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蠱毒の後宮妃  作者: 及川 桜
第一章 蠱毒の妃
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風変りな妃

小さな籠に見つけた青虫を一匹ずつ放り込んでいく。


やがて二十匹ほどで籠がうごめき満ちると、女は微笑を浮かべた。


少女のあどけなさを残しながらも、妙齢の艶やかさを纏ったその姿は、妖しげな魅力を放つ。


やけに官能的な笑みを浮かべ、籠を愛おしげに抱えて華蠱宮かこきゅうへ戻ってきた女に、采女うぬめが声を掛けた。


「ご機嫌麗しゅうございますね。中には何が入っているのですか?」


女はふと立ち止まり、抱えていた籠の蓋をゆるやかに開ける。


「青虫よ。これから毒草を食べさせるの。蝶になるのかしら……それとも、死ぬのかしら」


その言葉を耳にした采女の顔は、みるみる青ざめて硬直した。


籠の中で蠢く無数の青虫を目にしたことに加え、女が残酷な言葉を微笑とともに紡いだからだ。恐怖は一層募った。


良かれと思って声を掛けた采女の新人は、慌てて駆け寄った仲間に袖を引かれ、その場から救い出された。


「だから、あの方には近づいてはいけないと言ったのに!」


「これでよく分かったでしょう。あの方は鬼人なのよ」


女から少し離れた場所で、采女たちはひそひそと囁き合っていた。


聞こえていないと思っているのだろう。


だが、その言葉はすべて女の耳に届いている。


いや、むしろわざと聞かせているのかもしれなかった。


(鬼人などではないのに)


本当は仲良くなりたくて、青虫を見せただけだった。けれど、どうやら怖がらせてしまったらしい。


(まあ、いいわ。毒草を探しに行きましょう)


女は青虫の入った籠を自室に置き、軽やかに外へ歩み出た。


 女の名は、仙霞せんか


正六品の宝林ほうりんの位を賜る後宮妃である。


小瓜のように小さな顔立ちに、宝玉めいた大きな瞳。紅を差さぬ唇は、なお珊瑚の色を帯びて艶やかに光る。小柄で華奢な身を包むのは、豊かに流れる黒髪の艶。


一見すれば幼くあどけなくも見える仙霞だが、その瞳は理知を湛え、どこか掴みどころのない気配を漂わせている。


声音は落ち着いており、年上に思わせるほどだが、実際は十八歳に過ぎない。


十五歳ほどの童にも、二十代の妙齢にも映る──年齢を測りがたい独特の色香を纏った女であった。


(どんな毒草を与えようかしら。苦しみ合い、互いを喰らい尽くすようなものがいいわ)


想像するだけで胸が高鳴り、思わず微笑が零れる。


(ああ、楽しみ。青虫の体からどろりとした液が滲み出すのかしら。死臭が籠を満たし、引きちぎられた肉片が転がる様をじっと見ていたい)


仙霞は頬を桃色に染め、膝を弾ませるように小躍りして華蠱宮を後にした。


仙霞が姿を現しても、采女たちは今度こそ誰ひとり声を掛けようとはしなかった。


仙霞は下級妃の中でも際立って浮いた存在である。


年頃の娘たちが夢中になる話題は、仙霞にとっては眠気を誘うほど退屈で、興味を示したことがない。


代わりに彼女は、虫や蛙を捕らえては解剖しているような女なのだ。


医者であれば、手術の鍛錬に小動物を解剖することもある。それと同じことをしているに過ぎないのだが、周囲にはどうにも理解されなかった。


しかし、仙霞が周囲から忌まれているのは、それだけが理由ではなかった。


彼女が蠱毒の継承者と目されているせいでもある。


蠱毒――それは、古来より人々が畏れ続けてきた最凶の呪術である。


数ある術の中でもとりわけ禍々しいとされ、その名は歴史書にも刻まれている。


実際、かつては「蠱病」と呼ばれる病まで存在し、『神農本草経』や『五十二病方』といった医書にもその名が記されている。


さらに歴代王朝では、皇帝や皇后、そして後宮全体を震撼させた「巫蠱ふこ事件」が史実として伝えられており、蠱毒がただの伝説ではなく、実際に王朝を揺るがした呪いであったことを物語っている。


