不本意な相棒
室内は霊廟のように冷たく、殺風景だった。
中央には大きな陶器製の火炉が据えられ、蓮華文様が彫られた上等な品である。
炉からは煙が立ちのぼり、焚き物の匂いが室内に充満していた。
怪しげな沈香の香りは、この炉から広がっていたのだろう。
炉の向こう側には、想像していた通りの白髪頭の老婆が座っていた。
陀宝林の言うとおり、少し太りすぎている。
「急にお客様をお連れしてごめんなさい。こちらの方は──」
陀宝林の紹介を遮るように、蠱婆が口を開いた。
「知っておる。第四皇子であろう」
「どうして分かった⁉」
思わず楊胤は声を上げた。
「占で視たのじゃ。お主が来ることは分かっておった」
怪しげな呪術など半信半疑だった楊胤だが、考えを改めるべきかもしれないと思う。
それにしても蠱婆は、皇子を相手にしても言葉を改めないようだ。
本来、蠱婆は正三品の婕妤にあたるというが、立場でいえば皇子の方が上である。
だが敬語を使われなくても、不思議と腹は立たなかった。歳があまりにも離れているせいだろうか。
「もっと近う寄れ。そこでは寒かろう」
蠱婆に手招きされ、二人は炉のそばまで進み、腰をおろした。
炉の近くは思いのほか暖かかった。
「占いで見たということは、私がここに来た理由も分かるのか?」
「分かっておるよ。梅昭媛を呪殺した者を探しておるのだろう?」
これにはさすがの楊胤も度肝を抜かれた。
「それでは、罪人を知っているのか?」
「それは分からぬ。なにせ相手も蠱術を使っておる。占っても視ることはできぬ」
「やはり、今回の件は本当に蠱毒が関係しているのか?」
「ああ、そうだろうな。しかもなかなか強力な術師とみた。手強いぞ」
楊胤は驚きのあまり言葉を失った。
この話を信じるべきかどうか、まだ決めかねている。
楊胤がここに訪れることも、梅昭媛の件も知っていたのは驚きだが、裏がある可能性も否定できなかった。
一方、陀宝林はというと──話の流れについていけないのか、暇そうに座っているだけだった。
「それでは、私と共に罪人を見つける手助けをしてくれるか?」
蠱婆の力が本物かどうかは分からない。
だが罪人探しの強力な助けになるのは間違いなかった。
それに──梅昭媛に蠱毒をかけたのが蠱婆自身という可能性も、まだ捨てきれない。
「断る理由はないさ。そのために後宮に蠱師はいるのだからな。ただ、罪人探しを手伝うのはわれではなく……仙霞じゃ」
「え、私?」
暇そうにあくびをしていた陀宝林は、眠気も吹き飛んだように目を丸くした。
楊胤は陀宝林の下の名前を知らなかったので、一瞬誰のことか分からなかったが、彼女の慌てぶりを見て理解する。
「そうさ。われは足が悪い。今さらここを出て後宮内を歩くのは骨が折れる。だから、手助けをするのは仙霞の役目じゃ」
陀宝林は露骨に嫌そうな顔をし、首を横に振った。
「陀宝林は蠱術が使えるのか?」
楊胤の問いに、蠱婆が答える。
「蠱術を使う必要はない。罪人を見つけ出せばよいのだからな。仙霞は蠱毒の知識も十分にあるし、頭も切れる。良い補佐となるじゃろう」
「待って、蠱婆。私が手伝いに行ったら、誰が蠱婆の面倒を見るの?」
「食事を置いておいてくれれば十分だ。あとは自分でできる。後宮内を歩く方が、よほど骨が折れるからな」
やり取りを聞いて、楊胤はひとつ理解した。
どうやら陀宝林は、蠱婆に対しても敬語を使わないらしい。
入室のときだけ敬語だったのは、一応の礼儀として形ばかりに使ったのだろう。
礼儀を知っていながら使わない──やはり癖の強い人物だ。
まあ、それは出会った当初から感じていたことではあるが。正直、補佐にするのは気が進まなかった。
かといって、この年寄りと共に罪人探しをすれば、ほとんど介護のような状態になるだろう。どちらがましかといえば、やはり陀宝林だ。
