第25話:ログアウト後の日常、またはハードモードな余生
朝、目が覚めると、腰が痛かった。
以前の俺なら、それは「ステータス異常:筋肉痛」としてアイコンひとつで処理され、クリックひとつで回復できた生理現象だ。あるいは、ベッドの硬度パラメータを調整して快適な睡眠を定義することもできただろう。
だが今は違う。
俺は呻き声を上げながら、煎餅布団から体を起こした。
「いてて……。物理法則が、容赦なく俺の背骨に重力を掛けてきやがる」
虚空に手をかざして、習慣でコンソールを開こうとする。
当然、何も起きない。
青いウィンドウも、エラーログも、自分自身のHPバーすら表示されない。
そこにあるのは、窓から差し込む朝日と、埃が舞う木造宿屋の天井だけだ。
「おはよう、レイジ。まだ寝ぼけているのか?」
部屋のドアがノックもなく開き、セリスが入ってきた。
銀色の鎧を脱ぎ、ラフな麻のシャツを着ている。その手には、湯気の立つ盆があった。
「まだGUIを探す癖が抜けなくてな。……朝飯か?」
「ああ。今日は豪華だぞ。パン屋の主人が『世界を救った英雄に』って、焼きたてをくれたんだ」
盆の上には、黒パンとスープ、そして俺が世界にねじ込んだ「コーヒー」によく似た、泥色の液体が入ったカップ。
匂いを嗅ぐ。焦げた麦と、謎の薬草の香りがする。
一口飲むと、強烈な苦味が舌を直撃した。
パラメーターで調整された「完璧な味覚」ではない。雑味があり、不揃いで、喉越しが悪い。
「……うん。不味い」
俺は顔をしかめた。
「そうだろう? でも、なぜか笑っているな」
セリスの指摘に、俺は頬を緩めたままカップを置いた。
「ああ。不味いっていう情報が、ノイズなしで脳に届く。これが『生きてる』ってことなんだろうな」
◇
朝食を終えた俺たちは、王都のギルドへ向かった。
管理者権限を失った今、俺は無限のゴールドを生み出す錬金術師ではない。宿代を稼ぎ、明日のパンを買うために働かなくてはならないのだ。
街は復興の真っ最中だった。
瓦礫の撤去作業、建物の修復。人々は汗を流し、大声を掛け合いながら動いている。
「おい、そこの柱! 垂直(Y軸)が出てないぞ! 重心計算が甘い、あと3度右に傾けないと崩落イベントが発生するぞ!」
俺は建設現場の親方に声をかけた。
「ああん? 何言ってんだ兄ちゃん……って、救国の英雄様じゃないか!」
親方が俺の顔を見て目を丸くする。
「英雄じゃなくていい。今はただの技術コンサルタントだ。……その梁の強度計算、材質定数から見て限界値ギリギリだろ。補強材を入れろ」
俺は地面に木の枝で図面を引いた。魔法もスキルも使えないが、頭の中にはこの世界の物理演算エンジン(仕様書)が全て入っている。どの角度で組めば摩擦係数が最大になるか、どの材質を使えば耐久値が保てるか。それを「知識」として提供することは可能だ。
「すげえ……! 魔法を使ってないのに、ピタリと組み上がったぞ!」
「あんた、天才建築士だったのか!?」
「元SEだ。構造設計も仕様策定も似たようなもんだよ」
親方から感謝の印として銀貨数枚を受け取り、俺たちは再び歩き出した。
セリスが呆れたように、しかし誇らしげに俺を見る。
「HP1で、腕力もない。魔法も使えない。なのに、口先と知識だけで街を動かしていく。……お前は本当に変わらないな」
「それが俺の生存戦略だからな」
ギルドに着くと、ミナとエルダが待っていた。
「遅いわよ、レイジ! 今日受ける依頼、決めておいたから」
ミナが掲示板から剥がしてきた羊皮紙を突きつける。
【依頼:巨大地下水道の清掃】
【ターゲット:ジャイアント・スラ ime × 5】
【報酬:金貨10枚】
俺は一瞬で顔をひきつらせた。
「却下だ。却下、却下、絶対却下!」
「えー? スライムよ? 初心者向けの雑魚じゃない」
「バカ言え! 今の俺にはオートガードも痛覚遮断もないんだぞ!? スライムの酸で溶解されたら即死、滑って転んで頭打っても即死、何なら下水の悪臭でショック死する可能性だってある!」
俺のステータスは【HP: 1/1】。