蠱毒の脅威は、歴代王朝によって徹底して排除されてきた。


だが、蠱毒を解くことができるのは蠱師のみ。ゆえに後宮の奥深くに彼らを密かに匿う必要があった。


──そうして築かれたのが、仙霞たちが暮らす華蠱宮である。


蠱婆こばと呼ばれる蠱師の世話をするために集められたのは、年若き女子おなごたちだ。


俸禄を引き上げ、妃の位を与えてようやく人を募り、どうにか宮を維持していた。


華蠱宮は後宮の奥深くにあり、皇帝はおろか他の妃たちですら足を踏み入れることはない。


後宮に仕える者の中には、華蠱宮という宮の存在すら知らぬ者がいるほどだった。


現在、華蠱宮に暮らす妃は、蠱婆を除けば五人だけである。


彼女たちはいずれも後宮妃の最下位にあたる采女の位を賜っていたが、仙霞だけは蠱師の跡取りとして特別に宝林の位を与えられていた。


そのため采女たちにとっては身分が上で気軽に声をかけられず、加えて蠱師見習いという不気味さと、近寄りがたい性格ゆえに、ますます敬遠されていた。



もとは吹けば飛ぶような小国の公主であった仙霞。


公主とは本来、皇帝の実の娘に与えられる称号である。


だが仙霞の場合は血筋ではなく、皇帝の養女として名を連ねただけにすぎなかった。


そうして彼女は、冊封公主さくほうこうしゅとして大国・趙羅ちょうらこくへと嫁がされることとなった。


平和の証としての人質などではなく、ただの人質ひとじち


だが、仙霞が命を落としたところで、小国・安紗あんしゃこくが揺らぐことは決してないだろう。


とはいえ、容姿端麗な仙霞を送り込んだのは、あわよくば上級妃として皇帝の寵愛を得させようという算段でもあった。


しかも仙霞の両親はもともと趙羅国の出身で、その言語を自在に操れたことも追い風となった。


しかし、十六の娘が四十を超えた男に心から寵を望むはずもない。


仙霞にとって華蠱宮の妃となる道は、まさに渡りに船の吉報であった。


それから二年が過ぎ、十八となった仙霞は、もとより旺盛な知的好奇心をもっていたこともあり、蠱毒という怪しげな術にいよいよ強く惹きつけられていった。


さまざまな学びはそれ自体楽しいものだったが、何より仙霞を惹きつけたのは蠱毒づくりであった。


虫同士を狭い器に閉じ込め、互いに殺し合わせる――


透明な器の中で捕食し合うさまを眺めていると、ぞくりとするほど刺激的だった。


蠱毒を造蠱することは固く禁じられている。


だが仙霞はいまだ成功を収めておらず、そのために罰を受けることもなく済んでいた。


見つかれば厳罰は免れず、たとえ鞭打ち百回の刑に処されようとも、蠱毒を生み出す得も言われぬ甘美な魅力には抗えない。


まして華蠱宮には外部の者がほとんど訪れぬ。気づかれるはずもない――そう思えばこそ、仙霞は薄く微笑みを携えるのだった。



華蠱宮の周囲には、数多の毒草がひそやかに生い茂っていた。


後宮内で毒を作ることは禁じられているため、一見しただけでは毒草と気づかぬようなものばかりである。


鈴蘭すずらん金鳳花きんぽうげ大笠持おおかさもちなど、可憐な花を咲かせる草花ゆえ、後宮の庭にも珍しくない。


知識がなければ、とてもそこが毒草の群れる地だとは思うまい。


幾度実験を重ねても、蠱毒は容易には生まれない。


蠱師となるには知識のみならず、霊的な修練を積むことが不可欠であり、通常は数十年もの歳月を要するといわれていた。


だが、もとより不思議な力を備えていた仙霞は、瞬く間に頭角を現す。


いずれ蠱婆を継ぐのは仙霞だと囁かれ、本人もまた、その継承を望んでいた。


花弁を落とした葉を指先で摘み取りながら、仙霞は心の中で冷ややかに呟いた。


(蠱師にはなりたいけど、蠱婆と呼ばれるのは御免だわ)


いまの蠱婆の年齢を考えれば、十年もしないうちに役目を継ぐことになるだろう。


その頃の自分は、二十代か、せいぜい三十代のはじめ。婆と呼ばれるには、あまりに早い。


かつては中年の下級妃が跡取り候補とされたが、蠱婆より先に死んでしまった。


結果として、仙霞は後宮史上もっとも若い蠱師となる。


仙霞にとっては、ありがたくもない名誉である。


青虫が好みそうで、なおかつ毒性の強い葉を集め終えると、仙霞は華蠱宮へ戻ることにした。


空は茜と群青が溶け合い、夕陽の金の欠片があしの群れへ降り注いでいる。


日はすでに暮れかけていた。


風がさあっと走り抜け、葦の葉がざわめいた刹那、仙霞の頭の内に映像が流れ込む。


背の高い、まだ若い男。その傍らには、付き従うように立つ年配の宦官。


逆光のせいで顔は見えない。ただ、草むらを背にこちらを見据える二つの影。


その後ろに揺れる葦は、華蠱宮のものによく似ていた。


(誰かが……ここに来るの?)


 脳裏に浮かんだ景色は、瞬く間にかき消えた。



それ以上の手がかりは、どこにもない。

 仙霞は幼い頃から未来を垣間見る力を持っていた。


それは自ら望んで視られるものではなく、予告もなく頭の奥へ流れ込む、断片的な映像にすぎない。


 そしてこの日、葦のざわめきとともに視えた光景は──数週間後、日暮れの空の下で、ふいに現実となる。


 そのとき出会う彼の正体は、仙霞の未来を大きく揺るがす存在であった。



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