呪いの死体
蠱毒に中れば、体の穴という穴から蠱が入り込み、内を這いまわる感覚に苛まれるという。
やがて全身を掻き破りたくなる痒みに蝕まれ、腹を抉られるような激痛にのたうちながら、死の淵へと追い込まれていく。
最期には、目や口、耳や鼻といったあらゆる穴から無数の蠱が這い出る――
その忌まわしい噂通りの最期を遂げたのは、正二品の位を賜った梅昭媛である。
しかも彼女の腹には、主上の情けの証が宿っていた。
遺骸は通常の土葬を許されず、火葬によって葬られた。
焼け残った臓器には、蜂の巣を思わせるほどの無数の穴が穿たれていたという。
(これは厄介なことになりそうだ)
蠱毒による死と思われる後宮妃の死の顛末を、内侍長が淡々と告げる。
その死にざまはあまりに惨たらしく、場の空気は凍りついた。
皇帝の玉座前に集められた皇子たちは、一様に天揖の礼をとりながら耳を傾けていたが──その中でただ一人、億劫そうに小さくため息を洩らす者がいたことを、誰も気づいてはいなかった。
「呪殺だ」
内侍長が報告を終えると、文曜はまるで感想を述べるように一言吐き出した。
文曜は、眉の下がった温和な面立ちだが、威厳を強調するために顎鬚を蓄えている。御年二十七歳の皇嗣である。
皇嗣が口火を切ったことで、皇子たちは銘々に顔を上げた。
(呪殺だと? くだらない。呪いなどあるものか)
皆が青ざめる中、ただひとり、天揖の礼を崩さぬまま心中で悪態を吐いていた。
彼は皇子でありながらも、命じられるまでは頭を上げることさえ許されぬ立場にあった。
美貌を袖に覆い隠し、知略を忍ばせた瞳で、静かに床を見つめ続ける。
皇子たちは、大明宮の正殿・含元殿に召集された。大明宮は皇帝の居所であり、政務の場をも兼ね備えた広大な宮殿である。
含元殿はその中でもとりわけ格式高い正殿で、重要な儀礼が執り行われる。
殿内は天井高く、壁や柱には龍や鳳凰といった吉祥の紋様が描かれていた。
中央には高台に皇帝の玉座が据えられ、その背後は銀の帳や屏風で飾られている。
木格子の窓からは自然光が射し込み、荘厳な気配が満ちていた。
広大な殿内には、帝と五人の皇子、そして脇に十人ほどの宦官がいるだけだった。
玉座に深く腰をおろした皇帝は、足を組み、顎に手を当てて思案しているように見える。
権威を象徴する建物に召集された皇子たちは、何事かと緊張していたが、主上のくつろいだ態度を前に、重苦しい礼は不要と判断し、やがて率直に意見を交わし始めた。
「これは蠱毒の仕業に違いない」
「巫蠱は不動の罪だ。呪詛を行った者をただちに見つけ、一族皆殺しの刑に処さねばならん」
烈火のごとく声を張り上げ、皇帝の前で必死に己を印象づけようとしているのは、貴妃の子・文慶と淑妃の子・武羅である。
文慶は皇位継承権第二位、武羅は第三位。
二人は同い年の二十五歳で、互いに競い合うように「俺こそが」と言わんばかりに怒りをあらわにしていた。
文慶は兄・文曜と顔立ちは似ているものの、日に焼けた肌とがっしりした体つきに険しい目をした強面。
一方の武羅は、小柄で血気盛ん、きかん気の犬のような鋭い目をしている。
いずれも立派な大人のはずなのに、振る舞いにはどこか少年じみた幼さが漂っていた。
(文慶も武羅も、懲りずにいがみ合っている。いい歳をして、この幼稚さは一向に改まらんらしい)
男は小さく鼻で笑い、口の端をわずかに吊り上げた。
頭を垂れているかぎり、不敬など誰にも気づかれはしない。
ちなみに、貴妃の子である十五歳の文爽もこの場に顔を出していたが、おどおどと兄たちの様子をうかがうばかりで、口を開こうとはしない。
最年少ゆえ口を挟むことができぬのだろう。
(大人しくしているぶん、愚鈍な兄たちよりはまだ見込みがあるのか──いや、単なる意気地なしなのかもしれんが)
文爽も兄に似てはいるものの、その顔立ちは群を抜いて整っていた。
少年というより少女を思わせるほど線が細く、儚げな佳人ぶりである。
「宦官は何をしておる。即刻、大罪人を探し出せ」
文曜の叱責に震え上がったのは、殿の脇に控えていた宦官たちであった。
拱手の礼を取りながら、顔を伏せて肩をわななかせている。
「それができるのなら、わざわざお前たちを呼び寄せはせぬ」
皇帝・李赫が玉座より鷹揚に声を掛ける。
荒々しい口調ではないのに、その低く威厳に満ちた響きは殿舎の隅々にまで行き渡った。
皇帝は黒の上衣に赤の裳を合わせた玄衣纁裳をまとい、冕冠を戴いていた。
四十五歳を数えるとは思えぬほど肌は艶やかで、その瞳には鋭さが宿る。
豊かな髯をたくわえた姿は、まさに威厳漂う猛虎のごとし。
叱責にも響く皇帝の声に、文曜は気まずげに口を噤む。
「此度の事案を解けるほどの才を持つ宦官があればよいが、臆病で学のない卑賤の者ばかり。後宮ゆえに文官を遣わすこともかなわぬ。──そこで、お前たちの出番というわけだ」
宦官にとっては甚だしい侮辱であったが、彼らは薄気味悪い笑みを浮かべつつ皇子たちを見やった。