これはゲーム用語の「オワタ式」などという生易しいものではない。現実において、躓いて膝を擦りむくだけでも、HPの10%を持っていかれる感覚だ。感染症にかかればバッドステータスが重なり、回復魔法が間に合わなければロスト(死亡)する。
「心配性ねぇ。私たちが守るって言ってるでしょ」
ミナが杖をくるくると回す。
「防御率99%でも、残り1%が貫通したら俺は死ぬんだよ。……受けるならこっちだ」
俺は掲示板の隅にある、誰も見向きもしない地味な依頼を指差した。
【依頼:古代文字の解読と、遺跡の分類】
「これならデスクワークだ。俺の言語解析アルゴリズム(知識)が火を吹くぞ」
「地味ーっ!!」エルダが叫んだ。「せっかく冒険者になったのに!」
「うるさい。俺は『生存』を最優先する。冒険はもう十分味わった」
すったもんだの末、結局「薬草採取の護衛(という名目のピクニック)」に落ち着いた。
◇
王都近郊の森。
日差しは柔らかく、風は心地よい。かつてバグモンスターやデーモンと死闘を繰り広げた場所とは思えないほど平和だ。
俺は慎重に――極めて慎重に、足元の小石を避けながら歩いていた。
「レイジ、そんなに抜き足差し足で歩いて、疲れない?」
エルダが薬草を籠に入れながら笑う。
「笑い事じゃない。この世界の地形コリジョン(判定)は意外と粗いんだ。木の根っこに足を取られただけで、俺の脛はクリティカルヒットを受ける」
パサッ。
頭上から、どんぐりが落ちてきた。
それが俺の脳天を直撃する。
「いっ、づぁあああ!?」
俺はその場にうずくまった。
痛い。涙が出るほど痛い。視界が明滅する気配はないが、ジンジンとする鈍痛が頭蓋骨を走る。
「レ、レイジ!?」
セリスが剣を抜いて周囲を警戒する。「敵襲か!?」
「違う……どんぐりだ……。あー、死ぬかと思った。今、確実にHPが0.2くらい減った……」
俺が涙目で額をさすると、三人は顔を見合わせ、それから森に響くほどの大爆笑をした。
「あはははは! 世界を救った英雄が、どんぐりで死にかけてる!」
「最高に『最弱』ね、貴方は!」
「笑うな! こっちは真剣に生きてるんだ!」
俺は草の上に寝転がった。
泥が服につく。虫が近くを飛んでいる。背中は少し冷たい。
けれど、かつて管理画面越しに見ていた世界よりも、ずっと解像度が高かった。
痛いという感覚。寒いという感覚。腹が減る感覚。
それら全てが、俺が「ここ」にいるというログ(証明)だった。
「ねえ、レイジ」
エルダが俺の隣に座り込む。
「管理者をやめて、後悔してない?」
俺は木漏れ日を見上げた。
指を動かしても、空の色を変えることはできない。
コードを書いても、過去を改変することはできない。
ただ、流れる時間の中で、不便な体を引きずって歩いていくだけだ。
「後悔? まさか」
俺は笑って答えた。
「今の俺は、デバッグモード(無敵)じゃない。だからこそ、次に何が起こるか分からない。明日のシナリオが決まってないっていうのは、最高にスリリングなゲームバランスだと思わないか?」
「……ふふ、そうね。貴方らしいわ」
セリスが採取した野イチゴを放り投げてきた。
俺は慌てて両手でキャッチする。取り損ねて顔に当たったら、またHPが減りそうだったからだ。
「帰ったら、このイチゴでジャムを作ろう。泥水コーヒーのお供にな」
「それはいい。砂糖たっぷりで頼む」
風が吹く。
システム・デーモンのいない風。
開発者の絶望が含まれていない風。
俺たちは立ち上がり、王都への道を歩き出す。
俺の歩幅は小さく、仲間たちに守られながらだが、その足取りは確かだった。
元・最強の管理者。現・最弱の一般人。
加賀見レイジの、愛すべき「クソゲー」攻略は、まだ始まったばかりだ。
【クエスト完了:一日を生き延びる】
【報酬:ささやかな充実感、筋肉痛、甘酸っぱい野イチゴ】
【経験値:プライスレス】
【作者コメント】
これにて、本当のエピローグとなります。
どんぐりで死にかける主人公ですが、彼にとってはそれこそが「望んだ現実」です。
長い間、彼らの旅路にお付き合いいただき、ありがとうございました!




