6話 双葉の目覚め
トリスへの長い看病は、思ったほど苦ではなかった。
父親を知らないこいつへの詫び……いや、建前だ。
俺が本当に詫びたいのは、ずっと昔に信じなかった――あの男だ。
傷のほうは、少しずつだが確かに治ってきた。
骨折も、綺麗に折れていたおかげか、わりと早くくっついた。
痛みが引き、気力が戻るにつれて――トリスは、まず謝った。
「アセルさん……ごめんなさい。宝石……全部、持っていかれて……」
震える声の奥に、俺に迷惑をかけたことへの罪悪感が滲んでいた。
まるで自分は、触るだけで羽がもげる虫だと思った。
トリスは知らない。
あんな宝石を、俺が自分の所有物だと思ったことなんて、一度もない。
「気にするな――そう言っても、お前は無理だろうけどな」
トリスは、返す言葉を探して口を開きかけ、また閉じた。
どう言えばいいのか、本当にわからないらしい。
「早く動けるようになれ。きついだろうけど……やるぞ」
あれから、ひと月が過ぎた。
薬草のおかげで、骨折はだいぶ良くなった。
けれど――立ち上がったトリスは、まるで乾いたゾンビだ。
足を一歩出すたびに、顔をしかめ、
踏みしめる音すら痛みに耐えるように弱い。
杖なしで歩こうとするたび、膝が震えた。
結局、まともに自分の足で歩けるようになるまで、
さらにひと月はかかった。
最近は梅雨空で、地面はぬかるんで歩きにくい。
それでもトリスは、雨に負けず、よく外へ出るようになった。
傷が治ってきた証拠だろう。
「アセルさんは……僕が誰に襲われたのか、聞かないんですね」
トリスが、唐突にそう言った。
濡れた前髪を指で払うしぐさが、妙に慎重だ。
まさか、慰めてほしいわけじゃないだろう。
そういう甘え方はしない。
「……誰だか、知っているんですね?」
雨がトリスの頬に流れつたう。
身体に刻まれた傷跡。
切り傷、刺し傷、火傷の跡まである。
その並び方や深さで、どう動いて、どう倒れたのか――
だいたいわかる。
そして、どんな手を使う連中なのかも。
……ただ、なぜトリスを襲ったのかだけは分からなかった。
俺は何も言わなかった。
教えても今は嵐にさせるようなものだから。
トリスは、小雨の中を歩き出した。
濡れた毛並みを細くした狐みたいに、足早に。
調査隊の三人は、あれから一度も山に入ってこなかった。
最初は、俺の恫喝が効いているだけだと思った。
ああいう連中は、時間がたてば恐怖なんてすぐ薄れる。
――そのはずだった。
……来ない。
静けさが、逆に不気味だった。
あれほど騒がしかったのに、ぴたりと途絶える――
そういう“空白”が、一番嫌な予兆だ。
余計なものを、この山に呼び寄せている可能性もある。
厄介事は、気配を消して近づくものだから。
やっぱり、トリスには早く強くなってもらいたい。
あいつに感じる才能は――確かにある。
あとは、それを引きずり出すだけだった。
「まずは剣技から――その木刀で始めよう」
マルチツールで削り出した木刀を手渡す。
触れれば、木の温もりが掌にすっと馴染む。
絹、とは言わないが……引っかかりのない、よく育った木の肌だ。
戦士と遊びで手合わせしたとき、ふざけて刻んだ文様も再現した。
木刀の表面に走るその模様は、今ではただの冗談ではない。
“剣を扱う感覚”をトリスに刻むための目印にもなる。
「僕、剣なんて使ったことないです」
剣を教えるのは、斬るためじゃない。
雨風をしのぐ傘を渡すように――
ただ、身を守る術を与えるためだ。
何も知らない手には、これくらいが丁度いい。
トリスの背後で、虹の双葉が朝陽を浴びていた。
朝露にそっと口づけられたみたいに、その色をさらに深めていく。
骨折した脚と腕はまだ庇うようで、動きはぎこちない。
それでも、痛みの影はもう薄いようだった。
「一度、母に会ってきます」
剣技の練習中、トリスがふと切り出した。
数か月も姿を見せていないのだから、心配しているだろう。
帰るのは悪くない。
「……あ、たぶん心配はしてないと思います。行商で何も言わず出かけてしまうこと、何度もあったので。ただ――今回は、ちょっと長かったので……顔を見せようかと」
言いながらトリスは、まるで”帰る理由”を、今まで懸命に考えていたようだった。
一緒に話していても、俺としては調査隊の奴らが気にならないわけじゃない。
トリスが家に戻ると言い出したのなら、なおさらだ。
「――気を張って行け。油断するなよ」
そう伝えた。
言いながら、“暗闇に紛れろ” と続けそうになって、慌てて呑み込んだ。
こいつを盗賊に仕立てるつもりは、毛ほどもない。
喉の奥に引っかかった言葉を、自分で踏みつぶすように飲み込んだ。
トリスが山を下りて、久々に静かな日が訪れた。
聞こえるのは、小鳥の声だけ。
その穏やかさに、ふっと肩の力が抜けた。
……ああ、安らぐ。
そう思った瞬間――胸の奥が冷えた。
この静けさの中に、あの“孤独の恐怖”がまた顔を覗かせる。
……もう平気だと思っていたのに。
一度飲んだそれは、ぬるま湯を口にしただけでぶり返す。
体の奥に刺さったトゲは、やっぱり抜けていない。
帰ってきたはずの平穏が、俺を怯えさせるものになる。
眠っている時だけが安らぎならば、永遠に――
そう思いかけた、その時だった。
ざわめく――俺のまわりが山肌ごと、地面の奥ごと。
……え?
視線を感じた。
間違いじゃない。
俺を見ている。
いつも蒔いてきた“虹の種”が、
土の間から、まるで二つの目を生やしたかのように、
虹色の双葉たちがこちらをじっと見つめていた。