罵られることなど日常のことである。
それよりも、蠱毒の解明という厄介な任を押しつけられた皇子たちの不憫さが、滑稽でならぬのだ。
蠱毒は古来より畏れられる最凶の呪術であり、迂闊に関われば自らが呪われかねない。
その危うさを悟ったのか、威勢よく声を張っていた皇子たちの顔もたちまち青ざめる。
「し、しかしながら……蠱毒の知識がなければ……」
文曜は歯切れ悪く口を開く。
「その点については手立てがある。後宮の離宮に住まう蠱師と共に、罪人を探し出すがよい」
蠱毒は、蠱師のみが解蠱できるとされる。
ゆえに、蠱毒を放つことは大罪であっても、その知識を持つ者を囲っておくことは必要であった。
後宮には「蠱婆」と呼ばれる女の蠱師が、奥深い離宮に暮らしている。
後宮の蠱師は何百年も昔から代々受け継がれてきたのだ。
蠱婆は皇帝の命を守る契約の術を結んでおり、決して裏切ることはない。
もっとも、蠱毒そのものが長らく姿を潜めているため、後宮に蠱師がいることを知らぬ者も少なくない。
本来なら強力な味方となる存在だが、得体の知れぬ術師と手を組んで罪人を探すなど、誰も進んで引き受けたい役目ではなかった。
ましてや、罪人に逆恨みされて呪い殺される危険すらある。命の危険を伴う任務なのだ。
となれば、おのずと皇子の中でも、死んでも差し支えない者がその任に就くことになる。
皇子たちは一様に視線を向けた。
標的となったのは、ただひとり、いまだ天揖の礼を解いていない男であった。
嫉妬と羨望を集めるその美貌の面差しを隠すように、彼は一言も発せず、ただ俯いていた。
皇子たちは彼を見やり、安堵の嘆息を漏らす。
此度の任に、これほど相応しい者は他にいない──そう思えばこそ、己の身の安全も確信できるのだ。
「楊胤が適任でしょう。なにしろ楊胤は、科挙の進士科に及第した逸材にございます」
普段は楊胤など眼中にないといわんばかりの扱いをしている文曜が、このときばかりはわざとらしく称賛の言葉を口にした。
公子が科挙を受けることは、しばしばあることだ。
王侯貴族といえども民間の学問を修め、難関の科挙に及第したという実績は大いなる誇りとなる。
だが、実際に及第できる者はきわめて稀である。
とりわけ進士科は、数ある科目の中でも最難関とされ、めったに合格者を出さぬことで知られていた。
「此度の事案解明には、なによりも智謀が肝要にございましょう」
「皇子の身でありながら、科挙に挑み、しかも及第するなど容易にできることではございません」
文慶と武羅までが楊胤を持ち上げ始めた。
だが、楊胤が科挙に及第した折には、散々悪態を吐いていたのだ。
『そこまでして賢さを誇示したいのか、傲慢な奴め』だの、『皇位を狙っているのではないか』だの──耳を塞ぎたくなるほどの罵りようであった。
見事な手のひら返しを受けても、楊胤はいまだ顔を上げなかった。
内侍長の話を聞いた時点で、こうなることは予想していたからだ。
(死んでも問題ない者をあてがうのなら、まあ、俺だろうな)
楊胤は胸の内で独りごちた。
この中で最も身分が低いのは楊胤だった。
ほかの皇子たちが高位の妃から生まれているのに対し、彼の母は妃ではなく、ただの女官にすぎなかった。
そして彼女は、後宮妃に昇ることなく、自ら命を絶っている。
楊胤の母は、もとは徳妃に仕える侍女頭だった。
だがある日、徳妃のもとに通っていた皇帝の目に留まり、強引に身ごもらされてしまう。ちょうどそのころ、徳妃自身もまた懐妊していた。
やがて徳妃には皇女が、侍女頭には皇子が誕生する。
子どもの性別は母の位を左右する。
皇女を産んだ徳妃は位を下ろされ、代わって侍女頭が新たな徳妃に任ぜられた。
しかし、もともと徳妃を慕い仕えてきた彼女にとって、それは耐えがたい仕打ちだった。
主君を押しのけてまで妃の座を得た自分を赦せず、罪悪感に苛まれた末、彼女は自ら命を絶ったのである。
そのような経緯から、楊胤は女官の子として不遇な扱いを受けてきた。
もし母が生きていれば、徳妃の子としてほかの皇子たちとも肩を並べられただろうが、今となっては詮ないことである。
後ろ盾を持たぬ楊胤は、せめて宮廷に自らの居場所を得ようと科挙に挑んだ。
だが、その才覚はかえって兄たちの反感を招いてしまう。
楊胤に皇位を望む野心など一切ない。
ただ穏やかに日々を過ごしたいだけなのに、周囲はそれを許そうとはしなかった。
「皆がそう申しておるが、楊胤はどう思う」
皇帝の問いに、楊胤は心の内で深く嘆息する。
(断れるわけがないだろう)
「仰せのままに」
こうして楊胤は、梅昭媛に蠱毒を放ち呪殺した罪人を探し出す役目を負うこととなった。
面倒なことに巻き込まれたな――そのとき楊胤はただそう思っていた。
しかし、この事案がやがて宮廷をも揺るがす大騒動へと発展し、自らの未来を大きく変えることになろうとは、まだ知る由もなかった。




