喚賢妃の宮
「最後は、喚賢妃だな。南方の国の公主で、五歳の娘を産んでいる。賢妃は二十五歳。帝の寵愛を最も受けていると聞く」
「花盛りの時期ですからね」
──帝は若い女性が好みなのだろう。
若すぎてもいけないらしいが、好みがあまりに分かりやすい。
平民の平均寿命は四十代前後であるから、もう隠居してもおかしくない歳なのに、お元気なことだ。
本音を言わせてもらえるとしたら『好色家め』と吐き出したいが、心の中だけで抑えておく。
喚賢妃の宮殿は、落ち着いた趣をたたえた建物だった。
無駄な装飾はなく、かといって質素というわけでもない。
庭園には太湖石や古木が配され、花々の華やかさこそ少ないが、自然美を生かした風光明媚な景観が広がっている。
案内をする侍女たちも、上等な絹の衣をまといながらも華美ではなく、清楚で品のある雰囲気を漂わせていた。
(……なんだか落ち着く)
食傷気味だった胸のつかえが、すっと軽くなるようだった。
宮殿内も静謐で整っており、通された客間は竹の文様で彩られた、凛とした趣のある造り。
静けさの奥に、なにか張りつめた気配が潜んでいるように感じられた。
「ようこそいらっしゃいました」
鈴の鳴るような声で立ち上がって迎えてくれたのは、喚賢妃だった。五歳になる娘も傍らにいる。
華美さこそないが、楚々とした美しさを湛え──そして何より、豊満な胸元に自然と目を奪われる。
帝が夢中になるのも無理はないと、女である仙霞にも分かった。
娘は人見知りらしく、母の袖の影に隠れてしまう。
やがて茶菓が配されると、仙霞と敬宋の分まで用意されていた。
椅子も整えられ、共に談笑することを許される。
性格まで良いとは、恐れ入る。
仙霞がもし男であったなら、この瞬間に恋に落ちていたかもしれない。
楊胤もさぞ鼻の下を伸ばしているかと思い、横目で覗いてみる。
──だが彼はこれまでと変わらず、偽りの仮面を被ったまま、当たり障りのない言葉を返すばかりだった。
(……女性に興味がないのだろうか)
仙霞は、なぜか他人事ながら心配になる。
眉目秀麗にして秀才、引く手数多のはずなのに、未婚のままなのだ。
喚賢妃は楚々として美しく、柔らかな物腰で場を和ませる。
だが、その袖に隠れるように立っていた娘は、しきりに母の裳裾を握りしめ、落ち着かない。
茶を囲む間も、突如愚図り出しては泣き、侍女が宥める──そんな様子が繰り返された。
そして、楊胤が梅昭媛について尋ねても、返ってくるのは当たり障りのない答えばかり。
途中で子どもが愚図りはじめ、まともに会話は続かなかった。
結局これといった収穫も得られぬまま、一行は宮殿をあとにした。
「どうだった?」
「茶菓子が美味しかったです」
「……そうか。それは良かったな」
楊胤は明らかに疲れを滲ませている。
『四夫人に会いましょう』と言い出したのは仙霞なので、多少申し訳ない気分になる。
「他国の公主と聞いていましたが、喚賢妃は言葉がとても流暢でしたね」
「ああ。喚賢妃の母は趙羅国の出身らしい。ただ田舎の地方だと聞いている」
「田舎……どの辺りですか?」
「そこまでは詳しく調べないと分からないな」
「そうですか。それにしても、喚賢妃は私と似ていますね。私も他国生まれですが、両親が趙羅国出身なので元から話せました」
「そうだったのか」
「揺淑妃も他国のご出身だとか。少し古めかしい言い回しはありますけれど、流暢でしたね。……さすが年の功です」
その瞬間、楊胤が半目でじっと仙霞を見据えた。
(あれ、また何か余計なことを言った?)
