書庫のふたり
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翌日、楊胤は約束通り仙霞を内侍書庫へ連れていった。
木造の建物内には多くの竹簡や絹本、そして巻物が壁際の棚に並べられていた。
高級な紙の書物もたくさんある。
静まり返った空気の中に、古びた紙と墨の匂いが混ざりあった香りが鼻腔を掠める。
仙霞は胸の奥が高鳴り、気を抜けば鼻血を出しそうなほど興奮していた。
思わず声を上げて小躍りでもしたら、管理の文官に叩き出されるに違いない。
必死に自制しながら棚を見つめる。
「蠱毒についての書物など、ほとんどないと思っていたが……意外と詳しく記されているな」
楊胤は、歴史書の頁を繰りながら呟いた。
蠱毒が猛威をふるい、宮廷を震撼させた巫蠱事件は、そう遠い昔のことではない。
人を呪い殺す手段として蠱毒が用いられた時代は、確かに存在していた。
猫鬼は猫蠱とも呼ばれ、ただ猫を飼っていただけで罪に問われることもあったという。
蠱師は死刑に処され、一族までも皆殺しとなる。
殲滅されたかに見えた蠱毒は、それでも後宮の奥でひそやかに受け継がれ、民間にも密かに伝わっていたのだろう。
「歴史書に書かれていることに疑問を持つなんて……楊胤様は不思議なお方ですね」
「ほう、それは俺を馬鹿にしているのか?」
「めっそうもございません!」
仙霞は目を丸くし、慌てて否定した。皇子を嘲るなど、命を投げ出すに等しい。
「仙霞は本が好きなのか」
楊胤が話題を変えたので、仙霞は胸をなで下ろす。余計なことを言って怒らせてしまったかと不安だったが、どうやら気にしていないらしい。
「はい。私は……知的好奇心が強いのだと思います。とても狭い価値観の中で育ったので、新しいことを知るのが楽しいのです」
自分で言ってみると、少しばかり自意識過剰に聞こえる気もする。だが事実なのだから仕方がなかった。
「知的好奇心か。俺も勉強は嫌いではないが……気味の悪いものは苦手だ」
「それは興味がどこに向くかの違いでしょうね。私は妃でなければ、死体解剖や人体実験などの職に就きたかったです」
楊胤は、思わず引くような目で仙霞を見た。
何か妙なことを口にしただろうか。
呪殺に心惹かれるわけではないと伝えたかっただけなのに。
仙霞は棚から人体解剖図の書物を取り出し、うっとりと眺める。
「人を殺したいと思ったことはあるか?」
楊胤の問いに、仙霞はしばらく考えてから、言葉を選ぶように答えた。
「……殺したいとは思わなかったですね。ただ、自由になりたいとは思いました」
その答えに、楊胤は目を丸くした。
「そんなに驚くことですか?」
「……いや。俺も同じことを思ったことがあるから、驚いたのだ」
仙霞はくすりと笑った。
「正反対のように見えて、案外似ているのかもしれませんね」
楊胤は雷に打たれたような顔で仙霞を見つめていた。
先ほどから、どうしてそんなに驚いた表情ばかりするのだろう。
仙霞の過去については、まだ何ひとつ語っていないというのに。
「殺したいと思ったことはありませんが、死んでいる動物や虫を解剖することは、よくありますよ」
楊胤は気味の悪いものでも見るように目を細めた。
「……お前に似ているとは、二度と言われたくないな」
「楊胤様は、私をなんだと思っているのですか」
仙霞は腹立たしげに問い返す。
蠱師見習いだからといって、加虐趣味があると思われているのだろうか。失礼な話だ。
「さあな。俺が聞きたい」
楊胤は気だるげに文机へ肘をつき、手の甲に顎を預けた。
妙に切なげな眼差しで仙霞を見つめる。
(俺が聞きたいと言われても……)
本人が分からないのなら、こちらに分かるはずもない。
「お前は? 俺のことをどう思っている?」
楊胤の意味ありげな瞳が、仙霞をとらえる。
「…………」
仙霞はしばし考え、これまでの出来事を思い返した。
「さあ。どうも思っていないと思います」
その返答に、楊胤は露骨に不機嫌な顔をし、しばらく口をきいてくれなかった。
仙霞はうろたえる。失礼なことを言ったつもりはないのに、なぜ怒るのだろう。
思い返せば、彼は悪い人ではない。
下級妃の仙霞にも気を配ってくれ、具合が悪ければ横抱きにして運んでくれたし、高価な冊子を分けてくれたこともある。
仙霞の前では仮面を外し、素の表情を見せてくれているようだ。だが、だからといって「どうも思わない」のも事実だった。
(優しいですね、とか。綺麗なお顔ですね、とか……そういう褒め言葉を言う場面だったのだろうか)
きっとそうだ。世間一般では社交辞令を述べるべき場面だったに違いない。
(またやってしまった)
仙霞は慌てて機嫌を直そうと、褒め言葉を絞り出した。
「楊胤様は、いい性格をしていますよね」
「喧嘩を売っているのか?」
ますます不機嫌になる楊胤に、仙霞の困惑は深まるばかりだった。




