呪毒を継ぐ女
後宮の奥深く。
人が近寄らぬ秘地に、蠱婆の住む宮があるという。
梅昭媛を呪殺した罪人を探す任を負った楊胤は、内侍長に導かれてそこへ向かった。
蠱術を操る者は蠱師と呼ばれるが、本物の術師となるには長い年月が必要で、名乗れる頃にはすでに老女となっている。そのため人々は彼女らを蠱婆と呼ぶのだ。
蠱師の多くは女性である。古代には男の蠱師もいたと伝わるが、霊力を生み出すには女性が持つ「陰」の性質の方が適していた。
男は「陽」、女は「陰」──陰陽五行の理によってそう考えられてきたのである。
古代より宮廷は、蠱毒の脅威に晒されてきた。
後宮の妃が蠱毒によって命を落とすことは、一度や二度ではない。
歴代の王朝も手をこまねいていたわけではなく、厳しい禁圧を行い、殲滅を試みてきた。
蠱毒の恐怖は庶民にまで広がっていたが、その一方で解蠱を行える蠱師も増えていった。
そこで、蠱術を行った者は一族諸共死刑、さらに里長や上級役人にまで処罰が及んだ。
疑わしき者まで罪に問われ、数百人が死罪に処されたという。
無実の者も少なからず含まれていただろうが、それほどまでに厳しい処断を続けた結果、蠱師は後宮に仕える蠱婆を残して姿を消したとされる。
実際、この百年ほどは、その影さえ見えなかったのである。
後宮の蠱婆は、万が一蠱毒が放たれたときに備え、生かされてきた存在だ。
皇帝の命を救うためにしか術を使うことは許されず、古来より強力な契約の術を交わしていた。
こうして秘伝の蠱術は、途切れることなく継承されてきたのである。蠱師となるのに血筋は関係ない。養子として迎えられ、蠱師の支配下で修業を積むのだ。
現在の蠱婆が何代目かは分からず、古代に交わされた契約の術が今なお有効なのかも定かではない。
それでも──皇帝が「蠱師と共に罪人を探せ」と命じた以上、従うしかない。
主上の言葉は、絶対なのである。
内侍長のあとに続き、楊胤は後宮の奥地へ足を踏み入れた。
山林をかき分け、獣道のように整備もされていない細い道を、ただひたすら進んでいく。
彼は小さく嘆息を漏らしながら、黙々と歩みを重ねた。
(もし本当に蠱毒で殺されたのだとしたら、一番怪しいのは蠱婆ではないか)
蠱毒を操れる術師はすでに殲滅されたはずだ。
ならば、誰かが蠱婆に頼み込んだと考える方が、よほど理にかなっている。
共に罪人を探すふりをしながら、実際には蠱婆の背後にいる黒幕を突き止めよ──そういう意味なのだろうか。
だが、蠱毒など本当に存在するのか。楊胤は、茜色に傾き始めた太陽に歩みを合わせながら思案した。
呪い。怨霊。超自然の現象。
そんなものがあるのかどうか、懐疑的でしかない。
楊胤は目で見たものしか信じない。
人の噂も、情も、恋だの愛だのといった感情すら理解できないのに、怪しげな現象など信じる余地はなかった。
呪いで人が殺されるなど馬鹿げている。
臨終の際に顔の穴から蠱が這い出したという話も、どうせ遺体を長く放置していたのだろう。
生きているうちに顔中から虫が出てきたのならたしかにおぞましいが、死後ならあり得る現象だ。
おそらく誰かが話を盛って広めたに違いない。
死体から蛆虫が湧くなど、珍しいことではないのだから。
火葬した遺体から穴だらけの臓器が見つかったという件も、火力が弱く焼き切れなかったせいだろう。
梅昭媛は何らかの病に罹っていた──そう考える方がよほど自然である。
そうなると、蠱婆も罪人など知らぬのかもしれない。
いや、そもそも罪人自体が存在しない可能性すらあるのだ。
(まったく面倒なことに巻き込まれたものだ)
楊胤は、今日何度目か分からない嘆息をまた漏らした。
「日が落ちてきました。急ぎましょう」
そう言って、内侍長は歩を速める。
宦官である内侍長の背は、男根を失ったせいか中年の女のように丸みを帯びている。卑しい出自ではなく位も高いためか、所作には品があった。
大明宮で任を賜り、その足で蠱婆の宮へと向かうことになったため、すっかり夕暮れの時刻になってしまったのだ。
怪異など半信半疑の楊胤といえど、明るいうちに着きたかったと内心で気を落とす。
「こんな奥深くに住んでいるのか。不便だろう」
なかなか辿り着かぬ宮への道に、恨み言が口をつく。
「ほとんど自給自足の暮らしをしていると聞いております。宮には、下級妃が数人、蠱婆の世話をするために住み込んでおります」
「下級妃? 妃がおるのか?」
「はい。本来は下女でございますが、俸禄を上げねば誰も務めたがらぬため、下級妃に昇格させているのでございます。数年の務めを終えれば実家へ戻ります。下級女官に降格することはなく、あの宮にいたことは家族にも秘密にいたします。でなければ気味悪がられ、居場所を失いますから」
「なるほど。そうして秘密は守られてきたのだな。数年とは具体的にどのくらいだ?」
「多くは五、六年でございます。しかし、まれに実家に戻らぬ者もおります。帰れぬのか、帰らぬのかは分かりかねますが」
「戻らぬ者はどうなる」
「蠱婆の跡取りとなるのでございます」
「なるほどな」
そうして代々受け継がれてきたのか。
すっかり暗くなった道を歩きながら、楊胤はふと考えた。
蠱婆の後を継ぐ下級妃とは、どんな女なのだろうか。
立場こそ天と地ほど違えど、不遇な境遇には、どこか親近感を覚えた。
「次の蠱婆を継ぐ者も、年老いているのか?」
「いいえ、歳若く、美しいおなごでございます。後宮で普通に勤めていれば、上級妃に召し上げられてもおかしくないほどの逸材です」
「なぜそのような女が蠱師になりたがる」
「少し──いえ、かなり変わった女でして。会えばすぐにお分かりになるかと。言葉遣いに多少の難がありまして……本人に悪気はないのですが、その分、ある意味厄介と申しましょうか」
一体どんな女なのか。俄然、興味が湧いてくる。
内侍長がここまで言う女など、見たことがない。




