神血の剣
空気が一気に冷え込んだ。風が不気味な唸り声を上げて通り過ぎる。
空はひび割れ、白い輝線が稲妻のような輪郭となり、天が裂ける。突風が竜巻を起こし、大地を蛇のように這いまわった。地面に爪先を立てるように、砂と塵を巻き上げながら渦が轟く。
仙霞は護身の呪文を唱えて応戦した。
竜巻は、消え去ることも力を弱めることもないが、仙霞や楊胤に向かって突進してくることもない。
「対抗できるとは、凄いな」
楊胤は感心するように呟いたが、仙霞にはこれ以上のことはできなかった。形勢が圧倒的に不利なのは変わらない。
「喚賢妃の動機は理解できた。帝に放蠱したのも、元凶を絶たねばならないと思ったのだろう。帝を恨む気持ちは俺にも分かる。だが、呪殺は許されることではない。身代わりに犠牲になった者の無念のためにも、俺は喚賢妃を斬らねばならない」
楊胤はそう言いながら一歩足を踏み出す。鞘から長剣を引き抜くと、白刃が月の光のように輝いた。
『人間に何ができる』
喚賢妃は中空の夜空から、楊胤を見下ろして嘲笑する。
「忘れたか。俺は皇子だ」
そう言って長剣を振るうと、月の刃のような突風が空に舞い上がり、喚賢妃の体を通り抜けた。
まるで凧の糸が切れたかのように、喚賢妃は地上に落ちる。
『どういうことだ』と、喚賢妃は驚きながら楊胤を見つめた。
「帝がなぜ国を治めているのか。古来より神の血を引き継いでいるからだ。お前たち術師に力が伝承されるように、皇帝にも神の力が伝承されている」
楊胤は鋭く冷淡な瞳で喚賢妃を捉え、長剣を携えたままゆっくりと近づいていく。
(皇族にそんな力があるなんて、知らなかった)
仙霞は茫然としながら、楊胤の背中を見つめた。
もし楊胤が人智を超えた力を持っているのなら、他の皇族たちもまた同じように力を有しているのだろうか。当然、皇帝も──?
次々と疑問が浮かぶが、今は目の前の敵に集中しなければならない。
楊胤を援護するように、仙霞も護身の呪文に力を込めた。呪いを封じ込める光景を心の中で思い描く。
実戦で力を使うのは初めてだったが、次第に要領を得てきた。仙霞の中で、眠っていた何かが目を覚まし始めている。
喚賢妃はわずかに宙に浮きながら、楊胤へと突進した。
玉の簪や朱色の牡丹で結い上げていた髪は、いつの間にか解け、濡羽色の長い髪を振り乱している。
目は血を流すかのように赤く染まり、唇は裂けるように大きく開いていた。その姿はまるで夜叉のように禍々しく、九尾の狐のように幻怪だ。
底知れぬ憎悪の光を宿した瞳と、裂けた紅い唇は、嗤っているようにも、泣いているようにも見えた。
幽鬼と化した喚賢妃は、音もなく滑るように楊胤へと突進した。
楊胤は月の刃のような斬撃を繰り出すが、喚賢妃はひらりと身をかわし、空を裂く音だけが響く。
楊胤は舞うように長剣を操り、次々と攻撃を繰り出したが、幽鬼の体を切り裂くことはできなかった。だが、隙のない剣さばきに、喚賢妃も容易には手出しできない。
二人は一進一退の攻防を繰り広げる。
やがて空には黒雲がとぐろを巻くように立ちこめ、雷雨が激しく降り注いだ。
稲光が閃き、戦う二人の姿を一瞬照らし出す。
続いて、地を揺るがすほどの雷鳴が轟いた。
楊胤の周囲は仙霞の呪力によって守られていたが、そこに力を集中しているため、仙霞自身の守りは薄くなっていた。
喚賢妃の怒りを映すかのように、空も風も大地も唸りを上げる。
強風に舞った葉は鋭利な刃のように仙霞の体をかすめ、猛烈な風に吹かれて、立っていることさえ困難だった。
竜巻と雷が、周囲の景色を一変させていた。
宮殿の瓦は剥がれ、丹塗りの柱は折れ曲がっている。瓦礫と木材の残骸が激しい雨に打たれ、無残な光景をさらしていた。
だが、ここで膝を折るわけにはいかない。
仙霞の集中が途絶えれば、一進一退の攻防は崩れる。
目を開けていることさえ困難な状況の中、仙霞は必死に呪文を唱え続けた。
雷がそこかしこに落ち、木々が燃え上がる。
風光明媚だった庭は、今や荒れ果てた森のように見る影もない。
大木の枝が折れ、子どもの胴ほどもある枝幹が強風にあおられて仙霞めがけて飛んできた。
(ぶつかる!)
ここで逃げれば術が途絶える。しかし、ぶつかって意識を手放せば、それこそ終わりだ。
だがもう、逃げられる距離ではなかった。
『ンーニャ!』
猫鬼が枝幹の上に飛び乗った。すると、枝幹は仙霞の目の前で地に落ちた。危ういところで、猫鬼に助けられたのだ。
そのまま猫鬼は仙霞の肩に飛び乗る。
すると、みるみるうちに力が漲っていく。
呪文にさらに力を込めると、風の勢いが鎮まり、雷も止んだ。
黒い龍がとぐろを巻くようだった不気味な空も、次第に薄闇へと変わっていく。
その勢いのまま、仙霞は楊胤を守る呪力を強めた。
すると、一進一退だった攻防があきらかに優勢へと傾いていく。
楊胤は長剣を振るい、喚賢妃を押し返していった。
そして、喚賢妃はついに地面に倒れ伏した。足を斬られたのか、裳裾が裂けて赤く染まっていく。
動けなくなった喚賢妃を、楊胤は冷徹な表情で見下ろした。
彼の髪は雨に濡れ、結い上げていた髻がほどけて長い髪が肩に流れている。
男でありながら上級妃にも劣らぬ美しさをたたえ、その姿は寒慄を覚えるほどだった。
「いかなる理由があろうとも、人を殺めることは悪行だ。許すことはできぬ」
楊胤は静かに、しかし怒りを秘めた声で言い放つ。ゆっくりと長剣を持ち上げ、そのまま振り下ろした。
無慈悲な一太刀は、楊胤の義憤を象徴しているかのようだった。
喚賢妃の胸は長剣に貫かれ、瞬く間に血が広がっていく。




