彼女の秘密
「事実にするな! 女を知らないとはどういう意味だ。男女の営みを言っているなら、お……お前よりは知っている!」
言わなくてもいいことまで口走ってしまった。吐き出した瞬間、軽く後悔する。
だが、その直後に続いた仙霞の言葉に、息を呑んだ。
「それはありません。間違いなく私の方が経験豊富です。後宮に入る前の話ですが」
「……は?」
楊胤は石のように固まった。
心臓の音が耳の奥で、いやに大きく響いていた。
「あっ! 貞操は守っておりますよ。後宮に入る前の医師の診察も通りましたし、そこに不義はありません」
その言葉に楊胤は少し安堵するが、同時にいくつもの考えが頭を巡った。
「……では、どういう意味だ?」
「私の生まれた土地では、男女の交わりは村全体で行う儀式でした。生まれた子は村みんなの子として育てられます。誰の子か分からないですからね。小さな頃から、そういう儀式を目の当たりにして育ちました」
仙霞は淡々と告げる。あまりにも普通に話すので、本人は気にも留めていないらしい。
楊胤はその風習を聞いて絶句し、胸がざわついた。
――彼女が、ただ特異なだけでなく、深い陰を抱えているように思えたからだ。
確かに、そうした環境で育ったなら、彼女が男女関係について詳しいのも頷ける。
仙霞の年齢に似つかわしくない色気は、そこから滲んでいるのかもしれないと考えると、複雑な気持ちになる。
彼女の奥底にある何かを覗き込んでしまったような気がした。
「……大変な境遇だったのだな」
「その話を聞いて同情してくださるなんて、やっぱり楊胤様は優しいのですね。大丈夫です。私はもう自由になれましたから」
楊胤は、以前彼女に『人を殺したいと思ったことはあるか』と聞いたことを思い出す。
仙霞は『殺したいとは思わなかったですね。ただ、自由になりたいとは思いました』と答えた。
その言葉の重さが、今、現実味を帯びて胸に落ちる。
初めて、彼女が弱く、儚い存在に見えた。
「これからは、俺が守ってやる」
「私は大丈夫ですよ。呪いが失敗したことは、罪人も分かっているでしょう。しばらくは安全だと思います。では、お帰りください」
仙霞は楊胤の背を押し、帰らせようとした。
「まて。話は終わっていない。とりあえず、まずは座ろう」
強引にいつもの定位置に腰を下ろすと、仙霞も仕方なさそうに端座する。
「お話とはなんでしょう。昨夜お願いした四夫人の出身地について、何か詳しいことが分かったのですか?」
「指示は出したが、報告はまだだ。やけに急くな。……俺がここにいるのは、そんなに嫌か?」
仙霞の大きな瞳がぱちりと見開かれる。
「まさか。そうではございません。眠いとおっしゃっていたので、早くお帰りになられた方がいいと思ったのです」
「ほう。つまり、俺を心配してくれたのか」
(分かりにくい……嫌われているのかと思った)
楊胤はふっと笑みを浮かべ、仙霞に柔らかな眼差しを向ける。
「俺は大丈夫だ。本当はここで横になりたいのだが……」
思わず本音がこぼれた。
先ほど仙霞の過去を聞いたとき、嫌悪どころか、ますます彼女を知りたいと思ってしまったのだ。
「それは大丈夫とは言いません! ささ、今日は早くお帰りください」
仙霞は楊胤の袖をつかみ、強引に立たせようとする。
「寝ていったらどうだ、と言わないのか」
「楊胤様がここで寝たら、私が寝不足になるじゃないですか」
(……こいつ)
立ち上がると同時に、仙霞は容赦なく背中を押し、玄関へと追いやる。
(無理やり帰らせるとは。自然体で無礼を働く女だ)
口をわずかに尖らせながら外に出た楊胤に、仙霞は微笑んで告げた。
「明日は包子を用意してお待ちしております。どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
その一言に、楊胤の胸は跳ね上がる。
(……明日も会いたいという意味か⁉)
驚きと喜びが一気にこみ上げ、胸が熱くなる。愛おしさが込み上げてならない。
だが仙霞は、無慈悲なまでに素早く扉を閉めた。
(仙霞は……天然か、それとも計算なのだろうか)
静まり返った夜の廊下に、ぽつんと取り残された楊胤を、淡い月明かりだけが照らしていた。




