄塊じゃない。世界のバグを切り取り、整合性を合わせるための『修正パッチ』だ!」
俺がコンソールの「Enter」を強打した瞬間、セリスの剣が青白いバイナリの光に包まれた。剣身の周りには、複雑な数式とコードが回転するエフェクトが重なり、本来の重厚な騎士剣とはかけ離れた、デジタルな輝きを放ち始める。
「これは……! 手に取るだけで、世界が『違って』見える……?」
「それが管理者権限の視界だ! セリス、そのクロック(剣)で、侵食の『中心』を叩け! 座標 `(X:102, Y:455, Z:021)` だ!」
セリスは迷わず地を蹴った。
普段の彼女なら不可能なはずの速度。重力や空気抵抗といった「物理定数」すら俺が一時的に書き換えた結果だ。
「はああああああっ!」
青い閃光が、漆黒の「Null」を真っ二つに切り裂く。
本来ならすり抜けるはずの影が、セリスの剣に触れた瞬間に「0」と「1」の塵となって霧散していく。
「レイジ殿、手応えがある! これは、斬れるぞ!」
「よし、そのまま一気にその立方体を叩き壊せ! 奴らの用意した悪意あるコードを、物理的にデリートしてやる!」
セリスの剣が、ひび割れた黒い立方体の中心へと突き刺さった。
瞬間、倉庫全体に激しい静電気のような衝撃が走り、俺たちの視界がホワイトアウトする。
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数秒後、光が収まると。
そこには、粉々に砕け散った黒い石の破片と、荒い息を吐きながら剣を構えるセリスの姿があった。
侵食されていた空間は元に戻り、消えたはずの棚の一部も(少しテクスチャがズレているが)実体を取り戻している。
「……ふぅ。なんとか、パッチ適用成功、だな」
俺はそのまま、緊張の糸が切れて床に崩れ落ちた。HPはついに **0.1** まで低下し、視界の端で「Low Battery」の警告灯が点滅している。
「レイジ殿! 大丈夫か、今すぐさらなるポーションを……!」
「……待て、セリス。ポーションより先に、ガメイルを見ろ」
セリスが振り返ると、気絶していたはずの商会主人ガメイルが、真っ青な顔で立ち上がっていた。だが、その瞳には先ほどまでの強欲な光はなく、ただ虚ろに一点を見つめている。
「……消えた。消えた、消えた、消えた。ログが、ログが足りない……」
「ガメイル?」
「レイジ、離れろ!」
俺は叫んだ。
ガメイルの背後の空間が、先ほどの黒い立方体以上に歪み始めている。
そこから現れたのは、影のような男。ガメイルが言っていた「灰色のローブの男」だ。
「……おや、まさか私の『ゴミ箱(Garbage Bin)』を力技で閉じるとは。この世界の人間にしては、少々『権限』を持ちすぎているようだね、君は」
男の顔は見えない。だが、その存在そのものが、この世界のどのオブジェクトよりも「解像度が高い」ことを、俺のコンソールが告げていた。
「世界のラグを解消するとか言ってたのは、あんたか。……いい趣味だな、システムエンジニア気取りか?」
俺は震える足で立ち上がり、中指を立てて笑ってやった。
HP 0.1。だが、この「不法侵入者」の正体を突き止めるまで、落とせる電源なんて持っちゃいない。




