夕葦の予兆
(誰かしら?)
名を呼ばれ、思わず立ち上がって振り返る。
そこに広がっていたのは、数週間前に脳裏に浮かんだ光景だった。
夕焼けの光が差し込み、葦の葉が風に揺れてさらさらと音を立てる。
風の匂いと葉擦れの響き、そしてそこに立つ二人の男性の姿が、忘れかけていた記憶を呼び覚ます。
(なるほど──あれは、今日のことだったのね)
背の高い男の傍らにいた宦官は、内侍長だ。
顔を合わせたこともあるはずなのに、予知したときには気づけなかった。
あの男の印象が、あまりにも強かったせいだ。
男は遠目にも気品が漂っていた。
深紫の袍には銀糸で蟠螭の文様が精緻に織り込まれ、腰の帯には金銀の装飾が施されている。ひと目で、やんごとなき身分と分かる姿だった。
夢か現かも分からず見惚れているうちに、年若い男と内侍長がこちらへ歩み寄ってくる。
後宮に足を踏み入れられる男といえば、皇帝か皇子くらいのもの。
皇帝は今年四十五と聞いているから、この男は皇子に違いない。
距離が縮まると、その顔立ちがはっきりと見えた。想像以上の美丈夫だった。
黒曜石のような瞳は切れ長で涼やかに整い、端正な面差しからは艶めく色香が漂う。
絹糸のように流れる漆黒の髪は、冠の下で美しく結われていた。
「陀宝林、こちらは皇子の楊胤様だ」
内侍長がそう紹介すると、やはり予想どおり皇子だった。
楊胤というらしいその皇子は、仙霞をじっと見つめながら、口元だけで柔らかな笑みを作っている。
けれど、目は少しも笑っていない。──腹黒そうな男だ、と仙霞は思った。
「ああ、そうですか」
皇子だろうと予想していたので、驚きはしない。
名前を知ったところで、特に興味もなかった。
「蠱婆に取り次ぎをお願いしたいのだが」
楊胤が用件を告げる。華蠱宮に来る以上、蠱婆に用事があることは分かっている。
だが仙霞は、その理由を知りたくて、思ったままを口にした。
「なんの用ですか?」
「それは蠱婆に会ったら言う。二度手間になるからな」
要するに、お前のような小娘には教える必要はない、ということらしい。
「面倒くさいですが、いいですよ」
本当なら『では案内できません』と突っぱねたいところだ。
けれど相手は皇子、断れるはずもない。
「こら、陀宝林! 皇子様に対して、なんという無礼な言い草だ!」
仙霞としては、できるだけ失礼にならないよう言葉を選んだつもりだった。それでも怒られてしまった。
いくら蠱婆の跡継ぎとはいえ、皇子の命令一つで命が消し飛ぶのは分かっている。
命が惜しい仙霞は、すぐに殊勝な顔をして頭を下げた。
「大丈夫だ。気にしていない」
意外にも、楊胤は穏やかな声音で言った。
「それよりも──さっきから何を抱えているのだ?」
短気ではなかったらしい。助かった、と胸を撫でおろす。
そうして初めて、自分が何かを抱えていることを思い出した。
つい先ほど、珍しいものを見つけて夢中で持ち帰ってきたのだ。
これほど大きく立派なものは滅多にお目にかかれない。
きっと楊胤も驚いて、喜びに目を輝かせるに違いない──そう思った仙霞は、満面の笑みでそれを突き出した。
「ガマガエルです」
差し出した途端、二人の顔がみるみる蒼白に変わった。
大きな悲鳴を上げて腰を抜かしたのは──ガマガエルを目の前に差し出された楊胤ではなく、隣にいた内侍長だった。
(そんなに怖がるものかしら)
内侍長は、楊胤に手を引かれてようやく立ち上がると、仙霞をこっぴどく叱りつけた。
延々と怒鳴られても、なぜそこまで怒られるのか仙霞には分からない。
ただ、これ以上長引くのはごめんだと、黙って下を向き耐えるしかなかった。
もちろん、反省などしていない。
やがて仙霞は、楊胤を蠱婆の住む離れへ案内した。
皇子は終始落ち着き払ったまま、怖がる素振りひとつ見せずについてくる。
案外、肝の据わった人物らしい。
なにしろ、そこは采女たちですら近寄ろうとしない特別な場所だ。
内侍長も入室を断ったが、それが普通の反応である。
しかも今は夜。日中でさえ独特な嫌な気配が漂うのに、夜ともなれば不気味さは倍増する。
仙霞自身だって、なるべく避けたい時間帯だった。
それなのに楊胤は、愚痴ひとつ漏らさず、ためらうことなく歩を進めている。
これは、そう簡単にできることではない。
皇帝の子ともなれば蝶よ花よと育てられたに違いない──仙霞はそう思っていたが、その想像はどうやら外れていたようだ。
見た目に似合わぬ豪胆さに、仙霞はひそかに感心した。
やがて蠱婆の室へ入る。そこは独特の不気味さと緊張感に満ちた空間だ。




