3話 竜の息に灰は舞い
山肌の上から、じわりと緊張が忍び寄ってくる。
白い獣――今にも飛びかかろうとしている。
だが、まるで剥製のようにも見えた。
まったく微動だにしない。
伝わる緊張で集団は止まる。
呼吸さえしていないようだ。
その中で、トリスは固唾を飲み込む。
――もし、あの牙が自分には向かないのだとしたら。
この集団を離れ、アセルのもとへ向かえるのではないか――
そんな考えが頭をよぎった。
ぎゃぁ――。
後方から住人の叫び声が森の静けさを裂いた。
「どうした!」
トリスは反射的に振り向く。
――え?
そこにいたのは、体長二メートルを超える大きな虎だった。
だが、この地域にはいるはずもない。
しかも――虎とは、こんな姿だっただろうか。
橙ではなく、くすんだ灰金色の毛並み。
黒い縞は深く刻まれた傷跡のように見え、
この森には似つかわしくない鋭い光を帯びていた。
怪物だ――
そう思ったが、虎の口には住人が咥えられ、必死にもがいている。
「助けてくれ!」という叫びを聞いた瞬間、違和感が芽生えた。
殺す気なら、とっくに噛み砕いている。
なのに虎はただ咥えているだけだ。
まるで“見せつける”ように。
虎はその場から動かない。
牙も力も、いつでも振るえるはずなのに。
――これは囮だ。
トリスがそう悟った時には、もう“普通”の獣たちが木陰から姿を現していた。
ガサリ、ガサリ。
獣たちは吠えもしない。
素早くただ黙って、住人たちに襲い掛かる。
武器を握る暇などない。
咥えられた住人も、囲まれた住人も成す術がなく、
来た道へ、転げ落ちるように追い戻されていく。
「うわっ……! や、やめろ!」
「逃げろ――!」
慌てふためく声とともに、後部にいた住人たち。
転げ落ちるように帰路へと追いやられた。
それは、まるで一息で終わる夢の断片のように――あっという間だった。
兵士たちは動けない……いや、動かない。
もし動いたら、“守りの円”が崩れる。
その時、自分たちに死が訪れると死ぬと知っているからだ。
ほとんどの兵士は白い獣に意識を向けている。
剣を抜いたまま、背を向けない。
後方の悲鳴など聞こえないかのようだ。
トリスもまた一歩も動けなかった。
たしかに、ここで意図的に殺されることはないだろう。
獣たちの行動は明らかに“追い返すため”のものだ。
だが、それでも。
目前にある白い牙は――
人の皮膚など、まるで柔らかいバターのように容易く切り裂くだろう。
「間違いはない」などと言えるはずがない。
その想像だけで、足の裏がじっとりと凍りついた。
兵士の列の中で一人だけ、ぽつんと楽器を鳴らす者がいた。
高い音が、霧の残滓のように山肌へ広がっていく。
それだけで、体が軽くなるようだった。
それが合図だったのか。
白い獣が、ぬるり、と動き出した。
トリスのいる方へ向かい、わざと視界に入るように山肌を下っていく。
「後ろにまわる……?」
後方にはもう、住人は一人も残っていない。
完全に“盾のいない後衛”を狙っているのだ。
その後衛の中で、しわがれた声が聞こえた。
「ほっほー……久しぶりじゃよ。あやつは、もはや魔物と変わりないじゃろ」
老人のようなその声は、妙に落ち着いていて。
それなのに温かいスープを飲んだように、体の芯から力が湧いてくる。
「それじゃあ、こちらからやらせてもらおうかの」
腰の曲がった爺さんが、兵士たちの前へぬっと出た。
荒れた山肌の上なのに、足取りだけは不思議としっかりしている。
ゆっくりと杖を掲げ、息を吸いこむ。
「いつぶりかのぉ……儂の”とっておき”じゃ。――竜の炎じゃ」
老人の口から漏れたその息は――
それはただの息ではなかった。
吐き出された瞬間、山気を巻き込みながら何倍にも膨れ上がる。
ごう、と空気を震わせ、濃い橙の炎へと姿を変えた。
背後の兵士たちの影が、岩肌に大きく伸びあがる。
歪んだ影は、一瞬だけ巨大な竜のようにも見えた。
秋の冷えた山の空気が、一気に“夏”へ変わった。
肌を刺す熱気が波のように押し寄せてくる。
老人が吐いた炎は山肌一面を燃やし尽くす。
枯葉は触れられた瞬間、溶けるように灰になった。
その灼熱の息の只中――
白い獣だけが炎を纏ったまま、鳴き声もない。
先ほどの勢いそのままに兵士へ突撃してくる。
「おい、これでは火の属性を与えただけじゃろが!」
炎の中から白い獣が平然と歩み出るのを見て、誰かが叫んだ。
「わかっておる。我らでエバガードさまをお守りするわい」
フードや兜で顔を隠した兵士は多い。
その中で、騎士の周囲だけは驚くほど“年寄り”ばかりだった。
だが誰一人、背は曲がっていない。
声はしわがれても、歩幅は若い兵士のように大きい。
その屈強な老人たちが、一斉に動いた。
白い獣は目前。
纏った炎に怯む者はいない。
ひとり、またひとりと白い獣へ剣を掲げる。
跳躍する白い獣。
軽々と兵士たちの頭上を飛び越えた。
地を蹴る音すらなく、まわりに纏う植物だけが弾ける。
エバガードは前だけを見ていた。
一度も下を見ない。
迫る殺意より、山の頂を踏むことの方が重要らしい。
トリスは息を呑む。
白い獣の動きから、目を離すことができなかった。
だが――その白影は、空中で「止まった」
重い質量が静止し。
異様な感覚だけが残る。
兵士の固まりの中から、きらりと閃いた。
それは長い――あまりに長い槍だった。
「なんだ、あれ……」
トリスは驚いた。
今この瞬間に伸びたとしか思えない槍が、白い獣の腹を貫く。
そのまま炎に包んだ。
だが、肉の焦げる匂いはしない。
枯れ枝が火にくべられたような乾いた音だけが残った。
灰は落ちず、森の中に溶けるように消えていく。
エバガードは白い獣が灰になったことに、一言も発さなかった。
ただ、背後に控える楽団へ手をひと振りする。
高らかな勝利の旋律が、山の静寂をねじ伏せるように鳴り響いた。
賞賛も感謝も言葉にせず。
そこにあるのは、ただの音だけだった。
エバガードは振り返りもせず、さらに山の奥――
頂を目指して歩を進める。
そしてトリスは、静かに隊列から離れた。
足音ひとつ立てず。
誰にも――“全て”にも気づかれないよう。
アセルのもとへ、誰よりも早く辿り着くために――。




