1話 密命落ち静寂に
魔王が倒れてから数十年――
今年もフェドル国は、木々が色づきはじめる穏やかな季節を迎えていた。
――しかし、果実たちが勝手に発酵し、甘い香りで罠に誘うような。
そんな“不穏な山”の噂が、ひそりと広まりつつあった。
かつて国を導いた王は、いまや老いの床に伏している。
すでに冬の底に手が届き、その先にあるはずの春を――
もう迎えることはないだろう。
政務の重荷を預かるのは、今ではヘッター王子だ。
若き日の血気盛んな面影は薄れ、代わりに静かな思慮が眉の上に宿っている。
その王子の手元に、ある日、一通の封書が運び込まれた。
〈要注意〉と赤字で記された、山岳警備隊からの報告書。
“南の森、獣の異常増加。鳥の移動も活発。
魔物化の兆しは無し。
しかし――南区域一部、まるで聖域のように守られている区域が在り”
ヘッターは自然と眉を寄せた。
(……聞いていた“あれ”か?)
ふと、昔、妻に言われた言葉が――
唐突によみがえった。
しばらくの思案あと、執務机の端に置いていた小さな真鍮のベルを手に取る。
そして、いつもと同じように――
しかし今日は少しゆっくりと、二度鳴らした。
チン……チン……
「はい、ご用は何でございましょう」
従者は足音ひとつ響かせず、部屋の香の揺らぎとともに王子のそばへ現れる。
その気配は、部屋の暖気と同化しているようだった。
「数は要らぬ。ただ――腕の立つ者を」
細かい指示などは要らなかった。
それだけ聞いた従者は、静かに一礼すると、影の奥へと溶け込むように姿を消した。
ヘッターとしては、もちろん気にかかっていた。
しかし――西方の争いに薪をくべ続ける日々では、構える余裕などどこにもない。
だから翌日には、昨日の“気がかり”でさえ、
忙しさの中に埋もれてしまった。
ヴァルター侯爵家 私設武装調査官のひとり、エレンス・ターム。
蔦に呑まれた館の奥で、昼間から酒に沈んでいた。
「あいつは変わった」
仲間たちはそう囁く。
だが本人は──そんな声など届かないようだった。
頬は赤く、まぶたは重たげに垂れ、
まるで眠りと酩酊の境目を彷徨う死人のようだ。
しかし、その瞳だけは違った。
閉じきらぬその目は、
“ここではない何か” を、固く、焼き付けるように見つめていた。
「エレンス、仕事だ。俺と山に入るぞ」
縁に王家の文様が刻まれた紙が、無造作にエレンスの前へ差し出された。
「デルタか……俺は行かんぞ」
内容など見ようともしない。
エレンスの吐いた大きなため息が、その紙を揺らした。
「まぁ、そう言うと思ったが――これはお前がずっと追っていた“冒険者”の件だ。禁止区の許可が下りたんだぞ。お前にも来てもらう」
「お前ひとりで行けるだろう」
エレンスはゆっくり頭を振る。
「それに……命令が届いたのがお前で良かった。前から言ってるだろ――それを守れば、俺みたいには……ならんさ」
舌の回りはまだ鈍い。
だが、アルコールが抜け始めたのか、エレンスの瞳だけが急に澄んだ。
その奥に宿るのは、酔いではなかった。
もっと黴臭く、深い恐怖の色だった。
そうは思ったが、本当にデルタの興味が“それだけ”だと知ると、気に掛かる。
あいつは山そのものには関心がない。
――なぜ”あんなのに”会いたいんだ。
エレンスは黙って水樽へ向かう。
手にした酒瓶をそこへ突っ込み、冷たい水をすくい上げると、そのまま頭からあびせた。
口から漂う酒の匂いを、水で押し込む。
水滴が顎から落ちるころ、苦い覚悟を飲み込んだ。
結局、一緒に行くしかないと思った。
準備を整え、南部――
最端のカルド町へ近づくにつれ、エレンスの足取りは目に見えて重くなっていった。
肩で息をするたび、いまでも酒が抜けきらなかったのかと思うほど顔色は青い。
デルタに何度「大丈夫か」と聞かれていた。
エレンスは返事もせず、ただ “思考を捨てるように” 無心で歩き続けた。
