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なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始める。ゆっくり、最悪へと。  作者: イニシ原
六章 魔法は狭間から見る

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4話 ただの散歩じゃないよ

 戦場では、男も女もいる。

 子供がいないわけでもない。

 だが、ここは前線だ。

 子供など、いた例はなかったはずだ。


 それとも、戦況がそれほど悪いのか……。

 そう考えかけて、エレンスは首を振った。


 目の前の少女は、場違いだと感じさせるほどだった。

 遊び場に来ているように、楽しそうに笑っている。

 可憐で、可愛い少女だ――。


「……あ、もしかして」

 デルタが、冗談めかしようとした。

 息を吸った。

「もしかして、ロロリーさま……ですか?」

 ――失敗している。


 エレンスの内側で、即座に拒絶が跳ねた。

 ありえない。

 ロロリーさまは、まだ――

 まだ小さな、幼い子のはずだ。


 その思考を踏み潰すように、少女は迷いなく頷いた。


「うん」


「ヴァルター侯爵家私設武装調査官……」


 彼女の口から零れる言葉は、湿り気のない。

 どこか懐かしいおとぎ話のようでもあった。

  肩書き、職歴、そして年齢。

 本人ですら忘れていたような細かい事実が、淀みなく並べられていく。


 ……どこから調べた?