年の功と言ったのがまずかったのか。本当のことなのに。
楊胤はごほんと咳払いをして真面目な顔に戻る。
「それで、何か分かったか?」
「敬宋さんが、何も話さないということだけは分かりました」
それが知りたいんじゃない──楊胤は視線で訴える。
しかし仙霞は、至極真面目に答えているだけだ。
「そうだな。敬宋は話せないのか、話さないのか……昔からずっとこうだ」
護衛を兼ねるはずの宦官に、なぜ頼りなげな敬宋を選んだのか。
その理由が少し見えた気がする。秘密を抱えた身にとって、余計な口を利かない者こそ最良なのだ。
「では──罪人の手掛かりは?」
「一つ、大きな疑問が浮かびました」
「疑問?」
楊胤は眉をひそめる。
「この件、本当に蠱毒が絡んでいるのでしょうか」
「そもそもじゃないか!」
思わず声を荒げる皇子に、仙霞は落ち着いた口調で続けた。
「四夫人からは蠱毒の気配がまったく感じられませんでした。それが意味するのは三つです。一つ目──四夫人に罪人はいない。二つ目──呪殺ではなく、ただの病死であった。三つ目──術師が常人離れした力を持ち、気配を完全に隠している」
「なるほど。病死という案が浮上してきたわけだな」
仙霞は神妙に頷いた。重たいものを吐き出すように、物々しく口を開く。
「正直、四夫人の中に罪人はいないという可能性は限りなく低いと思っています。理由は前回に申し上げた通りです。となると、蠱毒は関係していないか、あるいは蠱師の実力が予想以上に高いかのどちらかです。できれば前者であってほしいと切に願います。もしも後者であった場合、大変なことが起きます」
楊胤は緊張した顔で仙霞を見つめる。
「大変なこととは?」
「愚痴を零している暇はない、ということです。もし本当に蠱毒なら、次の犠牲者が出ます。楊胤様もおっしゃっていましたよね、三年以内に誰かを害さなければ蠱師が呪われると。蠱毒は扱えば扱うほど跳ね返り、避けるには誰かに呪いをかけ続けるしかないのです」
楊胤は眉を寄せ、口を開いた。
「蠱婆が誰かに頼まれて術をかけたという可能性はないのか?」
「ありません」
仙霞は、間髪入れずに答えた。
「なぜだ。それが一番効率的だろう。呪殺を望む者は危険を冒さず目的を達することができる」
「後宮の蠱師は、呪いをかけることを禁じられている契約に縛られているのです。もし呪いで誰かを害したら、その蠱師自身が呪いで命を落とします」
「絶対か?」
「ええ、絶対です。そもそも当然でしょう。後宮の蠱師が呪いを使えたら、宮廷はたちまち崩れます。後宮の蠱師は宮廷を守るために存在しているのです」
楊胤は顎に手をやりながら、「なるほどな」と小さく呟いた。
「だからこそ、この件が本当に蠱毒によるものかをはっきりさせるべきだと思います。蠱毒を扱えば蠱師にも影響が出始めるはずですから」
「影響とは、具体的には?」
「精神が乱れます。呪いは心身を蝕みますから」
「蠱毒とは、恐ろしいものだな」
「そうです、怨念の塊ですよ」
仙霞は淡々と告げる。
楊胤は『お前はよく平気でいられるな』と言いたげに呆れた目を向けた。
「で、はっきりさせる方法があるのか?」
「はい。梅昭媛の墓を調べましょう」
楊胤は大きく息を吐いた。
「それ以外に蠱毒か否かを判別する方法はないのか」
「ありません」
「遺体の一部を見れば、本当に分かるのだな?」
「はい。病気とは明らかに違いますから」
仙霞は楊胤の瞳をじっと見つめた。
以前、墓を暴こうと言ったときは好奇心が大きかった。
単純に、人間の死体を間近で見てみたいという欲だったのだ。
だが今回は違う。蠱毒か病死か、真偽を決めるための必要な行為だ。
心の奥底では、できれば病死であってほしいと強く願っている。
「……お前には負けたよ」
何に負けたのだろうか。勝負を挑んだつもりはない。
「俺もそろそろはっきりさせたい。蠱毒でなければ、こんな罪人探しの面倒事は終わらせられる。今夜、決行する。起きていろよ」
楊胤の言葉に、仙霞の顔がほころんだ。
墓を暴いて遺体を直接見る機会など、めったにあるものではない。
必要に迫られての行動とはいえ、実際に見られると知的好奇心が腹の底からうずき出す。
頭では不謹慎だと分かっていながらも、その衝動を止められない自分に気づき、自然と口角が上がってしまう。
そんな仙霞を見て、呆れたような眼差しを向ける楊胤であった。




