3話 神にされた者
腹を空かせた犬のような目で、トリスが俺を見つめていた。
戦火が激しくなったと、金をせがむものように言う。
俺は仕方なく、黄色い宝石を小さな革袋に分けて渡してやった。
「アセルさん、大丈夫ですか……? ちゃんと寝ていないのでは?」
俺は何も答えない。
声を出すと、おかしくなってしまいそうだから。
眠れと言うなら眠ればいいのだろ……。
ふらつく魔物のように、足の重さに任せて家の中へ入る。
「また来ますね。それじゃあ元気で……」
トリスの足音が、道なき山道に消えていく。
布団もかぶっていないのに、音すら消えた。
時間そのものが止まったかのように、家の中は静まり返った。
「あのぉ、どなたかいらっしゃいますか……? デルガ町から来ました、ミルルと申します」
声は小さい。けれど、震えていない。
まるでおもちゃのベルを鳴らしたときのような、可愛い声の女性のようだ。
……外に三人。
扉の向こうで気配が、じっとこちらをうかがっている。
俺はゆっくり扉を開いた。
一人は女。肩に町印の布をつけた、調査隊の装い。
その隣に、同じ服の若い男がひとり。
そして最後に、中年の男――腰に下げた剣が、使い慣れた道具のように馴染んでいる。
守り手か。あるいは、ただの護衛では済まない種類の剣士か。
「きみ、こんな山奥で……何をしているの? 一人で暮らしているのかな?」
女が、教本に載っていそうな問いを順番に投げかけてくる。
まるで“聞くべき項目”が最初から決められているみたいだ。
仕方ない。
俺も、決まりきった答えで返す。
「ええ、一人」
「そ、そう……この辺り、獣の姿をぜんぜん見ないのよね。でも、いつ来てもおかしくないから、気をつけて暮らすのよ?」
……はぁ。
俺がいるから獣が寄らないだけの話。
いちいち説明する気力もない。
適当に相槌を打ち、会話の隙を見て帰ってもらおうとした。
……その時。
でかい背嚢を、カタツムリみたいに背負ったトリス。
どうして、こんなに早く――。
いや、俺が……一週間も呆けていただけか。
しかし、嫌なタイミングだ。
あいつは前も向かず、宙を漂うように歩いている。
ここまで来て、初めて客に気づき、目を丸くしていた。
「わあ! どちら様ですか?」
……お前が聞いてどうするんだ。
まるで三人の盗賊に囲まれた旅人みたいに慌てているじゃないか。
結局、教本女はトリスにも色々と質問を投げかけていた。
無駄な時間がじわじわ溶けていく。
話は終わったのか、調査隊らしき連中はようやく山道の向こうへ消えていった。
「はは、びっくりしちゃいましたよ。……また来るって言ってましたね。この辺りを調査でもするんでしょうか」
トリスは背嚢を下ろしながら、さっきの騒ぎの話を続ける。
「たぶん、王様が病弱みたいなので……第一王子が色々と動いてるらしいです」
そう言うなり、俺には何の断りもなく、料理の準備を始めやがった。
しかも、話の中身は相変わらず薄い。
こいつの取柄は、きっと料理だけだろう。
細身のくせに、腹に穴でも開いてる蛇みたいに食う。
「あのぉ、お金の話なんですが……」
はいはい、いつものパターンだ。
飯のあとには金の話。俺は黙って袋を出す。
「いや、違うんです! その……これ以上は無理そうなんです」
……何が無理なんだ?
さすがに気になって、詳しく話を聞いてみることにした。
「お前たちでは行けないなんて、本格的な戦争にでもなったのか?」
「それに近いんです。西街道は完全に封鎖されて、行商人は皆立ち往生です。
北回りなら行けますが、距離は三倍、費用も三倍。物価ももう跳ね上がってしまって……」
「金はまだあるんだから、冒険者にでも頼んだらどうなんだ?」
「冒険者? 私の子どもの頃はいましたけど、今はいませんよ。冒険者なんて」
……。
「冒険者だった者たちはいるだろ? そいつらを探してくれ。国境を越えるくらい、あいつらにとっては散歩みたいなもんだろ」
トリスは一瞬、言いにくそうに口ごもった。
「……今は、勝手に“冒険者”って名乗るの、できないんです。勇者教が広まってから、“勇者以外が冒険を名乗るのは冒涜”って扱いで……」
「は?」
「はい。『世界を救う者はひとりだけ、ゆえに冒険もひとり』って教義で……、昔いた冒険者たちも、今は全員、騎士団に取り込まれたり、“自称冒険者”ってだけで捕まったり……」
……勇者教。
その名を聞いた瞬間、背中を冷たい指でなぞられた気がした。
民を支えている像だけじゃない。
――神、か。
俺は、神にまでされてしまったのか。
「……それで、戦争か!?」
声を出した途端、砂を食べた気がした。
喉が痛い。
国教なのか?
昔は、プリーストが崇めていた“優しい女神”だったはずだ。
争いを鎮める光の神。
誰かを裁く存在ではなかった。
どうしてこんな形に……。
俺のせいなのか……?
「平気ですか?」
トリスが、心配というより“怯え”を隠すような顔をしていた。
「ああ、平気だ。……しかし、金でもダメなら、どうしたら……」
少し沈黙が落ち着いたあと、トリスは胸の前で手を握った。
「あの……わかりました。母の知り合いに、昔の冒険者がいたはずで……。一回、聞いてみます。たぶん、手がかりくらいは……」
「そ、そうか……頼むよ。」
アセルは、指先が勝手に宝石の袋を探した。
「じゃあ、これを持って行くんだ」
「またこんなに……。でも、ありがとうございます。すぐ帰って聞いてみます」
トリスは背嚢をごそごそとあさり、包みをひとつ取り出した。
「これ、美味しくて精もつきますので……食べてくださいね。できるだけ、早く戻ってきます」
どこか落ち着かない手つきだ。
それだけ言い残すと、振り返る間もなく、来た道を足早に戻っていった。
しばらく、舞い上がった砂埃だけが残っていた。
この騒がしさは、どうなっているんだ。
昔みたいな、目が回る生活はもうごめんだ。
……静かな世界は、ないものか。
せめて、虹の種のそばにいれば、楽になれる気がする。
あれが育つ場所だけは、濁らない。
……偶然、なのか。
畑で、虹の芽がひらいていた。
見ているだけで胸の奥が落ち着く。
まるで、俺のざわつきを吸ってくれるみたいだ。
他の場所に植えた種も……見にいってみるか。
虹色だけは、俺のものだ。




