第2話:物理演算エンジンの不具合と、最初のNPC
目の前には、地面にめり込んだ巨大な狼の死体があった。
本来なら、冒険者がナイフを使って皮や牙を剥ぎ取る場面なのだろう。だが、そんなアナログな作業でスーツを汚す気にはなれない。
俺は空中にウィンドウを展開し、死体の上にある透明なアイコンをタップした。
【右クリック > 全て回収】
シュンッ、という電子音と共に、バス並みの巨体が粒子となって消え、俺の『インベントリ』領域に格納された。
「……重量制限の概念はなしか。ぬるい仕様だ」
リストを確認すると、『ケルベロスの毛皮×1』『魔石(ランクA)×1』が並んでいる。
ついでに、先ほどの戦闘(というか処理実行)でレベルが上がっていた。
【Lv: 1 -> 15】
【ステータスポイント:70を獲得】
俺は迷わず、すべてのポイントを 『敏捷(AGI)』 と 『演算処理速度(INT)』 に振った。
HP(体力)やSTR(筋力)に振ったところで、どうせ「1」が「10」になる程度だ。ドラゴンに殴られれば等しく死ぬ。ならば、敵が攻撃モーションに入る前にコードを書き換える速度こそが、俺の生命線となる。
「さて、移動するか」
森の出口とおぼしき方角へ歩き出す。
一歩踏み出すたびに、視界の隅に流れるログを確認する。気温、湿度、風速。この世界の環境変数は驚くほど細かく設定されている。無駄に高画質だが、その分処理落ちしそうな世界だ。
30分ほど歩いた頃だった。
「――っ、誰か! 誰かいないか!」
女性の悲鳴。
ベタだ。あまりにもベタすぎる。
「ランダムエンカウントか。もしくは、チュートリアルイベントのフラグが立ったか」
無視してもよかったが、この世界の地理情報を持っていないのは不便だ。情報源は確保しておくべきだろう。
俺は革靴のつま先をトントンと地面に叩きつけ、自分の座標移動速度(歩行スピード)の係数を『1.5倍』に書き換えてから走り出した。
森が開けた場所に、その光景はあった。
銀色の軽鎧をまとった金髪の少女が、大木を背にして剣を構えている。
顔立ちは整っているが、鎧は泥だらけで、左腕からは血が流れていた。
彼女を取り囲んでいるのは、10匹ほどの緑色の小鬼――ゴブリンだ。
「ギャギャッ!」
「ギヒヒッ、女騎士ダ! 苗床ダ!」
下品な笑い声を上げるゴブリンたち。
俺は木陰からその様子を冷静に観察した。
(装備の耐久値は限界に近い。スタミナ残量は約15%……あと2分で彼女は積むな)
助けるにしても、正面から飛び出して剣を振るうなんて真似はしない。
俺は右手をかざし、コンソールを開いた。
「対象範囲選択(Select Range)。敵対性モブ(Hostile_Mob)を指定」
ゴブリンたちの頭上に赤いマーカーが点灯する。
さて、どう料理するか。
コマンド一つで『削除(Delete)』することも可能だが、それだとドロップアイテムまで消滅する可能性がある。それに、あまり派手な干渉を行うと、女神とやらが言っていた「エラー」が発生するリスクもある。
「最小限の改変で処理する」
俺はゴブリンたちが踏みしめている地面のプロパティにアクセスした。
[Object: Ground_Soil]
[Property: Friction (摩擦係数) = 0.8]
俺はその数値を書き換えた。
[> Update Friction = 0.0]
エンターキーを叩く(イメージをする)。
「ギャッ!?」
先頭のゴブリンが飛びかかろうと足に力を入れた瞬間、ツルリと滑って盛大に転倒した。
いや、転倒という生易しいものではない。摩擦がゼロになった地面は、氷の上よりも滑る。
立ち上がろうと手をついても滑り、足掻けば足掻くほど、彼らはその場で回転し、お互いに激突し始めた。
「ギャグベッ!?」
「ゴギャ!?」
まるでピンボールのようにぶつかり合い、その勢いで後頭部を岩に強打する者、味方の剣が刺さる者。
物理演算がバグったゲーム映像のような光景が広がる。
女騎士は、目の前で起きているコントのような惨状に、剣を持ったまま呆然としていた。
「な、なに……? 何が起きているの……?」
「摩擦を消しただけだ」
俺は木陰から姿を現した。もちろん、俺の靴底には『滑り止め(グリップ補正)』のコードを付与してある。
「だ、誰だ!?」
女騎士が警戒して剣をこちらに向ける。
「通りすがりのエンジニアだ。礼はいいから、さっさとトドメを刺せ。そいつら、もう立てないぞ」
彼女は戸惑いながらも、地面で芋虫のように転がり続けるゴブリンたちを見下ろし、意を決して剣を振り下ろした。
動けない相手を斬るのは簡単だったようだ。数分後、すべてのゴブリンが黒い霧となって消滅した。
戦闘終了。
俺はすぐさまゴブリンたちが落とした『汚れた短剣』や『小鬼の腰布』を、一括操作でインベントリに放り込んだ。リサイクルショップ(道具屋)で売れば小銭にはなるだろう。
「あ、あの……!」
女騎士が剣を収め、俺の方へ駆け寄ってきた。
近くで見ると、なかなかの美人だ。グラフィックデザイナーはいい仕事をしている。
「貴方が魔法で助けてくれたのか? 詠唱も聞こえなかったが……見たことのない服装だな」
「魔法じゃない。環境設定をいじっただけだ」
「カンキョウ……? 宮廷魔術師の方か?」
話が通じない。まあ、NPCにOSの概念を説明しても無駄か。
俺はため息をつき、スーツのポケットに手を突っ込んだ。
「名前は加賀見レイジだ。ここから一番近い街へのルート(経路)を知りたい。Foobleマップが圏外なんでな」
「グーグル……? 私はセリス。セリス・フォン・アーデルハイトだ」
彼女――セリスは、姿勢を正して騎士の礼をとった。
「レイジ殿。命を救われた恩は重い。もしよければ、私が所属する王都騎士団の詰め所まで案内させてほしい。そこなら、まともな食事と休息も提供できる」
食事。休息。
俺の脳内でタスクリストが更新される。
【クエスト発生:王都への道】
【報酬:安全な宿と飯】
悪くない取引だ。野宿でHP1が削れるリスクは避けたい。
「交渉成立だ、セリス。案内してくれ」
俺がそう答えると、セリスは少し不思議そうな顔をした。
「レイジ殿は……不思議な人だな。まるで、この世界の外側から来たような……」
「外側?」
俺は空を見上げた。
青い空。白い雲。だが、その向こう側には無限のバイナリコードが流れていることを、俺だけが知っている。
「ある意味では、世界を作った連中(開発者)よりも、この世界の仕組みに詳しいかもしれないな」
俺は薄く笑い、歩き出した。
とりあえず、最初のデバッグ作業は成功だ。