 いや、そもそも俺たちの記録が最後に更新されたのはいつだ――


 エレンスは、自分の喉が不自然に渇いていることに気づく。

  暗がりのせいではない。

 錯覚でもない。

 目の前の少女には、不気味なほどに澄んだ、銀に光るような瞳があった。

 その視線に射すくめられるたび、自分の記憶がおかしくなる。

 内側からじりじりと削り取られていくような錯覚に陥る。


 ――どこからだ。

  どこから、自分たちの知る「時間」は食い違ってしまったのか。


 ロロリーは、二人の様子などまるで気にしていなかった。

 金属の“テント”へと歩み寄る。

  最初からそう決まっていたかのように、面を閉じた。


「ぼくは平気だけど、ママはね。寝不足は大敵だって言って、起こされると怒るから」

 言い方は、夜更かしをたしなめる親の話そのものだった。


 デルタは、それを冗談だと思うことで、どうにか正気を保った。

 笑い飛ばせる余地があるうちは、まだ世界は壊れていない。


 エレンスは違った。

 ――自分たちの時代は、もう終わっているのではないか。

 そう考えてしまった瞬間、胸の奥で何かが、静かに音を立てて崩れた。


「でも、丁度よかったかな? コソコソ調べにくる敵の人を見つけたら、やっつけちゃってよ」

 頼みごとの調子だった。


「はい」

 それ以上、言葉が出なかった。

 否定も、質問も、確認もできない。


 ロロリーは、それで十分だったらしい。

 振り返りもせず、歩き出す。

 月明かりを浴びながら、まるで城の中庭を夜散歩するように。

 そこが戦場であることなど、最初から考慮に入っていない足取りだった。


 月の位置がだいぶ動いたな――などと思う頃。

 エレンスとデルタは相談することが出来た。


「どうする、逃げるか?」


 エレンスにとっては、もっとも現実的な選択肢だった。

 ロロリーさまそのものから、恐怖は感じない。

 ――だからこそ、それが一番の恐怖だと、彼は知っていた。


「せめて、エリザさまに会ってみようじゃないか?」


「お前の冗談は、本当に笑えないな」


「もうロロリーさまに気づかれている。今さら何をしても、そう変わりはしないだろう」


「お前は……ここで果てるつもりなのか?」


「いや、その前に、敵の首でも一つ持っていけば平気だろ?」


「まるっきり、冒険者の発想じゃないな。それは」


 言葉は軽口の形をしていたが、どれも撤退を前提にしていない。

 二人とも、もう逃げるという選択肢を、口に出した時点で失っていた。




「朝になっちまうな」

 デルタが呟き、夜の終わりを告げる冷たい風が、二人の頬を撫でていく。


「ああ。ところで亡命の話はどうした?さては、忘れていたな」


「忘れていたんじゃない。亡命したところで、どうせ近いうち併合されるだろ。……そんな気がしただけさ」


「まあ、そんなところだろうと思っていたよ」

 エレンスは肩をすくめる。


「どこかへ逃げるより、楽しんで終わった方が性に合う」


「……なあ。どうやら、もうすぐ始まるみたいだな。まだ遠いが……もう囲まれている」


 闇の底から、オレンジ色の小さな点が一つ、また一つと浮き上がってきた。

 松明の火だ。

 半円どころではない。

 見渡す限り、逃げ道と呼べる隙間を埋め尽くすようにだ。

 無数の火が草原を縁取っていく。


「こんな状況で、今までどう戦ってきたんだ?」


「さあな。見せてもらえばいいさ、これから」


 二人は、まだ必要でもない剣を抜く。

 金属の音が、朝の空気にやけに乾いて響いた。

 先ほどの少女――ロロリーの存在によってわかっていた。

 世界が「自分たちの知らないルール」で上書きされたことを確信しているのだ。


「……やっぱり姿は見えないが、気配だけは大したものだな。正面だけでも、数千はいるだろ」


「だが、こっちも“テント”一つに千は詰め込まれていたんじゃないか? あんな狭い場所にな。ただ数の勘定でも負けていそうだが……」


 前方、西側から合図が走った。

 それを追うように、大量の火矢が夜明けの空を弧を描いて飛んでくる。


 金属の“テント”に全て当たった。

 矢尻は、澄んだ、やけに綺麗な音を立てて弾かれる。

 地面へ落ちた。

 火が移ったとしても、せいぜい足元の雑草が焦げる程度だ。


「……違うな」


「ああ。東を正面にした敵の本体は、いないだろうな。俺は北だと思う。……賭けるか?」


「あん? こんな時にか?」

 エレンスは呆れたように言いながらも、視線を走らせた。

 降り注ぐ矢の角度、松明の揺れ。

 それらから敵の重心を読み解こうとする。

「南と言いたいところだが、包囲は大きく東まで回っている。定石を外す理由がない」


 二人は賭け事めいた軽口を叩き合いながらも、気を抜いてはいなかった。

 闇に紛れた矢を避けるため、金属の“テント”から大きく距離を取る。


「おい見ろ、あれは……俺たちの馬だ」


 迂回する大勢の敵の気配に驚き、逃げ出したのだろう。

 最初から、いつでも逃げられるように。

 綱は、どこにも留めていなかった。

「それでも戻ってくるとは、なかなか賢い」

 二人は馬に飛び乗り、駆け出す。


 ――途端に。


 北からも、南からも。

 火矢ではない、大量の矢が、空気を裂く音を立てて降ってきた。


「油だ!」


「なるほど……蒸し焼きか。何度もやられてきた、教訓なんだろうな」


「奴らは……出られなくなったら、どうするつもりなんだ?」


「そんなこと、知るわけないだろ」


 油を含んだ炎が、四角錐の金属に映り、跳ね返る。

 その反射光のせいで、夜明け前の空が、無理に明るくされたように見えた。

 一つではない。

 離れた位置にある別の“テント”にも、次々と火が回っていく。


「どうやら、敵は近寄ってこないな。とんでもない数の矢だ」


「中身は知らないが……焼け落ちる類のものじゃなさそうだな」


「どうする? 包囲を突破するか?」

 デルタの言葉に、エレンスが頷こうとした、その時だった。


「おい、見てみろ。弓勢が下がっているぞ」


 数千の軍勢が、まるで引き潮のように動きを止めた。

 夜明けの空を埋め尽くしていた火矢の雨が、ぷつりと途絶える。


 その静寂を切り裂くように、目の前の闇からロロリーが姿を現した。

 彼女は鼻歌を歌い、スキップをしながら。

「あ、そっちはママがいるから気をつけてね」

 楽しそうに、道端の小石を蹴飛ばすような足取りだった。

 あるいは、手近な鬼魔物を捻り潰すのと同じだけの軽やかさで、彼女は言った。

「死んじゃうよ? ……まあ、運が良ければ蘇らせてくれるけどね」

 少女の笑みは、月光に透けるほどに無垢だった。


  その言葉を合図にしたかのようだった。

 西の平原を埋めていた無数の松明が、恐ろしい速度で消え失せていく。


 悲鳴も、怒号も聞こえない。

 だが、闇の向こうで「何か」が動く。

 数千の軍勢がただの物言わぬ影へと変えられていくようだった。

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