決行の夜
門の中へ足を踏み入れた瞬間、まるで結界の内側に入り込んだかのような、異様な気配に包まれた。
「楊胤様、大丈夫ですか?」
「ん? 何がだ?」
楊胤は、何も感じていないらしい。
(この人は鈍感だものね)
霊媒体質の仙霞とは違い、楊胤には霊感というものがまるでない。
視えず、感じないということは、それだけ鉄壁の守りで覆われているということでもある。
(ある意味、羨ましいわ)
楊胤と仙霞を先頭に、一行は次々と宮殿の庭へと足を踏み入れた。
だが、宮殿は不気味なほど静まり返っている。
物音を抑えて進んできたとはいえ、これだけの人数が庭に集まれば、誰かが気づいてもおかしくない。
深夜とはいえ、侍女の一人や二人は起きて対応しそうなものだが、それすらもない。
彼女たちは一体、どこへ消えたのだろう。
「なぜ誰も出てこない……」
兵を率いた楊胤は、不審そうに辺りを見回した。
すると、宮の中を進んでいた武官や宦官たちが、次々と地面に崩れ落ちた。
「これは一体どういうことだ。まさか、毒でもまかれたのか?」
立っているのは、楊胤と仙霞の二人だけだった。
武官三十名、宦官二十名──総勢五十名で乗り込んだはずが、ものの数瞬で全員が倒れてしまったのだ。
仙霞は慌てて倒れている武官のそばにしゃがみ込み、息を確かめる。
「大丈夫です。意識を失っているだけです」
「何が起きた……? それに、なぜ俺たちだけ平気なのだ」
青ざめた顔で、楊胤が問いかける。
「おそらく、この子のおかげかと」
いつの間に現れたのか、猫鬼が我が物顔で庭を歩いていた。
暗闇の中に黒い毛並みが溶け込み、仙霞もどの瞬間からそこにいたのか分からない。
『なゃあ』
猫鬼は自慢げに長い尻尾をぴんと立てた。
「猫鬼は本当に良い働きをするな」
楊胤は感心したように呟く。
「どうしますか? 私たちだけで乗り込みますか?」
「いや、それは危険すぎる。相手は鬼なのだろう? ここはひとまず引き上げて、作戦を練るべきだ」
「逃げられたら、どうします?」
「どうやって逃げるというのだ。ここは後宮だぞ。……いや、鬼だからこそ、世の常識など通じぬのか?」
楊胤は倒れている者たちを見下ろしながら言った。
「私も、鬼という存在がどんな生き物なのか、詳しくは知らないのです」
「そうであればなおさら、慎重に動かねばならんな。……焦り過ぎたかもしれない」
楊胤と仙霞が門の外へ出ようと足を踏み出すと、見えない壁に阻まれたように、前へ進むことができなかった。
「そう簡単には帰してくれない、というわけですね」
「やけに落ち着いているな。普通なら錯乱してもおかしくない場面だぞ」
「それを言うなら、楊胤様だって」
「馬鹿を言え。俺が錯乱したら、誰が仙霞を守るのだ」
その言葉に、仙霞は思わず彼を見直した。
普通なら恐怖に震えてもおかしくない状況なのに、楊胤は終始冷静だ。
苦労知らずのお坊ちゃまではない。むしろ、艱難辛苦の人生を歩んできたからこそ、この胆力があるのだろう。
「こうなったら、覚悟を決めましょう。どんなに作戦を練っても同じことです。蠱師を倒せるのは、呪術師だけ。最後は呪力のせめぎ合いとなるはずです」
楊胤は仙霞の瞳をじっと見つめた。
「つまり……仙霞が戦うということか?」
「私以外に誰がいます?」
蠱婆は今、皇帝の傍を離れられない。
この場で動けるのは、楊胤と仙霞、二人だけだった。
「喚賢妃は、お前よりも呪力が強いのではなかったか?」
なかなか痛いところを突かれた。
蠱師としても力量で劣り、ましてや今の喚賢妃はすでに鬼になっている可能性が高い。勝てる算段など、どこにもない。
「でも、やらなければいけません」
勝てるかどうかではない。やるしかないのだ。
「そうだな。だが、戦うのは俺だ」
「何をおっしゃっているのですか! あなたは皇子なのですよ!」
「皇子である前に、男だ」
「男だの女だの、鬼には関係ありません。むしろ古来より女性の方が霊的な力は強いと言われていて、だからこそ蠱師は女性が多く──」
仙霞の唇に、楊胤の人さし指がそっと触れた。
「うるさい。蠱師だろうが女だろうが、年下の娘に守られるほど落ちぶれてはいない」
そう言い残すと、楊胤は倒れている者たちの間をかき分け、大股で宮殿へと駆けていった。
「待ってください、危険です!」
仙霞は慌てて楊胤を追ったが、倒れている人々が行く手を塞ぎ、思うように進めない。
その間に、楊胤は一人で先へと駆けていってしまった。
(楊胤様が死んでしまう!)




