呪毒の余熱
(まさか、ここまでとは。最悪の事態かもしれない)
仙霞は悪夢にうなされるように荒い息を繰り返しながら、寝台に身を沈めた。
猫鬼を抱いている間は、まだ動くだけの気力があった。
けれど離したとたん、全身の節々が痛み出し、一気に熱が噴き上がる。
朝日が昇ると、猫鬼は薄情にも姿を消してしまった。
そうして墓掘から帰って来た仙霞は、昏々と眠り続けている。
人々が動き始める時刻になっても、起き上がることはできなかった。
「困ったな……ここには世話をする女官もいないのに」
寝台の脇に立ちながら、楊胤が低く呟く。
(迷惑はかけられない)
仙霞は無理に身を起こそうとしたが、その瞬間、楊胤の腕に抱き上げられた。白檀の香が鼻腔をくすぐる。
「悪いな。ここに長居はできぬ。しばらく我慢していてくれ」
横抱きのまま歩き出す楊胤に、仙霞は慌てて声を上げる。
「大丈夫です。自分で歩けますから」
「いいから、寝ていろ」
皇子は平然とした顔で歩を止めず、外へと出た。
その姿を目にした後宮の女官や下女たちが、悲鳴にも似たざわめきを上げる。
――秀麗な皇子が、若い娘を横抱きにして歩いている。
熱のせいで霞む意識の中でも、仙霞には周囲からの嫉妬混じりの視線が突き刺さるのが分かった。
(これでは、後宮でも東宮でも妙な噂が立ちそう)
不本意ではあるが、どうしようもない。
仙霞は観念し、楊胤の腕の中で本当に眠ってしまうことにした。
瞼を閉じると、猫鬼を抱いていたときのような温もりに包まれる。
楊胤にも癒しの力があるのか。そう驚く間もなく、仙霞の意識は夢へと沈んでいった。
楊胤に横抱きにされて東宮へ戻った仙霞は、それから半日ものあいだ眠り続けた。
目を覚ますと、窓の外はすでに茜色の夕陽に染まっている。思わず息を呑む。
ほどなくして、彼女が目覚めるのを待っていた女官が粥を運んできてくれた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
熱はすっかり下がり、あの重苦しい息苦しさも消えていた。体が羽のように軽い。
「それはようございました。楊胤様があなたを抱えて戻られたとき、家中の者が目を丸くしておりましたよ。……早くお身ごもりなさるといいですね」
「――身ごもる?」
あまりに唐突な言葉に、仙霞は呆然と声を洩らした。
「それでは、これで失礼いたします」
東宮の女官には若い娘はおらず、みな所帯を持った中年の女性ばかり。
不敵な笑みを残して下がっていった彼女も、すでに成人した子を持つ母親だと聞いている。
だからだろうか。若い妃なら嫉妬の矛先になりかねないが、彼女たちは仙霞に親切だった。
いい年を重ねてもなお女性に興味がなさそうに見える楊胤を案じているのは、どうやら仙霞ひとりではないらしい。
(そもそも、私が心配するようなことではないのだけれど)
それに、楊胤と仙霞の仲は、いつのまにか公然と認められたような扱いになっていた。
出自も定かでない女官が皇子と親しくするなど、ふつうなら反対の声が上がるはずだ。
それがないということは、これまで楊胤には一切浮いた話がなかったという証だろう。
(私が名門の令嬢であれば、結婚を望まれるのかもしれない。けれどそうではないから、「せめて子を成して妾に」とでも思われているのかしら……)
考えれば考えるほど、苦笑いが漏れそうになる。
第一、楊胤と仙霞のあいだに恋など芽生えるはずもない。
彼はいつも半眼で仙霞を見やり、呆れたように息を吐くばかりだ。
そもそも仙霞は後宮妃。
すでに帝に嫁いでいる身であり、もし楊胤と良い仲になれば、それは不義となる。
(何を考えているの、私は)
万に一つもあり得ない想像に時間を割くなど無駄なことだ。
思考を強引に逸らし、蠱毒のことを考える。
まさか、あれほど強い呪力を放つとは思わず、うかつに近づきすぎてしまった。己の未熟さを痛感する。
これほどの呪力を持つ者なのに、実際に会っても気づけなかった――それは熟練の証に違いない。
だが、だからといって呪いの影響が及ばぬ保証はどこにもないのだ。
(もしも古の契約がなく、自由に蠱術を使えたとしても──蠱婆でさえ「呪殺を行えば、ただでは済まない」と言っていたわ)
それほど恐ろしい術なのだ。強大な力を振るえば、必ず自分にも跳ね返る。無傷ではいられない。
(四夫人の中の誰かが罪人だとすれば……私が蠱師見習いだと気づいたかもしれない)
これほどの呪力の持ち主だ。わずかな蠱毒の気配を察知していても不思議ではない。
(もし私に呪いが降りかかるのなら、それは罪人が四夫人の中にいるという証拠。でもその代わり、私は死ぬかもしれない……)