とはいえ──もし蠱毒を放ったのが蠱婆本人なら、そばにいた方が黒幕を特定しやすいかもしれない。
「わざわざ後宮を歩き回らなくても、私が華蠱宮に通えばいいのではないか?」
楊胤の言葉に、陀宝林の顔が分かりやすく輝いた。
「何度来られても、占いで罪人を視ることはできぬ。だが仙霞には予知の能力がある。後宮内で罪人と接点を持てば、何かを視ることができるかもしれぬ」
陀宝林は「余計なことを……」と言いたげに、苦い顔で蠱婆を睨みつける。
「予知か、それはすごいな」
楊胤が陀宝林を見やると、彼女は気まずそうに顔を背けた。
「とはいえ、蠱師見習いの者に大きな事案を任せるのは心許ない。ゆえに猫鬼を遣わそう」
蠱婆が両手を叩くと、乾いた音が室に響いた。
蠱婆が両手を叩くと、乾いた音が室に響いた。
次の瞬間、何もなかった空間から、黒々としたもふもふの塊がふっと現れた。
『なゃあ』
鳴き声は愛らしいのに、どこか野太さが混じっている。
黒い毛並みのせいで輪郭がぼやけているが、どうやら猫らしい。
ただし普通の猫にしてはずいぶん丸々としており、歩けば「もふ、もふ」と音を立てそうなほどの存在感だった。
「なんと面妖な……」
楊胤は必死で平静を装ったが、頭の中は忙しい。
どんな仕掛けが隠されているのか考えを巡らす。
だが、室内には炉以外に何もない。隠れる場所などあるはずもなかった。
「あら、猫鬼。久しぶりね」
陀宝林の声に応えるように、猫鬼は一声鳴き、体を彼女にすり寄せた。
陀宝林がひょいと抱き上げると、猫鬼は大人しく胸の中に収まる。
「これは……猫なのか?」
楊胤の問いに、陀宝林は眉をひそめてすぐさま言い返す。
「どう見ても猫でしょう」
「だが、あまりにも太りすぎではないか」
「蠱婆の飼い猫ですから」
黒猫は『お前、失礼な奴だな』と言わんばかりに、じろりと座ったままの目で楊胤を見返した。
蠱婆にしてみれば陀宝林の発言の方がよほど無礼だ。
案の定、睨みを利かせていたが、当の本人はまったく気づかず猫を嬉々として撫で続けている。
「何かあれば、猫鬼が守ってくれるだろう」
「そんなに強いようには見えぬが」
楊胤は訝しげに猫鬼を見つめた。
外見だけを見れば、どこにでもいる黒猫にしか思えない。
さらに、丸々と太っているせいか、本来の猫らしい俊敏さはまるで感じられなかった。
「これは猫蠱とも呼ばれる使役じゃ。妖怪のようでもあり、鬼のようでもあり……すでに死んだ猫だ」
「それを聞いて、お前はおそろしくはないのか」
猫鬼を抱きかかえる陀宝林に問いかける。
「どうしてですか? こんなに可愛いのに」
きょとんとした面立ちで、逆に聞き返された。
出会ったとき、大きなガマガエルを抱えていた姿を思い出す。──こいつに一般的な感覚を求めるのは無駄らしい。
「……そうだな。とにかく調べなければならないことが山ほどある。一緒に行動できる者がいるのは有難い」
蠱婆への疑いは晴れたわけではないが、蠱師見習いから情報を引き出せばいい。
むしろ陀宝林を使って、蠱婆のことを探らせる方が得策かもしれない。
蠱婆は一筋縄ではいかなそうだ。
共に過ごせば、逆に取って食われる可能性すらある。近づきすぎるのは危険に思えた。
「だそうじゃ。仙霞、任せたぞ」
「……蠱婆がそう言うのなら。気は乗りませんが」
陀宝林は、やはり余計な一言を忘れない。
かくして楊胤は、蠱師見習いの陀宝林と共に罪人を探すこととなった。
陀宝林は愛おしそうに猫鬼を抱きしめ、頬をすり寄せている。この任務の重大さなど、まるで理解していないようだ。
(大丈夫だろうか)
補佐を得たにもかかわらず、不安ばかりが増していく楊胤であった。




