宇徳妃の宮
「さて、次は宇徳妃だ。正一品である太尉の娘で、十八歳。最近入宮したばかりだ」
「私と同い年ですね。これまで徳妃はいなかったのですか?」
その問いに、楊胤の目が一瞬、切なげに濁った。
「もちろん、いた。貴妃と淑妃は変わらずに座を守っているが……徳妃と賢妃は、世代交代が繰り返されてきた。帝は若い女性を好むからな」
「子を増やす使命のためでは?」
「いいや。あまり増えすぎれば、争いを呼ぶだけだ」
その声音には、どこか苦い影が差していた。
梅昭媛も二十二歳だったと聞いている。
皇帝の子を宿したがゆえに呪殺されたのだとすれば──たしかに争いを増やすだけだ。
すでに成人した皇子が何人もいるのだから、これ以上子を増やす必要はないはずだ。
「お子様は?」
「まだいない。お手付きにもなっていないと聞く」
「どうしてでしょう?」
「……まあ、会えば分かるさ」
楊胤は意味ありげにそう言って、会話を打ち切った。
そうして一行は、宇徳妃の宮殿へと辿り着いた。
庭園は色とりどりの花木に囲まれ、まるで小さな広場のように開けた造り。
妃によって宮殿の趣が異なるものだと、仙霞は妙に感心する。
揺淑妃の宮に比べれば、規模はずっと小さい。
年配の侍女に導かれ庭を進んでいると、裳裾を華やかに揺らしながら、ひとりの少女が駆けてきた。
「お待ちください!」
と慌てて追いかける侍女たち。
何事かと見守る仙霞の前に、その少女は立ち止まり、息を弾ませながらも無邪気な笑みを浮かべた。
「お待ちしておりました! 楊胤様」
大輪の花が咲きほころぶような笑顔を、少女はまっすぐに楊胤へ向けた。
「お久しぶりです、宇徳妃」
楊胤がそう呼ぶと、仙霞は思わず目を丸くする。
宇徳妃は十八歳のはずだ。だが目の前の少女は十五、六にしか見えない。
体つきもまだ幼く、色香とは無縁の、ただ無邪気な印象しか与えない。
「今日はお天気もいいから、四阿でお茶にしましょう」
宇徳妃は当然のように楊胤の腕へ絡みつき、軽やかに歩き出す。
小さな子どもに懐かれているような感覚なのか、楊胤は照れるでも拒むでもなく、そのまま受け入れている。
宇徳妃が楊胤を慕っていることは明らかだった。
四十五歳の壮年の帝に嫁ぐより、眉目秀麗な若い皇子を想う方が自然だろう。
そう考えると、宇徳妃の境遇が不憫にも思える。
(……お手付きがない理由が分かったわ。さすがに、この子に手を出していたら引く)
やがて二人は庭園の中の四阿──壁のない涼やかな休憩所に腰を下ろした。
仙霞と敬宋、そして宇徳妃の侍女たちは脇に立ち、静かにその様子を見守る。
「私、今日をずっと楽しみにしていたのですよ。楊胤様が宮に来てくださるなんて夢のよう。いつでも来てくださっていいのですからね」
「そうはいきません。宇徳妃は父の大事な妃なのですから」
楊胤の言葉に、宇徳妃は頬をぷうっと膨らませた。
怒る様子すら幼く、これでは皇帝どころか楊胤からも、女性として相手にされないのが目に見えている。
「私、お父様から無理やり後宮に入れられて恨んでいたのですけれど……徳妃という立場は気に入っておりますの。だって、楊胤様のお母様も徳妃だったのでしょう?」
「いえ、私の母は徳妃様の侍女頭です」
「似たようなものよ。運命的なものを感じませんか?」
「……そうでしょうか」
(知らなかった。楊胤様のお母様は、元徳妃の侍女頭だったのね)
思わぬところで、楊胤の出自を知ってしまった。どこか訳ありの影がのぞく。
女官といえど、高位の妃に仕える者は容姿端麗で、下級妃よりも上等な衣装をまとい、華やかさを備えている。
とはいえ、それはあくまで仕える妃の品位を高めるためであって、皇帝の目を引くためではない。
だが、最も身近な侍女が皇帝の寵を得れば、妃にとっては屈辱でしかない。
関係が悪化するのも必然だ。
楊胤の皇位継承権が低いのも納得できる。
侍女の子どもなど、後宮妃たちからすれば疎まれて当然。
科挙に及第するほどの才がありながら、蠱毒の罪人探しを押しつけられた理由も、ようやく合点がいった。
宇徳妃との懇談も終わり、残るは喚賢妃のみとなった。
仙霞はただ側で聞いていただけだが、高位の妃と立て続けに対面し、さすがの楊胤もどこか疲れをにじませている。
「宇徳妃はどうだった?」
「考えも行動も幼いですね。もし彼女が罪人だったとしても、侍女に唆されるなどしない限り、自ら蠱毒に手を出すとは思えません」
年若い妃だからか、侍女には年配が多く、まるで子守りのように付き従っていた。
だが──幼いがゆえに、悪賢い大人に利用される危うさはある。
「俺もそう思う。あんな少女を四夫人に加えるとは……帝はなぜ断らなかったのか」
吐き捨てるような声。
そこには父である帝への侮蔑がはっきりとにじんでいた。
完全なる政略結婚であることは分かる。
だが歳若い妃の心情など、誰も顧みてはいないのだ。
仙霞も一応は後宮妃。
帝に望まれれば、夜を共にせざるを得ない。
考えただけで、嫌悪感に肌が粟立つ。
それが嫌で華蠱宮に籠ったようなものだった。
──ふと、仙霞は自らが安紗国の公主となった経緯を思い出す。
麝香の濃い匂いが漂う中、交わる男女の裸体と、怪しげな儀式。
幼き日の仙霞の眼前で繰り広げられた、大人たちの醜悪な光景は、今なお鮮烈に記憶へ焼きついている。
──宇徳妃があれほど幼さを漂わせているのも、もしかすると。
意識的か無意識かは分からないが、手を出されぬよう成長を止めているのかもしれない。
「こんなことを申したら首を刎ねられそうですが……帝はあれですね、なかなか……あれですね」
さすがの仙霞も、言葉にするのを憚った。だが「あれ」で楊胤には通じたらしい。
「先ほども少し話したが、俺の母は前徳妃の侍女頭だった。母の名誉のために言っておくが、母が帝を誘惑したわけではない。望んでもいなかった。前徳妃と同じ時期に出産していることからも分かるように、おそらく帝は、徳妃の元へ通ったついでに母にも手をかけたのだろう。そして、前徳妃は女を産み、母は男を産んだ。その後、帝は前徳妃を降格させ、母を徳妃に据えるよう手配した。……だが、母は前徳妃に申し訳が立たぬと自害した」
壮絶な生い立ちを告げられ、仙霞は息をのむ。言葉が出てこなかった。
「どうして、そのようなことを私に?」
「……もしかしたら、この情報も必要になるかもしれないだろう。帝は業が深いのだ」
四夫人と向き合ううちに、自然と帝の素顔も垣間見えてきた。
確かに、今聞かされた話は、帝の鬼畜さを最も端的に示す出来事だ。
蠱毒は、恨みや呪いの感情が引き金となって生み出される。
女たちの怒りや怨嗟が折り重なり、凝り固まり、いまや後宮にはそれが淀みのように充満しているのかもしれない。
すっかり気分が沈んでしまった。
四夫人の話題にはもううんざりするほど疲れ果てていたが、これで最後だ。
仙霞は残る気力を振り絞り、宮殿へと足を向ける。




