1話 世界を裏返す白いもの
「……ごめんな、じいさん」
誰に届くでもない声だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「なんだか思い出したよ。昔もさ……俺が急ぐあまり、仲間をカエルにしちまったことがあったな」
苦笑する。
「ゴーストじゃなくても、太陽の光は駄目だったんだな」
俺は、朝の差し込む光から目を逸らした。
……扉を、そっと閉めてみた。
それでも、じいさんは帰ってこなかった。
繊細なツタで編まれた箱の中。
骨だけは、ちゃんと残っている。
たぶん――
夜になれば、また会える気がする。
俺はなんだか、悪戯をして親から逃げる子供みたいに、外へ出た。
じいさんのことはともかく――
幽霊の四つ葉姫だけは、復活させてやりたかった。
理由は、よく分からない。
でも、きっと全部、俺のせいなのだろう。
洞窟の温泉は、まだあるのだろうか。
そこに浸せば、どうにかなりそうな気もする。
……いや。
それなら、山たちのツタが、わざわざ俺のところへ届けたりはしないか。
それとも、復活の呪文を知るプリーストでも探すべきか。
だが、この骨を見せて「復活させてくれ」と頼むつもりか?
――はは。
それが、どれだけ面倒な話になるかくらい、
さすがに俺にも分かっていた。
懐の“俺の姫”は、あれから姿を見ていない。
また意識だけを、どこかへ飛ばされるのも困る。
姫の感情に引きずられると、
俺は何も出来なくなってしまうからだ。
なんだか、気に掛かることが増えてきた。
何から手を付ければいいのか、悩みが多すぎる。
……でも。
心なのか、頭なのかは分からないが――
落ち着くまでに、前みたいに何日も掛かることはなくなっていた。
――それは、仲間がいるからだろうか。
この山々に、皆が集められている。
そう言ってしまっても、いい気がする。
あるいは、俺自身の無意識か。
どちらにせよ、精神の世界は“自分”が敵になる、相変わらず厄介だ。
正直なところ――
魔王の方が、まだ分かりやすかった気がする。
辛さはいくらでも耐えられた。
「さて……」
どうしたものか。
とりあえず、新しい種を蒔いてみることにした。
その子たちが、どう反応するかを見たい。
なにせ相手は――幽霊だ。
何の反応もない方が、おかしいだろう。
俺は部屋から、じいさんの入った箱を運び出し、畑に置いた。
そして、その周りを取り囲むように、いくつか種を蒔く。
最後に、汲んできた水を、静かにかけてやった。
いつも、何を栄養にして育っているのか、不思議に思う。
土なのか、水なのか――
皆が一緒に育ち始めたとき、今までとは思いもよらないことが起きた。
じいさんの箱から、ツタが伸び出したのだ。
それは一本ではない。
まるで、そこにあるすべての子たちと、握手を交わしているみたいだった。
それだけじゃない。
彼女たちは、歌い始めた。
……いや。
これが、彼女たちの言語なのかもしれない。
一人ひとりが体を小さく震わせ、
澄んだ声を重ねていく。
旋律はなく、言葉もない。
それでも、不思議と綺麗だと思えた。
「……がんばれ」
俺は勝手に、幽霊になった四つ葉の姫を助けているつもりでいる。
この声援は、届いているだろうか。
たぶん、大丈夫だ。
ツタ同士は、より強く絡み合い、
互いを確かめるように、握り合っている。
今にも――
一つの存在へと、溶け合ってしまいそうな勢いだった。
そのとき、俺は気づいた。
さっきから聞こえているものは――
声でも、歌でもなかった。
……そうだ。
詠唱だ。
彼女たちは、皆で一つの呪文を唱えている。
とても、とても、ゆっくりと。
俺は、ふと考えた。
この箱の中にいるじいさんが、まさか――
唱えているのではないかと。
ありえなくもない。
じいさんは「ゴーストではない」と言っていたが、
まあ、ゴーストだって呪文くらい唱えられる。
「やるじゃないか、じいさん」
思わず、笑みがこぼれた。
空を見上げ、ゆっくりと深呼吸をする。
……これは。
間違いない。
じいさんが、かつて得意としていた魔法だ。
昼と夜を――
入れ替えることができる。
《世界を裏返すやつ》に、違いない。
影が、目に見えて動き出す。
空の色が、ゆっくりと塗り替えられていく。
山の稜線へ、太陽が静かに沈んでいった。
「夜になれば、出てこられるんだよな。じいさん」
俺は、待っていた。
息をひそめ、ただ、じっと見つめる。
今度こそ――
幽霊ではない、実体の姿を。
………………。
――闇夜は、一瞬で過ぎ去り、朝日が昇った。
………………。
――また夜だ。
……などと考えているうちに、再び世界は明るくなる。
俺の時間が、おかしくなったのか?
一日が、異様な速さで流れていく。
それどころじゃない。
寒さを感じる間もなく、冬が終わった。
そして、春も、夏も、秋も――同じだ。
まるで、季節そのものが
「待つ」ということを忘れてしまったみたいに。
……まさか。
俺の、せいじゃないよな?
もう一度、俺は叫んだ。
「じいさん!」
その声に反応したのだろうか。
箱のまわりで呪文を唱えていた四つ葉の子たちが、ツタと、ゆっくり手を離した。
そして――
その歌声が、しわがれていくのと同時に、四つ葉は次々と、色を失っていった。
昼と夜のサイクルが、元に戻っていく。
狂った速さは収まり、空は、正しい順番で明るさを取り戻す。
すべての四つ葉の姫たちが、風に吹かれ、散っていった、その瞬間。
こんどは――
俺の時間だけが、止まっているようだった。
箱が――
音もなく、ふたを開いた。
中から、ゆっくりと立ち上がる影。
白く、長い髪と髭。
この世のすべての叡智を宿していそうな瞳。
ローブも、杖さえも、白い。
――完全な実体を持つ、魔法使いだった。
「ああ、じいさん……」
それだけ口にした途端、
驚きで、息の仕方を忘れてしまった。
胸が詰まり、視界が揺れる。
……やっと、息を吸う。
これで、ちゃんと言える。
「……じいさん。一体、誰なんだよ?」




