幽き花、闇に咲く
こんなところで、無駄死にさせていい人ではない。
なにせ、仙霞の予知が正しければ、彼はやがて皇帝となる人物なのだ。
(……いや、待って。予知が正しいのなら、彼は死なないはず)
頭の中が混乱していく。
死なないということは、この場で勝利するということなのか。そして、その功績を讃えられ、皇帝に?
思い返す限り、あの予知の映像はそう遠い未来ではなかった。
数十年後の姿ならば、容貌にもっと年齢の変化があるはずだ。
(じゃあ、このまま行かせて任せてしまったほうがいいの?)
──いや、それも違う。
生身の人間が鬼に勝てるはずがない。
とはいえ仙霞も、まだ蠱師見習い。楊胤と大差はない。
術で多少は防げても、楊胤のように剣を扱うことはできない。
(……二人で。そう、二人で戦うのよ!)
「楊胤様、待って!」
楊胤の背中に向かって声を放ったその瞬間、空に白い光が閃いた。
次の刹那、空を裂くような轟音が大地を震わせる。常闇を貫く閃光がほとばしり、白銀の稲妻が大木へと落ちた。
あまりに突然の出来事に、仙霞は身動きひとつできなかった。
稲妻が幹を貫き、悲鳴のような音を立てて木々が裂ける。熱に焼かれた樹皮が剥がれ落ち、そこから炎が上がった。
肉を裂くような音とともに、炎はとぐろを巻いて天へと昇る。
現実離れした光景に、仙霞は息を飲んだ。
「仙霞っ!」
大きな声で名を呼ばれ、ハッとしたときには、楊胤の体が仙霞を覆い、火の粉から守ってくれていた。
「大丈夫か⁉」
緊迫した表情で楊胤が仙霞を見つめる。
「はい……申し訳ありません。大丈夫です」
楊胤は羽織っていた長衣を脱ぎ、仙霞に被せて安全な場所へと誘導した。
「敵は天変地異を操るのか。なるほど──これは強敵だ」
燃え上がる大木を前に、楊胤は不敵な笑みを浮かべる。
「先ほど、宮殿の外から格子窓を覗いたら、中で女官たちが倒れていたぞ」
「そうですか……これほどまでに強い呪力の持ち主だとは思いませんでした。蠱婆ですら、勝てるかどうか分かりません」
「もう人間ではないと言った意味が、ようやく分かったよ」
仙霞は死を覚悟した。
これは、仙霞が対抗できるような相手ではない。
予知の映像の中に、仙霞の姿はなかった。
楊胤が皇帝となるその時、仙霞はこの世にいないのかもしれない。
それでも、どうにかして楊胤を生かし、自らを犠牲にしてでも滅ぼさねばならない。
「おい、あれは……なんだ?」
楊胤が指さす先へ視線を向けると、中空に、透けるように流れる披帛が見えた。
月明かりは乏しく、はっきりと姿を認めることはできない。
だが、風に揺らめく披帛は、天女の羽衣のように美しく、滑らかだった。
それは上級妃のものとわかる、華麗な衣装。
艶やかな上襦下裙に身を包み、高髻に結い上げた漆黒の髪には、玉の簪と朱色の牡丹が飾られている。
中空で体をくねらせ、遊ぶように漂うその姿は、まさしく幽鬼のようだった。
呪われた妃は、鳥肌が立つほど妖艶で美しい。
全てから解き放たれたように佇むその顔は、雪のように白く、まるで感情を失った天界の化身のようだった。
「喚賢妃……」
仙霞は、零れるようにその名を呟いた。
喚賢妃は、あまりにも美しかった。
そしてなぜか、胸が締めつけられるほどの哀しみを纏っていた。
鬼となった彼女の容貌は、人であった頃と何ひとつ変わっていない。
醜くおぞましい姿に成り果てていなくてよかった。仙霞は心の底でそう思った。
『なぜ、私だと分かった』
喚賢妃の声は、普段と変わらぬ穏やかさを保ちながらも、どこか異様に響いた。
声帯の揺らぎが銀の鈴のようで、小さな音色ながらも遠くまで届く、そんな声だった。
仙霞は中空を仰ぎながら、静かに答える。
「喚賢妃の母君は、華南の少数民族の巫女であられましたね。華南は蠱毒の発祥の地。呪力が強いのは当然のことです」
その情報は、楊胤に調べてもらった巻物に記されていた。
喚賢妃は南詔の帝の公主。南詔だけでは蠱毒とは結びつかないが──母の出生地まで辿って、ようやく確証を得たのだった。
『なるほど……やはりお前は、生かしておくべきではなかった』
喚賢妃は細めた目で、静かに仙霞を見下ろした。
その言葉に楊胤が反応し、仙霞を庇うように身を盾にする。
しかし、仙霞はその手を制し、一歩前へ踏み出した。
「これほどの力を持ちながら、なぜ私を確実に仕留めなかったのですか。私に放たれた蠱毒は脆弱で、容易に滅ぼせるものでした。……私を殺すことに、ためらいがあったのでは?」
皇帝に放たれた蠱毒とは、雲泥の差がある。
本気で仙霞を呪殺しようとすれば、逃れる術などなかったはずだ。
『人の心は苦しいものだ。それを手放した今、私はようやく救われた』
その声は、独り言のようでもあり、仙霞の問いへの答えのようでもあった。
何の罪も恨みもない仙霞を殺すことが、喚賢妃には耐えがたかったのだろう。
それでも、蠱毒に手を染めなければならない理由が、喚賢妃にはあったのだ。
(それは、きっと……)
「なぜ梅昭媛を呪殺した!」
仙霞の隣に立っていた楊胤が、中空に漂う喚賢妃に向かって声を上げる。
『それを知ってどうする』
「後世に伝える。こんな悲しいことが二度と起こらないように」
『悲しいこと? 私の苦しみや辛さが分かるものか』
ふたりの会話を聞いていた仙霞は、そっと楊胤の肩に手を置き、軽く首を振った。
「楊胤様、違うのです。喚賢妃は、梅昭媛を殺してはいないのです」




