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蠱毒の後宮妃  作者: 及川 桜
第九章 蟲毒の禍

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幽き花、闇に咲く

 こんなところで、無駄死にさせていい人ではない。


 なにせ、仙霞の予知が正しければ、彼はやがて皇帝となる人物なのだ。


(……いや、待って。予知が正しいのなら、彼は死なないはず)


 頭の中が混乱していく。


 死なないということは、この場で勝利するということなのか。そして、その功績を讃えられ、皇帝に?

 思い返す限り、あの予知の映像はそう遠い未来ではなかった。


 数十年後の姿ならば、容貌にもっと年齢の変化があるはずだ。


(じゃあ、このまま行かせて任せてしまったほうがいいの?)


 ──いや、それも違う。


 生身の人間が鬼に勝てるはずがない。


 とはいえ仙霞も、まだ蠱師見習い。楊胤と大差はない。


 術で多少は防げても、楊胤のように剣を扱うことはできない。


(……二人で。そう、二人で戦うのよ!)


「楊胤様、待って!」


 楊胤の背中に向かって声を放ったその瞬間、空に白い光が閃いた。


 次の刹那、空を裂くような轟音が大地を震わせる。常闇を貫く閃光がほとばしり、白銀の稲妻が大木へと落ちた。


 あまりに突然の出来事に、仙霞は身動きひとつできなかった。


 稲妻が幹を貫き、悲鳴のような音を立てて木々が裂ける。熱に焼かれた樹皮が剥がれ落ち、そこから炎が上がった。


 肉を裂くような音とともに、炎はとぐろを巻いて天へと昇る。


 現実離れした光景に、仙霞は息を飲んだ。


「仙霞っ!」


 大きな声で名を呼ばれ、ハッとしたときには、楊胤の体が仙霞を覆い、火の粉から守ってくれていた。


「大丈夫か⁉」


 緊迫した表情で楊胤が仙霞を見つめる。


「はい……申し訳ありません。大丈夫です」


 楊胤は羽織っていた長衣を脱ぎ、仙霞に被せて安全な場所へと誘導した。


「敵は天変地異を操るのか。なるほど──これは強敵だ」


 燃え上がる大木を前に、楊胤は不敵な笑みを浮かべる。


「先ほど、宮殿の外から格子窓を覗いたら、中で女官たちが倒れていたぞ」


「そうですか……これほどまでに強い呪力の持ち主だとは思いませんでした。蠱婆ですら、勝てるかどうか分かりません」


「もう人間ではないと言った意味が、ようやく分かったよ」


 仙霞は死を覚悟した。


 これは、仙霞が対抗できるような相手ではない。


 予知の映像の中に、仙霞の姿はなかった。


 楊胤が皇帝となるその時、仙霞はこの世にいないのかもしれない。


 それでも、どうにかして楊胤を生かし、自らを犠牲にしてでも滅ぼさねばならない。


「おい、あれは……なんだ?」


 楊胤が指さす先へ視線を向けると、中空に、透けるように流れる披帛ひはくが見えた。


 月明かりは乏しく、はっきりと姿を認めることはできない。


 だが、風に揺らめく披帛は、天女の羽衣のように美しく、滑らかだった。


 それは上級妃のものとわかる、華麗な衣装。


 艶やかな上襦下裙じょうじゅかくんに身を包み、高髻こうけいに結い上げた漆黒の髪には、ぎょくかんざしと朱色の牡丹が飾られている。


 中空で体をくねらせ、遊ぶように漂うその姿は、まさしく幽鬼のようだった。


 呪われた妃は、鳥肌が立つほど妖艶で美しい。


 全てから解き放たれたように佇むその顔は、雪のように白く、まるで感情を失った天界の化身のようだった。


「喚賢妃……」


 仙霞は、零れるようにその名を呟いた。


 喚賢妃は、あまりにも美しかった。


 そしてなぜか、胸が締めつけられるほどの哀しみを纏っていた。


 鬼となった彼女の容貌は、人であった頃と何ひとつ変わっていない。


 醜くおぞましい姿に成り果てていなくてよかった。仙霞は心の底でそう思った。


『なぜ、私だと分かった』


 喚賢妃の声は、普段と変わらぬ穏やかさを保ちながらも、どこか異様に響いた。


 声帯の揺らぎが銀の鈴のようで、小さな音色ながらも遠くまで届く、そんな声だった。


 仙霞は中空を仰ぎながら、静かに答える。


「喚賢妃の母君は、華南の少数民族の巫女であられましたね。華南は蠱毒の発祥の地。呪力が強いのは当然のことです」


 その情報は、楊胤に調べてもらった巻物に記されていた。


 喚賢妃は南詔なんしょうの帝の公主。南詔だけでは蠱毒とは結びつかないが──母の出生地まで辿って、ようやく確証を得たのだった。


『なるほど……やはりお前は、生かしておくべきではなかった』


 喚賢妃は細めた目で、静かに仙霞を見下ろした。


 その言葉に楊胤が反応し、仙霞を庇うように身を盾にする。


 しかし、仙霞はその手を制し、一歩前へ踏み出した。


「これほどの力を持ちながら、なぜ私を確実に仕留めなかったのですか。私に放たれた蠱毒は脆弱で、容易に滅ぼせるものでした。……私を殺すことに、ためらいがあったのでは?」


 皇帝に放たれた蠱毒とは、雲泥の差がある。


 本気で仙霞を呪殺しようとすれば、逃れる術などなかったはずだ。


『人の心は苦しいものだ。それを手放した今、私はようやく救われた』


 その声は、独り言のようでもあり、仙霞の問いへの答えのようでもあった。


 何の罪も恨みもない仙霞を殺すことが、喚賢妃には耐えがたかったのだろう。


 それでも、蠱毒に手を染めなければならない理由が、喚賢妃にはあったのだ。


(それは、きっと……)


「なぜ梅昭媛を呪殺した!」


 仙霞の隣に立っていた楊胤が、中空に漂う喚賢妃に向かって声を上げる。


『それを知ってどうする』


「後世に伝える。こんな悲しいことが二度と起こらないように」


『悲しいこと? 私の苦しみや辛さが分かるものか』


ふたりの会話を聞いていた仙霞は、そっと楊胤の肩に手を置き、軽く首を振った。


「楊胤様、違うのです。喚賢妃は、梅昭媛を殺してはいないのです」


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