第1話:そのバグ、致命的な例外エラーにつき
淹れたてのコーヒーが冷めきっていた。それが、俺の脳が記録した最後の感覚だった。
トラックに轢かれたわけじゃない。通り魔に刺されたわけでもない。
ただ、杜撰な経理レポートと、70時間のサービス残業、そして俺の心臓が「これ以上の稼働はコストに見合わない」と論理的に判断した結果だ。システムダウン。サービス終了。
俺の名前は加賀見レイジ。29歳、社畜SE。
俺の死は、俺の人生と同じくらい退屈なものだった。
――そう思っていた。目が覚めるまでは。
そこは病院のベッドでも、地獄の釜でもなかった。
真っ白で無機質な空間。目の前には、空中に浮かぶマホガニーの高級デスク。そしてその奥には、銀髪の美女が完璧なビジネススーツを着こなし、ホログラムのノートPCを猛烈な勢いでタイピングしていた。
「遅いですよ、魂No.492-B」
彼女は顔も上げずに言った。
「アポは取ってないはずだが」
俺は答えながら、もう存在しない眼鏡を押し上げる仕草をした。体が軽い。自分の手を見ると、半透明だった。
女は大きなため息をつき、ノートPCをパタンと閉じた。その瞳には銀河のような輝きがあったが、月曜朝の市役所職員のような気だるさが漂っていた。
「私は第7セクターの管理者。古い言葉で言うなら『女神』です。貴方は死にました。カルマ値はニュートラル。規定により、クラスSファンタジー世界への転生オプションが適用されます。剣と魔法。魔王討伐。よくあるテンプレです。さっさとスキルを選んでください。第4セクターでパンデミックが起きて、あと3000人の魂が待機列に並んでいるんですから」
彼女が指を鳴らすと、目の前にリストが浮かび上がった。
【聖剣:エクスカリバー】
【神級火魔法】
【魅了:ランクEX】
【成長速度:100倍】
俺はリストを一読し、眉をひそめた。
「非効率だ」
女神が瞬きをした。
「はい?」
「聖剣は物理的な訓練が必要だ。魔法はMPという有限リソースの管理コストがかかる。ハーレムに至っては人間関係の調整と維持コストが膨大で、俺の手に余る。成長100倍ということは、初期ステータスが低いということだ。これらはすべて『努力』を前提としている」
「冒険なんですよ!?」女神は声を荒らげた。「努力してナンボでしょうが!」
「努力なら前世で死ぬほどやった。その結果が過労死だ。俺が求めているのは『冒険』じゃない。『制御』だ。このリストは却下する」
女神はこめかみを指で押さえた。「あのねぇ、定命の者よ。システムは自動化されてるの。データベースにないものは渡せないわ。選ばないと、名前のない村人NPCとして放り込むわよ?」
俺は彼女の背後にあるホログラム画面に目を向けた。そこには、青いコードの羅列が滝のように流れている。これから俺が送られる世界のソースコードだ。
「スキルなんて要らない」俺は画面を指差した。「俺にあれへのアクセス権を寄越せ」
彼女は俺の指先を目で追い、乾いた笑い声を上げた。
「世界の核? 管理者権限が欲しいと? バカなことを。そんなの渡せばクリティカルエラーが起きるわ。第一、人間の魂じゃ処理しきれなくて脳が焼き切れるのがオチよ」
「俺はSEだ。脳みそならとっくの昔に焼き切れてる。フルアクセスじゃなくていい。俺の周囲半径数メートルに限定した『ローカル環境の読み書き権限』だけでいい。その代わり――基礎ステータスはすべて放棄する。HPもMPも筋力も、全部『1』で構わない」
女神は好奇心と悪意が入り混じった目つきで俺を見た。そして、サディスティックに微笑んだ。
「ステータス『1』と引き換えに、情報過多で廃人になるかもしれないデバッグ機能? ……いいわ。身の程知らずが自滅するのを見るのも、一興ね」
彼女の指がキーボードの上で踊った。
「取引成立。」
足元の床が消滅した。
「せいぜい頑張りなさい、『管理者さん』。初日に自分自身のデータを消去しないようにね」
重力が、復讐するかのように戻ってきた。
俺は顔面から泥に突っ込んだ。空気はオゾンと腐った肉の臭いがした。
痛む体を起こす。体は実体化しており、死んだ時のスーツ姿のままだった。驚くほど体が重い。いや、俺が弱すぎるんだ。
「ステータス」
小さく呟くと、青いウィンドウが展開された。
【名前:加賀見レイジ】
【種族:人間】
【レベル:1】
【HP:1/1】
【MP:Error】
【筋力:1】
【ユニークスキル:コンソール接続(Ver. 0.1)】
「HPが1……。小石につまずいただけで死ぬな」
完璧だ。絶対的なリスクこそが思考を研ぎ澄ます。
バキリ、と枝が折れる音が静寂を破った。
ねじれた骨でできたような不気味な森の奥から、獣が現れた。
スクールバスほどの大きさがある狼だ。三つの首があり、口からは腐食性の酸を垂れ流している。ケルベロスの亜種か。
赤い瞳が俺を捉えた。
『グルルルルゥ……』
原始的な本能が「逃げろ」と叫ぶが、俺の論理的思考は「無駄だ」と弾き出した。筋力1の俺が走ったところで、コンマ5秒で捕食される。
狼が跳んだ。その爪が、俺を真っ二つに引き裂こうと迫る。
俺は右手をかざした。魔法の詠唱もしない。祈りもしない。
ただ、目の前の獣を構成するデータ構造を視覚化した。
「――【要素を調査】」
世界がワイヤーフレームのグリッドに変わった。
狼の頭上に、コードのウィンドウがポップアップする。
[Entity: Chimera_Wolf_Cerberus]
[ID: Monster_33902]
[State: Attacking]
[Coordinates: X:405, Y:20, Z:12]
[HP: 5000/5000]
予想通りだ。この世界は、神というハードウェア上で動くソフトウェアに過ぎない。
そして俺は今、キーボードを握っている。
狼の爪が、鼻先数センチまで迫っていた。
俺は人差し指を伸ばし、[Coordinates(座標): Z:12] と書かれた行をタップした。
「パラメータ書き換え。Z軸12を、Z軸500へ変更」
[> Update Z: 12 -> 500]
変化は一瞬だった。
衝撃は来なかった。狼は単に……消失した。
一秒後、遥か上空から悲鳴のような遠吠えが聞こえ――。
ドサッッッ!!!
500メートル先で、何かが地面に叩きつけられる鈍く湿った音が響いた。
【経験値を獲得しました。レベルが上がりました】
【ランクAモンスターを討伐しました】
俺は泥で汚れたネクタイを締め直した。
この世界の戦闘システム(バランス)はバグだらけだ。なら、仕様の穴を突くまで。
「さて」
俺はズボンの埃を払った。
「まずはまともなコーヒーが飲める場所を探すか」




