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なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始める。ゆっくり、最悪へと。  作者: イニシ原
四章 境界は混ざる誰も知らずに

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6話 虹の蔦が届く場所

 俺は、カルドの町へ向かう。


 山の頂から西を見下ろす。

 低い山脈とまばらな森が、ゆるやかに連なっている。


 谷間を縫って一本の川が流れていた。

 その水脈は王都まで続いているはずだ。

 まるで、カルドへ向かって水の腕がじわりと伸びているように見える。


 川は上流で五つに分かれていた。

 消えていく五本の指のように。


 その源流の一本に沿って下っていくと、カルドの町はすぐ目の前に現れた。


 ――その町は、目に痛いほどに白かった。

 外壁も家々の木材も、屋根ですらも真新しい白いペンキで塗られている。

 こんな整然とした街並みを見るのは初めてだ。


 着いた途端、自分の格好が気になった。

 山で擦れた布、乾いた泥、整えた“つもり”だけの服。

 いまさらだが、人前に出る身だと急に意識してしまった。


 気まずさを抱えたまま歩いていると、町人の集まりにぶつかる。

 一人が俺を見つけ、険しい声を飛ばしてきた。


「おい、そこの若いの。どこの家から出てきた? 最近は獣が徘徊してるんだぞ。早く教会に逃げ込め!」

「追われて逃げてきたんだろ? 教会なら新しい服もくれるはずだ!」


 俺の姿を見るなり、勘違いした人たちが次々と声をかけてくる。

 そうじゃない――と否定する気は起きなかった。

 取りあえず確かめたいことがある。

 アーサーの名を出してみた。


「アーサ……? もしかして、行方不明って噂のあのアーサか?」

「おう、俺も聞いたぞ。たしか教会が関係してたな。詳しいことはあそこへ行け。……ついでに服ももらっとけ」


 どうやら、俺の身なりは相当ひどいらしい。

 川ででも水浴びしてくるべきだったか――

 いや、そんなことは正直どうでもいい。


 今の俺には「特別な土」の気配と、「アーサー」の存在が確かに感じられる。

 このあたりにいる。

 間違いない。


 それにしても……こんな場所にあっただろうか?

 記憶のどこを探しても曖昧なままだ。

 勇者像を正面に据えた、大きな教会が静かにそびえていた。


 入り口には誰もいない。

 正門をそっと押すと、わずかな隙間から静かに開いた。

 気配を殺して中へ滑り込む。


 礼拝堂は広い。

 だが頭を垂れている者は数人だけだった。


 差し込むステンドグラスの光が、虹色に見える。

 そのせいなのか、“この子”が胸元でそわそわしている。


 奥へ向かおうとしたとき、すれ違った人の口元から、祈りの言葉が漏れた。

 勇者に助けを求める声。

 “そいつは誰も助けてくれないのに”


 中庭には大勢の人がいて、ざわめきながら動いている。

 食事を作る者、負傷者を介抱する者、農具を武器にして構える者。

 町全体が混乱しているのがわかる。


 手の空いた男にアーサーのことを尋ねた。

「あっちだ」と指されて行けば、また別の場所へ回される。

 完全にたらい回しだ。


 “獣”の話で教会全体が手いっぱいらしい。

 今、この町には冒険者が一人もいないのだろう。

 一人でもいれば、獣どもは近寄りもしないのに。


 何度も遠回りさせられ、ようやく。

「その人なら知っている」

 そう言う女性のもとへ辿り着いた。


「まさか……あなた、アセルくんじゃない?」

 そう声をかけてきた女性は、ひと目でトリスの母だとわかった。

 面影が驚くほど似ている。

 俺のことは、どうやら息子から聞いていたらしい。

 最初から柔らかい口調で話してくれた。


 アーサーのことを尋ねた。

「ここにはいないの」

 と申し訳なさそうに首を振る。


 ――では、別の場所に?

 この大きな教会のどこかに地下牢でもあるのか?

