第16話:残響の網と、最後の合図
王都に戻ってから数日、街は疲労と希望の狭間で揺れていた。公開リポジトリには市民の注釈が増え、監査チームは夜を徹してログを読み解く。だが外部勢力の断片はまだ散在し、ARCHIVE-STEWARDやCORE-ADMINの名は断続的に浮かび上がる。最後の鍵を巡る合意は一歩前進をもたらしたが、それは同時に新たな標的を生んだ。鍵を持つ者は守らねばならず、鍵を狙う者は増える。
評議会は公開と法の手続きを進める一方で、俺たちの非公式チームは別働で動いていた。ミナは鍵の一部を預け、残りを自ら守ると約束したが、彼女の顔には疲労と警戒が刻まれている。彼女は鍵を「道具」ではなく「責務」として扱っていた。俺はその姿勢を尊重しつつも、時間の重みを感じていた。外部勢力は再編を急ぎ、我々の猶予は短い。
ある夜、ハニーポットが微かなシグナルを拾った。断片的なパケット、古い暗号化方式の痕跡、そして――人間の声のようなメタデータ。解析を進めると、それはARCHIVE-STEWARDの別名が使われた「合図」だった。合図は単純だが明確だった。ある日時、王都の北門近くに小さなデータキャッシュが置かれる。そこに次の鍵の断片が隠されるという。罠か、誘いか、あるいは裏切りの証か。
「行くべきか」セリスは短く言った。彼女の目は冷たく、だがその奥に不安がある。エルダは被害者たちの代表として、慎重さを求める。評議会の承認を待つべきだという声もある。だが俺は知っている。外部は待たない。情報は動く。機会は一度きりだ。
我々は小さな隊を編成した。セリス、エルダ、ミナ、そして数名の信頼できる技術者。評議会には非公式の報告を入れ、行動の正当性を担保するための最低限の手続きを踏んだ。夜の北門は人影が少なく、石畳に月光が落ちる。データキャッシュは確かに置かれていた。だがそれは空ではなく、微かな電磁の残滓を放っている。触れればトラップが起動する設計だ。
俺はハニーポットを差し込み、差分を取る。偽の脆弱性を露出させ、外部の監視を誘導する。ログが吐き出され、そこに含まれていたのは驚くべき情報だった。合図はARCHIVE-STEWARD自身のものではなく、別のハンドル――SILENT-ARCHONの仕業だった。彼らは管理者会議の中でも異端とされる存在で、情報の「編集」と「再配布」を専門にしているらしい。合図は誘いであり、同時に試験でもあった。
「つまり、誰かが我々を試している」ミナが低く言う。彼女の指先が震える。試験の意図は不明だが、SILENT-ARCHONの関与は事態を複雑にする。彼らは単独で動くこともあれば、管理者会議の一部と連携することもある。目的は情報の再編成――つまり、誰がどの物語を語るかを決めることだ。
その瞬間、北門の影から人影が現れた。黒衣ではない。古いコートを羽織った中年の男だ。彼は手を挙げ、無害を示すようにゆっくりと近づいてきた。だが彼の目は疲れており、何かを託すような表情をしている。俺たちは警戒を解かないまま、彼を囲んだ。
「私はSILENT-ARCHONの使者だ」男は静かに言った。「だが私は裏切り者だ。管理者会議の中で、我々は分裂している。あなたたちに協力したい。鍵の一部を安全な場所へ移す計画がある。だがそれにはあなたたちの助けが必要だ」
言葉は甘く、だが同時に危険を孕んでいる。裏切り者の申し出は罠であることが多い。だが情報は情報だ。俺は男の手元にある小さなデバイスを覗き込み、そこに刻まれたログの断片を確認した。確かにCORE-ADMINの内部通信の一部が含まれている。だが同時に、そこには別の署名――評議会の一員のものと一致する微かなハッシュが混じっていた。
「協力する代わりに何を求める?」セリスが問う。彼女の声は冷たい。男は一瞬ためらい、やがて小さく笑った。
「安全な移送のための護衛と、公開の場での保証だ。鍵は一度に一箇所に集めてはならない。分散して保管し、公開リポジトリの監査下で段階的に統合する。それが私の望みだ」
提案は理にかなっている。だが同時に、我々は別の選択肢を持っている。強行して鍵を奪取し、評議会に突きつけるか。あるいはこの裏切り者を利用して、管理者会議の内部をさらに掘り下げるか。どちらもリスクを伴う。
結局、我々は妥協を選んだ。男の提案を一時的に受け入れ、移送の護衛を行う代わりに、我々は移送経路の完全な監査を行うことを条件とした。ミナは鍵の一部を男に託し、残りを我々が保持する。移送は夜明け前に行われることになった。男は感謝の意を示し、影の中へと消えた。
夜は長かった。移送の準備を進める間、俺は自分の胸にある空虚を感じた。権限を失った代償は消えないが、代わりに得たものもある。仲間、信頼、そして選択の場だ。だが信頼は脆い。SILENT-ARCHONの使者が本当に裏切り者なのか、それとも新たな罠なのか。答えは移送の瞬間にしか出ない。
移送は静かに始まった。護衛隊は影のように動き、デバイスは厳重に封印されていた。だが途中、遠隔からのプローブが接近し、空気が一瞬凍る。外部ノードの反応だ。俺はハニーポットを起動し、偽の応答で誘導する。だがその瞬間、移送車の一つが爆発音を上げ、周囲が混乱に包まれた。罠だ。
爆発の中で、SILENT-ARCHONの使者が叫んだ。「裏切りだ! 彼らは我々を売った!」その声は絶叫に変わり、影が走る。黒衣の一団が現れ、移送を襲撃した。戦闘は瞬時に激化し、火花と金属の匂いが夜空に混ざる。俺たちは護衛として戦い、ミナは鍵の筒を抱えて逃げる。だが混乱の中で、男は姿を消した。
戦闘は短く、しかし激しかった。黒衣の一部は拘束され、残党は撤退した。だが代償は大きい。移送車の一つが破壊され、鍵の一部が行方不明になった。ミナは膝をつき、筒を握りしめた手が震えている。俺は胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。信頼は裏切られ、合図は罠だったのか。
だがその混乱の中で、俺は一つの事実を掴んだ。爆発のログを解析すると、起爆コードにはCORE-ADMINのハンドルの一つが含まれていた。つまり、襲撃は外部勢力の内部工作であり、SILENT-ARCHONの使者は本当に裏切り者だった可能性が高い。だが誰が彼を裏切り者に仕立て上げたのか。管理者会議の内紛は、さらに深い迷宮を示している。
夜が明ける頃、我々は傷を数え、失われた断片の行方を追い始めた。鍵の一部はまだ見つかっていない。ARCHIVE-STEWARDの名は再び浮かび、CORE-ADMINの影は濃くなる。俺たちは疲れているが、諦めるわけにはいかない。物語はまだ続く。誰が語り手となり、誰が編集者となるのか――その答えは、失われた鍵の行方と共に、まだ海の向こうで揺れている。