町の外壁が見えた瞬間、エレンスの喉がひくりと動いた。
逃げたい、戻りたい――
その感情を押しつぶすように、彼は早足で行商者の集まる館へ向かった。
あの若者は、どうなったのか。
それだけが、胸の奥で疼いていた。
怯えでも、罪悪感でも、後悔でもない。
もっと厄介な、言葉にできない感情だった。
あの若者は、すでに町へ戻っていた。
外見は以前と何ひとつ変わらない――その事実が、逆にエレンスの背筋を冷たくした。
自分がしたことを思い返すと、それが“あり得ない光景”に思えるほどだった。
エレンスは、デルタを館に残したまま、若者を外へ呼び出した。
後ろから不意打ちした相手の顔を、知られているはずはない――
そう思い込もうとしていた。
……だが、若者の瞳がこちらを向いた瞬間、あの時の恐怖が胸に刺さる。
まるで“すべてを知っている”と告げるような、静かな視線だった。
若者は少しだけ目を見開いたが、それ以上の反応はなかった。
エレンスへの恐怖も、怒りも、軽蔑すらも――どこにも見当たらない。
「金は、あの嬢ちゃんと坊ちゃんが持って逃げた。あれで北部へ」
若者はそれを淡々と聞いている。
「俺がきっちり返す。すまん」
それは本心だった。
償いというより、自分の手でつけた汚れを、せめて清算しなければならないと思った。
「許してほしい」
エレンスの声は、酒が抜けた直後のように乾いていた。
若者は、少しだけ首をかしげるようにして答えた。
「――私に傷をつけられたら」
その一言を聞いた瞬間、エレンスの背筋に、ぞわりと悪寒が走った。
この若者が言っていい台詞ではない。
その言葉は、血と鉄と戦場を知る者が、最後に口にする類いのものだ。
絶対に、一般の若者の口から出る重さではなかった。
――もしかして、あの時、背筋に刺さった“あの不快な恐怖”は、この若者が原因だったのか?
いや、違う。
あれはもっと……得体の知れない“何か”だったと、エレンス自身が一番よく分かっている。
「ただ、試してみたいだけです。――さあ、やりましょう」
若者は、まるで子どもが遊びを急かすように、しかし笑っていない声でせっついてくる。
エレンスの手は、気づけば震えていた。
「……許してくれ。俺を、その持っている木刀で……好きなだけ打ってくれ」
傷をひとつ付けるのが怖い――そんな恐怖を初めて知った。
彼を前にすると、なぜか“踏み越えてはいけない線”があると本能が叫んでいた。
若者は小さく息を吸い、静かに言う。
「いえ。“本気”でやってくれなければ、許しませんよ」
その声音だけは、冗談ではなかった。
それから、およそ一時間後。
デルタが、全身に打ち身と切り傷を負い、地面の上にしゃがみ込むエレンスを見つけた。
「エレンス!? おい、どうしたその傷……!」
「デルタか……。やっぱり、俺と来てよかったな」
「は? 何言ってるんだよ。立てるか」
デルタは慌てて肩を貸し、引き上げる。
エレンスは傷ついて疲れているが、顔には笑みを浮かべていた。
「……やっぱり山には入らない方がいい」
「まさか魔物でも出たのか?」
「いや――まだ魔物の方がマシかもしれん」
エレンスは担がれているデルタの肩を軽く叩いた。
「この山にいる大量の獣ども……どうやら“あいつ”が操っているらしい」
「それならどうするんだよ。折角きたのに帰るのか? そりゃないぜ」
デルタは大きく溜め息をついた。
「いや、帰るのは――俺の傷が治ってからだろ。見た目より、かなり……やられてる」
エレンスは苦笑し、肩を押さえた。
そして、ぽつりとこぼした。
「あの若者……やばいな。俺が本気を出しても、勝てないかもしれん」
デルタはその言葉に返す言葉を失った。
どれほどの怪物を相手にしたのか、想像が追いつかない。
夜風が二人の間を通り抜ける。
山の方角だけが、妙に静かだった。
――それが、何より不気味だった。