 そう思いかけたが、彼女の口ぶりではそうでもなさそうだ。


 だが、アーサーが残した荷物なら預かっていると言う。

 それを聞いて一緒に行商館へ向かおうとする。

「いま外は危ないのよ、獣が……」

 彼女は周りの人を呼び集めようとした。


 その仕草を手で制した。

「今は森へ帰って、もう町にはいない」

 俺の言葉に、トリスの母は半信半疑だった。

 でも外に出て、静まり返った町を見て納得したようだった。


 行商館の扉の鍵が外され、静かに開いた。

 トリスの母に場所を聞くまでもない。

 アーサーの荷物がどこにあるのか――

 俺には“わかる”。

 感じ取れる。

 あふれ出す虹色の光が、そこへ俺を導くようだった。


 行商棚の奥に、アーサーの背嚢(リュック)が丁寧にしまわれていた。

 中に何が入っているのか――

 触れるだけで、心臓が高まり、呼吸が浅くなる。

 衣類、巻かれた地図――そのさらに底に、両手で隠れるほどの革袋がある。


 真四角の袋は、いくつもの紐で固く縛られていた。

 開ける前から、そこに“特別なもの”があるとわかるほどに、光が脈打っていた。


 紐をほどき、ゆっくりと蓋を開けた。

 ふわりと温い空気が立ちのぼる。


 赤褐色の土がぎっしり詰まっていた。

 指で触れる。

 ……あたたかい。

 握手されているみたいだ。


 この土は、練れば粘土のようにしっとりと固まる。

 だが形を崩すと、まるで霧のようにほどけいった。

 粒が見えないほど細かな粉に戻ってしまう。


 ――指でかき混ぜるたび、虹色の光がふわりと舞い上がった。

 まるで妖精の鱗粉が散るように、空気の中で淡く揺れている。


 ん?土の中に小さな塊があった。

 真っ黒な球だ。

 ……俺にも見通せない闇のような球。

 たぶん、これが肥料なのだろう。

 土に落とすと、水に沈むように消えた。


「……間違いない。これが特別な土」

 胸の奥がじんと熱くなる。

 アーサーは、本当に手に入れてくれていたんだ。

 ありがとう。


 こんな濃く深い虹色は初めて見る。

 この土なら“この子”がどれほどまで育つのか――

 想像するだけで、もう鼓動が止まりそうだ。


 今すぐにでも試したい――。

 胸元に忍ばせていた“この子”をそっと取り出す。

 指先でつまみ上げ、特別な土へゆっくり近づけた。


 息をのむ。

 土が自ら吸い寄せられてくる。

 磁石に引かれた細砂のように、すうっと集まる。

 元からあった普通の土は、まるで弾かれるように四方へ飛び散っていった。


「すごい……!」


 細い金属で編んだ籠の中で生き物のように、土が脈打つ。

 けれど、すぐ違和感に気づく。


 ……育たない。

 ……この籠が邪魔なのか?


 隙間を通った特別な土は、すべて籠の中へ吸い込まれていく。

 ぎゅう、と圧縮されている。

 今や、虹色の光でさえ外に溢れ出られずにいた。


「アセルくん、平気なの? なんだか突然、雨がすごいのよ」

 声をかけられてようやく気づいた。

 外から響く雨音は、もはや“降っている”と言えないほどだ。

 叩きつけられていると言ったほうが早いほどだろう。


 俺は慌てて、この子を懐へ戻す。

 立ち上がり、トリスの母と並んで外へ向かった。

 扉を開けた瞬間、湿った風が一気に吹き込んできた。


 この町は――どうやら川になったらしい。

 そう錯覚するほどの雨量だった。


 昼間のはずなのに、空は夜みたいに真っ黒な雲で覆われている。

 隣に立つトリスの母が何か言っているみたいだ。

 でも、雨音にかき消されてまったく聞き取れない。


 もう、言葉なんて交わしている場合じゃない。

 俺は一度だけうなずき、地面を蹴った。


 とりあえず家に戻ろうと、俺は視線を上げた。

 その瞬間、黒い雲の底を裂くように眩い光が走った。

 だが――あれは雷ではい。


 雲の裂け目から、天へと突き刺さるように虹色の蔦が伸びていた。

 あ、まただ。

 あれは、蔦が虹色に光っているんだ。


 ああ、俺には理由はわからないけれど――

 これで世界が……少しだけ安らぐような気がした。

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