帝位よりも、人の心を
仙霞の問いに、楊胤は口を噤む。
皇帝となれば、仙霞を妃にすることもできる。楊胤の今の立場ではできないことだが、皇帝となれば話は別だ。しかし……
「問題は、俺は皇帝にはなりたくないということだ」
仙霞の問いはまるで無視して、独り言のように自分の気持ちを漏らした楊胤に、仙霞は不満そうな表情を浮かべる。
「答えになっていません」
「答える義務はない」
仙霞は軽く唇を尖らせた。
幼く見える怒り方に、楊胤は目を細めて笑う。いつも淡々としていて大人びた雰囲気の仙霞が年相応の女の子に見えたからだ。
「どうして皇帝になりたくないのですか?」
「人でありたいからだ」
「皇帝になると人ではなくなるのですか?」
仙霞は不思議そうな顔をして聞いた。
「人として正しい行いと、皇帝として正しい行いは違うからな」
皇帝となれば好む好まざるは関係なく、様々な妃のもとへ通わなければいけない。子孫繁栄のためには必要なことだ。
しかしそれは愛憎を招く。人の感情は割り切れるものではない。
それに、今回の多数の死刑決定も、蠱毒という害を滅ぼすためには必要な処置だ。流行り病が広まったとき、村を一つ潰してしまうのと似ている。
それは一見非道な行いに見えるが、大多数の命を守るために必要なことだったりする。人道を無視した行いができることが為政者には求められる。
楊胤が帝であれば、今回のような何も知らなかった者まで死刑に処するやり方は好まないが、この決定が正しくないとはいえぬ難しさがある。
父は人としては最低だが、皇帝としては優れているともいえる。今回、大戦に発展しそうだったのを防いだのは事実だ。
「今回の処置は、皇帝として正しい判断だとお思いですか?」
「分からぬ。だが、もし戦に発展していたら、百名どころではない犠牲者が出ていた可能性もある」
「しかし、こうも考えられませんか? もし戦となり勝利していれば、領土を拡げることができたかもしれません。絶好の機会をみすみす逃したとも言えるのでは?」
仙霞は穏やかな声音で、楊胤を見つめながら言った。
「なかなか危険なところを突くな。仙霞は戦推進派か?」
「いいえ。私は無益な殺生は好みません。けれど、領土を拡げれば皇帝は賛美されるでしょう。その代わり、多くの命が失われ、新たな恨みも生まれます。何が皇帝として正しい行いなのか──私には分かりません」
楊胤は唇に手を当て、天井を仰いだ。
「何が正しいかは、皇帝が決める。たとえ道理に外れていようと、皇帝が決めたことが正しいと歪められていく。……俺はそんな恐ろしい存在にはなりたくない。まるで鬼のようだ」
「楊胤様にとって、皇帝は神ではなく鬼なのですね」
「俺にとってはそうだ。……父の悪行の果てに、俺は生まれたのだから」
生まれてはいけなかったのかもしれない。
何度そう思っただろう。母を死に追いやったのは、父ではなく自分なのではないか。
そんな罪悪感が、長い年月をかけて彼を蝕んできた。
汚れた身で、国の頂点を目指すなど、あまりにも愚かしい。
「立場がどうなろうとも、私にとって楊胤様は楊胤様です」
仙霞は、やわらかな微笑みを浮かべて言葉を落とした。
深い意図などないのだろう。けれど、その何気ない言葉が、楊胤の胸に温かく沁みわたっていく。
「まったく……お前というやつは」
「また余計なことを言ってしまいましたか?」
仙霞はきょとんとした表情で小首を傾げた。
その仕草があまりにも愛おしく、どうにかなってしまいそうだった。
「いや、最高の一言だ。一生忘れない」
仙霞は、よく分かっていないような顔をしながらも、安心したように微笑みを返した。
──離したくない。このままずっと、側にいてほしい。
望まぬならば、触れることができなくても構わない。
しかしそれは叶わぬ願いだった。




