お前を手放したくなかった
──そして。楊胤と別れてから、一週間が経過していた。
日が暮れはじめ、あたり一面が茜色に染まっていく。
この景色を、どこかで見たような気がした。
予知の映像だろうか。いや、違う。
初めて楊胤と出会ったときの、あの空の色とよく似ているのだ。
風が吹き抜け、仙霞の髪をやわらかく揺らす。
山間に沈みかけた夕陽を眺めていると、背後から声がかかった。
「仙霞」
暗闇を照らす燭台の灯のように、穏やかで心をほっとさせる声だった。
振り返ると、そこには目を細め、温和な笑みを浮かべて立つ楊胤の姿があった。
少し離れた背後には、付き従う宦官の敬宋の姿も見える。
ちょうど楊胤のことを思い出していたところだったので、仙霞は驚きを隠せなかった。
「どうされたのですか? また何か新たな呪いでも起こったのですか?」
仙霞の問いに、楊胤は小さく首を振りながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「いや、そうではない。ちゃんとした別れの挨拶ができなかったからだ」
なるほど。楊胤もそれが心残りだったのか。やはり真面目な人だと、仙霞は思う。
腕を伸ばせば触れられるほどの距離まで楊胤が近づき、そこで足を止めた。
「何を集めているのだ?」
楊胤の視線が、仙霞の抱える小さな竹籠に向けられる。
「毒草です。このあたり一帯は毒草地帯なのです」
「毒草か。今までで一番ましだな」
楊胤は口元に微笑を浮かべた。
ましとはどういう意味だろう。
思い返せば、これまでは蛙だの虫だのを持ち歩いていたことも多かった。そう思えば確かにましなのかもしれない。
「毒草は護符にもなるのですよ。枯れる前に集めておこうと思いまして」
「ほう、熱心だな」
短い会話のあと、ふと沈黙が落ちた。
別れの挨拶に来ただけなら、もう帰るのだろう。忙しい人だ。これ以上、世間話に付き合わせるのも気が引ける。
「では、これで。これまでありがとうございました」
仙霞が軽く会釈して立ち去ろうとしたそのとき、腕を掴まれた。
「待て、まだ話は終わっていない」
話があったのか。それならそうと、先に言ってくれればよかったのに。
仙霞は楊胤の方へ向き直り、まっすぐにその瞳を見つめた。
「なんでしょう?」
すると楊胤は、気まずそうに目を泳がせた。何か言いにくい話題なのだろうか。お付きの敬宋は少し離れたところに立ち、ぼんやりと空を眺めている。気を利かせてなのか、たんに興味がないだけなのかは分からない。
「実は、帝から皇太子に任命された」
ああ、そのことか。ついにきたかと仙霞は思った。
「驚かないのか?」
「驚いていますよ」
「表情が変わっていないが」
「心の中では驚いています」
それは嘘ではない。仙霞が予想するよりも早い段階だったなと驚いている。
「おめでとうございます」
とりあえず仙霞は一揖してみせた。すると楊胤は眉を寄せて口を開く。
「断った」
「え?」
「辞退したのだ」
これには仙霞も驚いた。仙霞の予知では楊胤は皇帝になるはずである。未来が変わったのだろうか。
「どうしてですか?」
「言っただろう。人でありたいからだ。……危うく、その場で首を斬られそうになったがな」
楊胤は朗らかに笑った。
笑いごとではない、と仙霞は心の中で呟く。
「それは、いつの話ですか?」
「お前が華蠱宮に戻る前日のことだ」
そうだったのか。どうりで、あの日の様子がどこかおかしかったわけだ。
「終始無言で落ち込んでいたのは、そのせいだったのですね」
あれほどの出来事があったあとなら、心中はさぞ複雑だったに違いない。
「いや、それは関係ない」
あっさりと否定され、仙霞は思わず面食らう。
「では……他にも気がかりなことがあったのですか?」
仙霞の問いに、楊胤は短く息を呑み、一拍の沈黙を置いたのち、まっすぐに仙霞を見つめた。
「……お前を、手放したくなかったからだ」




